硬質な氷山はダンジョン内で最も過酷な地形だった。
整備されていない山道は狭く険しい。なにより気温が高過ぎた。
「あっつい……こんな寒そうなとこなのに」
標高の高さから酸素も気温も低いものだという先入観は捨てた。
気温は三十度弱だろう。ここの涼しい環境に慣れた今は灼熱のように感じる。
相変わらず地上の法則は通じないらしい。
「……もしかして、そこか?」
山の頂上に至る直前、目の前の足元に光る穴が出現した。
穴の中はキラキラと輝いて、上昇気流が発生している。噴気孔の煌めきの正体は無数の結晶だと気付いたのは、覗き込んでからの事だった。
「うん。そこから風が吹いて持ち上げてくれるんだ。仕組みは分からないけど」
「それ怖いな!? 今から俺飛び込むんだけど!」
「ボクが押してやろうか」
恐ろしい冗談にビビると、二人は風船を割ったように笑っていた。
「じゃあ。見送りは、ここまでかな」
「うるさかったのもやっと終わるな〜」
「ユキ!」
「……ごめん。今のは悪ふざけが過ぎた」
「いやいや気にしないでくれスズカ。実際うるさかったし。ユキも謝んなよ、らしくない」
「うっさい……」
笑い声の混じる会話。たった数日の付き合いなのに、それが日常だったように思える。
そしてその日々があと一歩で終わると考えると、口から出る言葉全てが虚しかった。
俺は穴と睨み合った。
「ソーヤ?」
風鈴に似た声音で俺の名を呼ぶスズカ。その一言で、胸に沈殿した本音を吐き出せた。
「――スズカ、ユキ。お前たちも一緒に来ないか?」
ずっと言い出せなかった事を最後に、口に出すことが適った。
そして結果は予想通り、二人とも俺と目を合わせてくれなかった。
「私達はこのまま……」
「俺、二人が本当は外に出てるの知ってるよ」
その言葉にスズカとユキは目を見開いて固まった。
「……いつから?」
「割と早い段階から。俺より知識があやふやなのに、自分達でイグルーを建てたって聞いた時から。電波も届かないここでさ」
しっかり建てられた外壁にあのオシャレな内装は、資料もなしに作れるものじゃない。
ゲンさん達が手伝ったとしても、日本に知識だけでイグルーを作れる人間なんて多くはないだろう。
「それにいくら漂着物があるからって、都合よく生活必需品が揃うなんて考えにくいじゃん? スーパーの床とあの穴が繋がってんなら別だけど」
漂着町の様子を見てて分かった。
あんな沈没船を家にして、自分達で消耗品を作って生活するのがこのダンジョンじゃ精一杯。
スズカ達の家みたいにキャンプらしい生活スタイルなんて、ひと月ともたない筈だ。
「極めつけに『出口に案内する』って、それ出たことある人間じゃないと思い付かないって」
それでも二人はこのダンジョンで暮らしている。
それがこの先の彼女達の人生にどんな苦難を呼び込むか、俺にも簡単に想像できる。ここで人が生活を営むには限界がある。
言い出しにくい事情があるのは分かってた。だから聞かなかったし、聞けなかった。
でも今は答えを知れなくても良い。この気持ちに蓋をするぐらいなら、無知なままでも二人を連れ出したかった。
「俺と一緒に、地上に戻らないか? 二度とここに来るなって話じゃないんだ」
「……」
「三人で地上に戻ろう。今は嫌になるほどの猛暑だろうけど、俺達一緒ならきっと夏も乗り切れるって」
「……」
「強引なのは分かってる。けど責任は俺が必ず取る。不安があるなら、俺がどうにかする」
「……」
「だからさ。何か、答えてくれよ……」
かすれた声で懇願した。その言葉が届いたのか、ユキが口の禁を破った。
「ボクらもオッサンたちと変わらないよ。今更戻るなんてことは出来ないし、しない」
返ってきた冷たい拒絶に胸がざわめいた。焦ってどうにか言葉を紡ごうと思考を巡らせる。
「二人が何かを怖がってることは分かってる。けど何かあれば、俺が力になるよ!」
言葉は返ってこない。いつもはあれだけ噛みつくユキでさえ、口を噤んで話してくれない。
