俺は始まりの地、あの自販機の前に足を運んでいた。そして自分の無力を知る。

「クッソ、残ってなかった……!」

 氷の竪穴は日陰のどこにも姿がない。ダンジョンへの入口は口を閉ざしている。

 これも蝉谷さんの手記通りだ。

『水流と気流、上昇気流が地上へ向かう性質上、ここと上を繋ぐ通路は常に流動している。時間が経過すれば、地上の穴は塞がってしまうだろう』

 俺がダンジョンから出た時も、入口とは別の場所だった。
 簡単に言えば、通路は常にランダムなのだろう。

「やっぱり、俺が知ってる入口からは、もう行けないってことか?」

 どうにか入口の手がかりがないかと、蝉谷さんの文字を目で追いかけた。
 化学式と計算のページをペラペラ捲った先で、突然デフォルメされた経路図が現れた。

『私が潜った洞窟の場所を地図に起こした。そこならば君が行く際にも冷気の入り口が開いている筈だ』

 文言の下にはこの街にある山と、洞窟へ続く道が分かりやすく描かれている。

 山の参道を抜け、鳥居を見上げる位置に入口はあるという。地元の人間なら見れば子供だって行ける図だ。

 この地図通りなら救助隊でも送ることは出来るだろう。でも問題はそこじゃない。

「こんなの、誰も信じてくれる訳がねぇ」

 高校生がどれだけ訴えたって、大人はきっとすぐ動かない。仮に救助隊が派遣されるとしても、一体いつになることやらだ。

「ダンジョンが爆発するかもしれないってのに、時間も……」

 この気温の急上昇だ。あのクリオス結晶がダンジョンを崩壊させるかもしれない。
 あらゆる危険が頭を過ぎって、その度に打ちのめされる思いだ。

 頼れる人はいない。両親も友達も今この街にはいない。八方塞がりな状況に加え、強烈な灼熱が体力を奪う。

「ダメ、だ、暑さで……」

 装備を整えてもこの最高気温の方が上手(うわて)だった。

 麦わら帽子や水を被った程度じゃ物足りない。
『避暑時間』なんて言葉が生まれたほどだ。暑さは気合いや根性みたいなもので太刀打ち出来ない。

「気温が、どんどん上がってく……」

 スマホのニュースアプリでは最高気温を更新されていった。太陽の絵文字は今日から来週まで危険なレッドカラーだ。

 日陰を求め、熱で揺れる体を運んだ。ガードレールの影の中へ倒れ込んで僅かな涼を求める。
 洞窟までまだあるってのに、体が命令を無視し始めていた。

「ちくしょう、どうにか――」

 蜃気楼が脳裏のスズカ達の顔を歪ませ、蒸発させようと襲い掛かってきた。

 このまま助けたい人達に会うこともできないで、俺は暑さに殺されるのか。
 炎天下はそんな考えを強制させた。意識も混沌に片足を踏み込む。


 最中、指先に何かが触れた。

 小さな感触の正体は、一本の折れたクレヨンだ。
 倒れた拍子にリュックから落ちたのだろう。

(……あ、懐かしいな)

 ずっと昔に使ったクレヨン。お守り代わりに持ち続けたそれが、幼い日の夏の記憶を引き出す。


 ――やけに蒸し暑い夏の事だった。

 今でこそおしどり夫婦な両親も、俺が小三の頃はすれ違いが原因でよく喧嘩をしていた。
 父さんも母さんも、あの頃は夫婦生活最大の危機だったと語っているほどだ。

 子供の俺に夫婦喧嘩の解決方法なんて分からなかった。でも両親には仲直りして欲しかった事は覚えてる。

 だから、家族三人の絵を描いてみた。

 丸も綺麗に描けなかった俺が、家族写真を見て丁寧に真似して描いたんだ。
 その時のように笑って欲しくて。

 歪んだ輪郭、拙い描き分け、アンバランスな配色。クオリティは決して高くは無い似顔絵だ。

『お父さんお母さん、はいっ!』

 絵を受け取った両親は揃って目を丸くしてた。

『これを、爽弥が描いたのか?』

『うんっ。頑張って描いてみた』

『そうなの……ねぇ見てよ、こんなに笑ってるわ。爽弥も、私も、あなたも』

『ああ、良い絵だな。本当に』

 あの瞬間が、その夏初めて見た両親の笑顔だった。
 二人の晴れ渡るようなあの顔が見たくて、俺は絵を描き始めたんだ

 それ以来俺は気持ちの伝え方を知った。言葉じゃなくても分かり合う方法がある事も。
 絵は現実を写すだけじゃない。気持ちを乗せるものだって、俺はあの日から信じ続けている――


「……届けるんだ。俺が」

 あの夏の両親と同じように、俺の頭には笑って欲しい人達の顔が次々と浮かぶ。
 どれだけ不格好で、どんな事が起きたとしても、皆に幸せになって欲しいこの気持ちを伝えずにはいられない。

 あのダンジョンから、人生の秒針を凍らせる停滞の世界から皆を引っ張り出したい。

「そういや俺、まだ好きも伝えてないっけ」

 向日葵のような少女の顔が強く、瞼の裏に投影されていた。

「行こう。ダンジョンに」

 迷う暇もなく、俺は洞窟へ一人向かうと決めた。
 一刻も早くダンジョンへ戻らなきゃいけないから。


 倒れた事でリュックから飛び出た物を仕舞う。
 おじさんから借りた冷却アイテム、経口補水液、軍手に、農業用のロープと軽量ハンマー。ダンジョンへ向かう際の対策だ。

 そして散らばった画材も丁寧に一つづつ、リックの隙間へ埋めていく。

「……これだけは、絶対持ってかなきゃな」

 手に取ったのは一冊のスケッチブック。それと愛用のメーカーで揃えた色鉛筆だ。
 お守りとして、これだけは詰めていく。

 そして新聞紙の中から拝借してきた数枚のチラシを、破れないようファイルで挟んで。


 この足は、あの日と同じ想いで前に踏み出していた。