『急激な気温上昇に伴い火山活動に似た兆候が観測されていますが、現在噴火レベルの引き上げられている火山は確認されていません』

 テレビ越しに空調を最大に効かせていると分かるスタジオ中継は初めて観た。畳の上で観るニュースでここまで胸騒ぎがしたことはない。

『気象庁は現在もこの原因を調査し――』

「何がどうなって……」

「異常気象ってやつの一つらしい。まったく、近頃は天気がおかしくて敵わん」

 おじさんは俺のために懐かしの棒アイスをちゃぶ台に置いてくれた。
 経口補水液を飲み干したところで、ちょうど甘味が欲しかったところだ。

「ま、そう慌てず。好きなアイスでも食べて、落ち着いていきなさいや」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 カラフルなアイスキャンディーから一本だけ取って、おじさんは奥へと戻っていく。
 熱中症の症状も落ち着いてきたが、心の平穏は戻らなかった。

「ダンジョンに潜ってた数日で、なんでこんな……」

 ポトッ、とポケットから何かが落ちたのは、考えているその最中だった。

 畳に転がった四角い物体を拾い上げる。

「あ、これ蝉谷さんの」

 間違いなくそれは、漂着町で手渡されたあの小さな氷塊だった。

 氷は解け、本来の手帳の姿が露わになる。
 拾い上げようとして手を滑らせると、畳でページが開かれた。

『――今頃地上では、極端な温暖化現象が発生しているだろう』

 手記の出だしは、そんな言葉から始まっていた。

「ッ、蝉谷さん、この状況を知って!?」

 俺がダンジョンにいた期間は一週間もなかった。落ちる前は当然こんな気象ではない。

全ては計算で導き出した、とあった小さい補足に驚愕が隠せなかった。

『この手帳に記した事は全て、この地下で私自らの調査で知った事実だ。この真実が地上へ届けられることを願う』

 真相を目にしようと俺は飛びついた。すると一枚の写真が挟まっているページがあると気付く。

「これは……ダンジョンの氷?」

 写されていのは、何の変哲もないように見える氷の塊だった。

『この地下空間で無数に存在している物体だ。氷のように見えるだろう。しかしこれは単なる水の個体などではない』

「氷じゃない?」

 見開いたページ中央に大きい文字で名が記されている。


『――メタンハイドレート型クライオス構造体。以下より「クリオス結晶」と仮称しよう』


「メタン、ハイドレートッ……!?」

 聞き覚えがある。次世代のエネルギー源として一時期ニュースで話題になってたものだ。

 燃える氷。日本近海で取れる、メタンガスと水が結晶化した可燃性物質だとか。

『このクリオス結晶はメタンハイドレートに似た性質を持つ新物質だ。しかし本来のメタンハイドレートとは異なる特殊な性質がある』

 冷た過ぎない温度、切り出しても溶けないイグルーの壁材、山の噴気孔から見えた無数の結晶。氷とは違う物質と言われたら、全て説明がついた。

 そもそも雪や氷の上で寝そべっても冷たい痛みがなかった時から気付くべきだったんだ。

『クリオス結晶は周辺の大気を急速に冷やし、上部へ向け多量に放熱する特性を持つ。その恐るべき冷却効果が地下空間を氷結させたのだ」

「ダンジョンが涼しかったのも、水や俺が浮かぶほどの上昇気流も、これが!」

 あの広い空間に影響を与える冷却と放熱。地上にはないと思っていた法則がクリオス結晶という原点と結びついた。

 ページをめくる中で蝉谷さんの言いかけていた言葉が蘇る。

『いわばここは、れい――』

「『冷蔵庫』だ」

 全く同じ原理だった。
 冷蔵庫は放熱することで内部の温度を奪って冷やす。クリオス結晶が起こす現象はこれだろう。
 ただあの大規模空間を冷やして、かつ「涼しい」と思わせる温度で保ち続けるほどの冷却性能。理科が苦手な俺でも分かるぐらい異常だ。

『地球が本来向かう寒冷化周期に背き、人間の営みで温室効果ガスによる温暖化を招いた。結果、地表と地下での圧力差がクリオス結晶という物体を生み出したと、私は考えている』

「圧力、メタン……ハイドレート、放熱……まさか」

 おぞましい真実は読まなくても理解できた。

『驚異の冷却性能で逃がされた熱は地上へ向かい、災害規模の猛暑を招く』 

 冷房が効いてるはずの部屋で汗が止まらなかった。汗が手帳に滴り、じんわり一滴のシミを滲ませる。

『今は熱が地中に留まっているだろう。だが地上に熱が到達した時、この地下空間のバランスは崩れると見ている』

 ダンジョンで過ごした記憶が走馬灯のように駆け巡る。
 恐怖の真実なんて知りたくない。けど目は文字を追い続ける。

『バランスが崩れひとたび圧力が解放されれば、地下は涼しい楽園から極寒の地獄へと変貌するだろう』

 ページを掴む手が震えた。それでも蝉谷さんの文字は続く。
 新たな一枚の写真は、俺へ更なる絶望を与えた。

 写っているクリオス結晶は、弾けたように芯から割れていた。

『メタンハイドレート型と定義した通り、限界を迎えたクリオス結晶は可燃性ガスを発生させて爆発する』

 美しかったダンジョンの景色が、蒼で染まった幻想風景が、反転して脅威の色に上塗りされる。

 丘から山まで続く地面も、俺を押し上げた山の噴気孔も、スズカ達のイグルーからキャンバスに描いた場所まで、氷に擬態したクリオス結晶で満ちていた。


 皆の顔が浮かぶ。スズカ、ユキ、ミカさん、モチマロ、蝉谷さんに、ゲンさん達も。全員の命は文字通り、薄氷の上に晒されているんだ。

 蝉谷さん以外、この事実を知ら――


「……いや、違う。みんな知ってたんだ」

 原理や地上の状況なんて分からなくても、あのダンジョンが異常な環境だってことには気付いてた筈だ。俺でも気付いた違和感だ、誰一人分からなかったわけがない。

 それでいて皆、その事実から目を背けてたんだ。

『もう、疲れたんだよ』

「……そういう、ことか」

 フラッシュバックした言葉で、蝉谷さんの予期してたことが分かった。

 このメッセージが地上に送り届けられたら、あのダンジョンの問題を解消するために救助隊や色んな人がやって来ることも。
 それを知れば、漂着町のゲンさん達が黙ってない事も。

 共同体が機能していても、一歩間違えれば極限状態な環境だ。メッセージが届かないどころか、逆上されたら命の危険まであるからだ。
 彼らの本質を見抜いていたからこそ、蝉谷さんは俺に手帳を託した。

「出ようとしてたの、アンタだけだったんだな」

 過ごした月日は知らなくても、どれだけ孤独な戦いだったかぐらいは伝わってくる。彼の目に俺が、希望として映ったかもしれないってことも。

「けど、どうする?」

 俺の手にかかってる命の数は、あのダンジョンにいる人数だけじゃない。
 この地上に住んでる人達の命さえ脅かす。そんな危機を知っているのは今、俺だけだ。

「いったい何をすれば――」

 肌を焼いたこの暑さが、ガタガタに歪んだ手帳の文字が、脳裏で繰り返し投影される皆の顔が、その問いに答えをくれた。

「……もう一度、行こう。あのダンジョンに」

 食べかけのアイスキャンディーを一気に口に詰め、立ち上がる。

 風呂場の冷水で涼むおじさんに、俺は外出用の装備を借りれないかと尋ねた。