「他の人達までは無理でも、二人だけなら俺がなんとかする。何でも力になるし、何が何でも守って――」
「簡単に分かったつもりでいるなよ、ソーヤ」
涙をいっぱいに溜めて、ユキは俺を強く非難した。
「ボク達に同情するなんて結構だ。惨めな思いをしてまで、人に助けてもらいたいなんて思っちゃいない」
「惨めって、どうして……」
スズカに目を向けても、彼女はユキの服をキュッと掴んで佇んだままだった。
「私達は、弱いんだよ。ここにある氷みたいに、地上じゃ生きていけないほど弱い人間なんだ」
「そんなことは、分かんないけど、俺にとって二人は――」
「分かる訳、ない……お前みたいな、美大の推薦とか貰える恵まれた人間に、社会からドロップアウトするぐらい挫折した人間の気持ちなんて」
震えるユキの言葉に、それ以上の声を発する力を凍らされた。指先まで悪寒が走り抜ける。
「前に、私を必要としてくれる人がいないって話、したことあったよね」
溶け出した霜のように、スズカは語った。
「――もうさ、生きてないんだよ。誰も」
心臓が握られるような感覚が胸を貫いた。
「私の大事な人は、もうとっくに旅立ってるんだ。家族も皆、私だけ置いて……」
言葉の出し方も、呼吸のやり方も忘れてしまう。全身が凍らされたみたいに。
「ゲンさん達も言ってたよね? もう、疲れたんだよ。心が擦り減らされるような想いまでして、一人で生きてくことなんて」
スズカとユキは互いの手を握って立ち尽くす。
二輪の氷の花は、今にも風で砕けそうだった。
「誰も帰りを待ってない家に帰るのがどれだけ辛いか、ソーヤは知らないよね」
「っ……」
「ごめん、意地悪言った。分かってもらおうとかそういうのじゃないんだ。けど、踏み込まれて欲しくもない」
永久凍土の心は、俺の言葉が入り込む余地などなかった。
「ボク達の時間は凍ったままで良い。下らない暑さで溶かされるぐらいなら、本物の青空の下で生きていたくない」
話し合いが終わる前に、一方的な別れを突き付けられた。
「さようなら、ソーヤ。私達は楽しかったよ」
「っ――!」
二人は穴の中へ俺の体を押し出した。
彼女達に手を伸ばしても届かない。絶望的な距離がそこにある。
乱気流が束になって俺を押し上げた。二人の姿は遠のいて、俺だけがダンジョンの空に吸い込まれていった。
「ユキっ、スズカっ……!」
蒼く氷が輝く地下世界は俺を追放した。
地上へ続く細い穴に体は揉まれる。
多量の水とツタが肌を叩く。ダンジョンの涼しさを掻き消すような蒸し暑い通路が無条件に押し上げてくる。
厳しい熱に当てられ、意識は暗澹に沈んだ。
※
視界が戻る前に、蝉の鳴き声が鼓膜を震わす。
鍋に入れられたような酷暑。倒れている自分が水流で濡れたのか、汗を大量にかいたのかも分からない。
「戻っち、まったのか」
残酷にも現実はアスファルトの硬さで教えてきた。
「てかなんだよ、この気温。暑過ぎる……」
灼熱だ。
吸う息が燃えている。喉が灼けたみたいにヒリヒリした。
肌は地面の石粒に焼かれてる。鉄板を押し付けられてるようだ。
「ダンジョンから出たからって、レベルじゃない……」
初体験の焦熱にまた意識が浮つく。理解までの時間を与えてくれない。
「君、そんな恰好で危ないぞ!」
蜃気楼が見え出した時、声の主は俺の肩を支えてくれた。
麦わら帽子を被った農家のおじさんは熱中症寸前の俺を歩かせ、返答する間もなく建物へと連れて行く。
「ほら早く、今は避暑時間だ!」
「え、なんすかそれ?」
「ニュースも見てないのか!? かあっ、若い子はまったく。せめて天気ぐらいは確認しなさいや!」
呆れた様子でおじさんは家まで俺を運んでくれた。
着いて早々、収穫した野菜のように縁側へ投げられる。
「連日やってるだろう、この異常気象のニュースを」
そう言っておじさんは台所まで足早に向かっていった。
茹でられた俺は何も分からないまま、呆然と壁掛けの温度計を眺める。
