霊峰の真上から朝の日差しが柔らかく注ぎ始める。

 荷物をまとめ、貰った登山用の靴やトレッキングポールを装備して漂着町の前に立つ。見送りにはゲンさん達が総出で来てくれた。
 蝉谷さんは今日も研究室に籠ってるとかでいなかった。

「お邪魔しました。ここのご飯、めっちゃ美味かったです」

「気にしないでくれ。この地下では互いに助け合ってこそだ」

 和やかに出発用の笑顔を貼り付けていたが、満足に寝れなかったせいで目が痒い。蒸し暑い夜をやり過ごすため無理矢理眠った日を思い出す。
 ポケットの中で凍ったままの氷がプレッシャーを向けていた気がする。

「そうそう。君が描いてくれたあの絵、嬉しかったよ。貰えるなんて光栄だ」

「喜んでくれたならなによりっす。半人前の絵ですけど」

「ハハっ。人の心を動かした絵に一人前も何人前もないだろう。金があればいくらでも出したい絵だよ」

 絵を描く人間が新鮮だったのか、漂着町のおじさん達に俺の絵は評判だった。

 本物よりイケメンだな、少し髪の毛が多いぞ、なんて笑って話す声がしている。
 リュウさんはただのスケッチを額縁に入れる始末。少し油っぽいところからして、車のフレームをわざわざ改良したみたいだ。

「それと花森君、一つだけ頼みがある」

「はい、何でしょうか?」

「……どうか頼む。ここの存在は誰にも言わないと誓ってくれ」

 心臓をつままれた気分だ。蝉谷さんからの頼みと矛盾する懇願に意思を揺さぶられる。

「理由とかって、聞いても大丈夫な感じっすかね?」

「良いだろう。よく、胸に留めてくれ」

 ゲンさんが目を伏すと、後ろにいた皆もそっぽを向いたり苦い顔をしていた。

「俺達はここへ来る前、あの山で働く土木作業員だった」

「山って地上にある、この田舎の……?」

「そうだ。君の地元だったかな? 山の斜面にソーラーパネルを建造する大規模な工事があった」

「あ、覚えてます! 確か土砂崩れがあってから工事の話はなくなったらしいっすけど……つまり」

「ああ。ここにいる皆、その土砂崩れに巻き込まれる形でこの地下へ落ちてきたのだよ」

 それはまるで胸につっかえた物を取り出すような話し方だった。

「落ちてきた痛みも治まらない中、私達は思ったよ……『やっと、解放されたんだ』とね」

「解放された?」

「酷い現場だったんだよ。いや、会社そのものと言うべきか」

 ゲンさんが語る中、他のおじさん達の顔色も悪くなっていく。加藤さんや神田さんは「悪い」とだけ言って住まいに戻っていった。

「ロクにクーラーも効かない部屋に詰められた生活。満足に食える飯もない。昼間に十時間以上働いて、仮説住居で泥のように寝る毎日だったさ」

「なんで、そんなとこで……」

「上手いこと使われていた。騙されて自業自得と言えばそこまでだが、それにしても酷い話でな」

 思い出すだけで腹の中がひっくり返される思いなんだろう。
 朗らかだったゲンさんの顔は曇っていくばかりだ。

「借金、リストラ、再就職。皆にそれぞれ理由はあったが、心機一転で仕事に励もうとしていた。そんな時、上手いこと騙されてしまってな」

「ハローワークとか、そういうとこですか?」

「そうさ、就職斡旋の会社だよ。行き場のない人間を逃げられない環境へ誘い込むのがあの会社のやり方だった」

 噂程度には聞いたことがあった。
 俺の地元は山で囲まれたドの付く田舎で、バイトする職場さえ少ない。だからこの地元で仕事を募集しているのは相当厳しい現場作業しかないって。