温度計の値は四十五度を超えようとしていた。
整備されていない山道は狭く険しい。なにより気温が高過ぎた。
「あっつい……こんな寒そうなとこなのに」
標高の高さから酸素も気温も低いものだという先入観は捨てた。
気温は三十度弱だろう。ここの涼しい環境に慣れた今は灼熱のように感じる。
相変わらず地上の法則は通じないらしい。
「……もしかして、そこか?」
山の頂上に至る直前、目の前の足元に光る穴が出現した。
穴の中はキラキラと輝いて、上昇気流が発生している。噴気孔の煌めきの正体は無数の結晶だと気付いたのは、覗き込んでからの事だった。
「うん。そこから風が吹いて持ち上げてくれるんだ。仕組みは分からないけど」
「それ怖いな!? 今から俺飛び込むんだけど!」
「ボクが押してやろうか」
恐ろしい冗談にビビると、二人は風船を割ったように笑っていた。
「じゃあ。見送りは、ここまでかな」
「うるさかったのもやっと終わるな〜」
「ユキ!」
「……ごめん。今のは悪ふざけが過ぎた」
「いやいや気にしないでくれスズカ。実際うるさかったし。ユキも謝んなよ、らしくない」
「うっさい……」
笑い声の混じる会話。たった数日の付き合いなのに、それが日常だったように思える。
そしてその日々があと一歩で終わると考えると、口から出る言葉全てが虚しかった。
俺は穴と睨み合った。
「ソーヤ?」
風鈴に似た声音で俺の名を呼ぶスズカ。その一言で、胸に沈殿した本音を吐き出せた。
「――スズカ、ユキ。お前たちも一緒に来ないか?」
ずっと言い出せなかった事を最後に、口に出すことが適った。
そして結果は予想通り、二人とも俺と目を合わせてくれなかった。
「私達はこのまま……」
「俺、二人が本当は外に出てるの知ってるよ」
その言葉にスズカとユキは目を見開いて固まった。
「……いつから?」
「割と早い段階から。俺より知識があやふやなのに、自分達でイグルーを建てたって聞いた時から。電波も届かないここでさ」
しっかり建てられた外壁にあのオシャレな内装は、資料もなしに作れるものじゃない。
ゲンさん達が手伝ったとしても、日本に知識だけでイグルーを作れる人間なんて多くはないだろう。
「それにいくら漂着物があるからって、都合よく生活必需品が揃うなんて考えにくいじゃん? スーパーの床とあの穴が繋がってんなら別だけど」
漂着町の様子を見てて分かった。
あんな沈没船を家にして、自分達で消耗品を作って生活するのがこのダンジョンじゃ精一杯。
スズカ達の家みたいにキャンプらしい生活スタイルなんて、ひと月ともたない筈だ。
「極めつけに『出口に案内する』って、それ出たことある人間じゃないと思い付かないって」
それでも二人はこのダンジョンで暮らしている。
それがこの先の彼女達の人生にどんな苦難を呼び込むか、俺にも簡単に想像できる。ここで人が生活を営むには限界がある。
言い出しにくい事情があるのは分かってた。だから聞かなかったし、聞けなかった。
でも今は答えを知れなくても良い。この気持ちに蓋をするぐらいなら、無知なままでも二人を連れ出したかった。
「俺と一緒に、地上に戻らないか? 二度とここに来るなって話じゃないんだ」
「……」
「三人で地上に戻ろう。今は嫌になるほどの猛暑だろうけど、俺達一緒ならきっと夏も乗り切れるって」
「……」
「強引なのは分かってる。けど責任は俺が必ず取る。不安があるなら、俺がどうにかする」
「……」
「だからさ。何か、答えてくれよ……」
かすれた声で懇願した。その言葉が届いたのか、ユキが口の禁を破った。
「ボクらもオッサンたちと変わらないよ。今更戻るなんてことは出来ないし、しない」
返ってきた冷たい拒絶に胸がざわめいた。焦ってどうにか言葉を紡ごうと思考を巡らせる。
「二人が何かを怖がってることは分かってる。けど何かあれば、俺が力になるよ!」
言葉は返ってこない。いつもはあれだけ噛みつくユキでさえ、口を噤んで話してくれない。