「口八丁に誘導され、気付けば皆が八方塞がりにされていた」

 あんな店も何もなくて、土地の安さしか取り柄のない田舎に来たなんて。
 きっとゲンさん達は、藁にも縋る思いで仕事を探してたんだろう。

「半ば洗脳に近かったのかもな。過酷な現場作業を強いられ、逃げても職のあてはないと脅され。飢え死にか、過労死か、暑さで死ぬか……その三択しかなかった」

 実年齢より深く刻まれたシワとシミがその証拠だ。
 他の人達だって具合が悪そうだったり、まるっきり健康そうな体はしてなかった。

「土砂崩れに巻き込まれ、偶然辿り着けたここは楽園だったよ」

「地上に戻る、なんて考えたことは……」

「……」

「そんな酷い労働環境だったら労基や裁判所に訴えるとか、皆で一緒にやめて別の仕事始めるとか」

 あんなに美味い飯が作れて、あれだけ器用に何でも作れて、こんな廃材しかない場所でも強く生きていける人達だ。
 言ってしまえば余所者の俺も温かく迎えてくれて、昨日だって楽しく食卓を囲った。

 これだけ優しいゲンさん達がなんで理不尽な目に遭わなきゃいけないんだって、やり場のない怒りがあった。

「それに見るからに体も疲れて病気にもなりそうだ。ここにいたら――」

「もう、疲れたんだ」

 か細く消えてしまいそうな声で、ゲンさんは呟いた。

「かつての仕事で心を病んだ者も少なくない。花森君の言う通り、人生再出発も考えた。だがその気力や体力が湧いてくるのは、君のような若者の特権なんだよ」

 ゲンさんの表情は、こっちが泣きたくなるほど寂しいものだった。
 瞳の中に年輪のような深い苦労が滲んでいる。

「税金、責任、人間関係なんかのしがらみ……そんな色々なものからやっと解放されたんだ、私達は……」

 子どもの俺は知らない、現代の現実ってやつに敵う言葉が見つからなかった。

「だから知られたくないんだ。この楽園の存在を、我々のことも。誰にも邪魔されたくない」

 楽園。その響きがこれほど残酷に聞こえた瞬間は人生で他になかった。

 俺にとってこの地下世界はダンジョンだ。冒険があって、夏の好奇心を取り戻せる宝島のような場所。
 けどゲンさん達にとっては隠れ家であって、辛い現実から守ってくれる最後の砦なんだ。
 楽園を追放させるような真似なんて、考えたくなかった。

「どうか、どうか頼む。後生の頼みだ……」

 大の大人にそんな悲壮な表情で頭を下げられたら、誰だって断れない。

「俺が言ったところで、暑さのせいで頭やられたと思われるだけっすよ」

「すまない……感謝する」

 最後に頭を下げた人は、ゲンさんだけになった。
 皆は仕事に戻って、過去を忘れようと手を動かしている。

 漂着町を出る瞬間はゲンさんと、余力のあった数人が手を振ってくれていた。


 ※


「俺さ、やっぱ言われた通りにした方が良いのかな?」

 町を見下ろせる雪山の道を登る中、ボソリと疑問を口にした。

 後ろで歩くユキはそんな俺を諭すように告げる。

「……オッサン達も言ってたろ? 本人たちが望むなら、余計なことはすべきじゃない」

 そう言われても、ほいそれと納得は出来ない。

 病気や怪我の後遺症みたいなものは、素人の俺でも分かるぐらいだった。ここから出なかったらそう長くないことも。
 そして病院に行けば全部治りそうだったってことも、見てたら分かった。

 それだけにやるせなかったんだ。

「私達には、何も言えることないよ」

「スズカ……?」

 少し意外だった。スズカがそんな風に諦めるような言い方するなんて。

 困ってる人がいたら一も二もなく助けるタイプだと思ってたから。
 でも目を見たらわかる。スズカはあの人達を見捨てようとはしてない。寄り添おうとしてることに。

「自分が経験した辛いことを、経験してない人に知ってるように話されるのって、もっと悲しくなるからさ」

 事情を汲まずに首を突っ込もうと、俺は少しでも考えた。

 後悔していると、今からこのダンジョンを去ろう歩いている自分が、なんだか悪者のように思えて仕方なかった。