「他の人達までは無理でも、二人だけなら俺がなんとかする。何でも力になるし、何が何でも守って――」
「簡単に分かったつもりでいるなよ、ソーヤ」
涙をいっぱいに溜めて、ユキは俺を強く非難した。
「ボク達に同情するなんて結構だ。惨めな思いをしてまで、人に助けてもらいたいなんて思っちゃいない」
「惨めって、どうして……」
スズカに目を向けても、彼女はユキの服をキュッと掴んで佇んだままだった。
「私達は、弱いんだよ。ここにある氷みたいに、地上じゃ生きていけないほど弱い人間なんだ」
「そんなことは、分かんないけど、俺にとって二人は――」
「分かる訳、ない……お前みたいな、美大の推薦とか貰える恵まれた人間に、社会からドロップアウトするぐらい挫折した人間の気持ちなんて」
震えるユキの言葉に、それ以上の声を発する力を凍らされた。指先まで悪寒が走り抜ける。
「前に、私を必要としてくれる人がいないって話、したことあったよね」
溶け出した霜のように、スズカは語った。
「――もうさ、生きてないんだよ。誰も」
心臓が握られるような感覚が胸を貫いた。
「私の大事な人は、もうとっくに旅立ってるんだ。家族も皆、私だけ置いて……」
言葉の出し方も、呼吸のやり方も忘れてしまう。全身が凍らされたみたいに。
「ゲンさん達も言ってたよね? もう、疲れたんだよ。心が擦り減らされるような想いまでして、一人で生きてくことなんて」
スズカとユキは互いの手を握って立ち尽くす。
二輪の氷の花は、今にも風で砕けそうだった。
「誰も帰りを待ってない家に帰るのがどれだけ辛いか、ソーヤは知らないよね」
「っ……」
「ごめん、意地悪言った。分かってもらおうとかそういうのじゃないんだ。けど、踏み込まれて欲しくもない」
永久凍土の心は、俺の言葉が入り込む余地などなかった。
「ボク達の時間は凍ったままで良い。下らない暑さで溶かされるぐらいなら、本物の青空の下で生きていたくない」
話し合いが終わる前に、一方的な別れを突き付けられた。
「さようなら、ソーヤ。私達は楽しかったよ」
「っ――!」
二人は穴の中へ俺の体を押し出した。
彼女達に手を伸ばしても届かない。絶望的な距離がそこにある。
乱気流が束になって俺を押し上げた。二人の姿は遠のいて、俺だけがダンジョンの空に吸い込まれていった。
「ユキっ、スズカっ……!」
蒼く氷が輝く地下世界は俺を追放した。
地上へ続く細い穴に体は揉まれる。
多量の水とツタが肌を叩く。ダンジョンの涼しさを掻き消すような蒸し暑い通路が無条件に押し上げてくる。
厳しい熱に当てられ、意識は暗澹に沈んだ。
※
視界が戻る前に、蝉の鳴き声が鼓膜を震わす。
鍋に入れられたような酷暑。倒れている自分が水流で濡れたのか、汗を大量にかいたのかも分からない。
「戻っち、まったのか」
残酷にも現実はアスファルトの硬さで教えてきた。
「てかなんだよ、この気温。暑過ぎる……」
灼熱だ。
吸う息が燃えている。喉が灼けたみたいにヒリヒリした。
肌は地面の石粒に焼かれてる。鉄板を押し付けられてるようだ。
「ダンジョンから出たからって、レベルじゃない……」
初体験の焦熱にまた意識が浮つく。理解までの時間を与えてくれない。
「君、そんな恰好で危ないぞ!」
蜃気楼が見え出した時、声の主は俺の肩を支えてくれた。
麦わら帽子を被った農家のおじさんは熱中症寸前の俺を歩かせ、返答する間もなく建物へと連れて行く。
「ほら早く、今は避暑時間だ!」
「え、なんすかそれ?」
「ニュースも見てないのか!? かあっ、若い子はまったく。せめて天気ぐらいは確認しなさいや!」
呆れた様子でおじさんは家まで俺を運んでくれた。
着いて早々、収穫した野菜のように縁側へ投げられる。
「連日やってるだろう、この異常気象のニュースを」
そう言っておじさんは台所まで足早に向かっていった。
茹でられた俺は何も分からないまま、呆然と壁掛けの温度計を眺める。
温度計の値は四十五度を超えようとしていた。



