借りた浴衣を枕元に畳み、着慣れた服に袖を通す。
ダンジョン内じゃ暑さで汗なんてかかないからと、ライムを調合した消臭スプレーをユキは振りかけていた。
朝食の皿をスズカが下げ終えた頃、イグルーの入り口でミカさんは手を振る。
「それじゃ、あたしはこんなとこで。お邪魔しました!」
「ミカさん、行く宛とかあんの?」
「ないっ! けどそこが良いんじゃんか。先のことは置いといて、今を気楽に過ごすが吉だ」
最後までミカさんは自由奔放が二足歩行しているような人だった。
大人特有の堅苦しさを脱ぎ捨てた彼女は今日も流浪の身として氷土を踏むらしい。
「それにいつまでも居候って訳にもいかないだろう?」
「ミカさんならいつでも歓迎ですよ。私とユキの分まで魚とか獲ってくれてたの、知ってますよ」
「あ、バレちゃってた? そこはスマートにいけたら良かったんだけどなぁ。ま、お礼だから気にしないで」
「ブモッ……」
モチマロまでも顔を出した。揃って世話になった俺達は家の前で彼女を見送る。
「ダンジョンを一通り探索でもしたらまた戻ってくるかもだしさ。たまに来るご近所さんだと思って、これからもよろしっく~」
ミカさんは手をヒラヒラさせて立ち去ろうとした。
だが次の瞬間、くるりと振り返って俺と目を合わせる。
「それと坊主」
「はい」
「……お前はさ、自由にやんなよ」
その言葉が包んだ意味の全ては分からない。
でもそれが、かつての夏を振り返るような眼差しであることだけは、見つめ合った瞬間に伝わってきた。
ミカさんの背中が見えなくなった頃、ふっと息をついて呟いた。
「俺もそろそろ、帰らなくちゃ」
「ソーヤも時間、だよね」
「ったく、最後まで手間かけさせやがって」
「ブモッブモッ!」
「悪いな、面倒かけて。ホント助かるよ」
透き通った蒼穹、氷と水が共存する大地、幻想性を孕んだ生態系。
振り向けばこの氷の家に詰まった思い出と、一緒に過ごした二人と一匹がいる。
「楽しかったよ、このダンジョン」
心の底から胸が躍った夏だった。
それだけに、旅行先や祖父母の家から帰る時よりも幾分の名残惜しさが尾を引いていた。
※
荷物が画材だけだったお陰で、きちんと詰め直せば運びやすさも改善されていた。
リュックの中にあるキャンバスとスケッチブックには描きたい景色を十分に残せている。
転んで絵を傷つけないように、一歩づつ慎重に前へ出す。道はくねくねと曲がったり、短い間隔で坂になっている箇所もあった。
「こっちの道って意外にハードなんだな。路面凍結ってほどじゃないけど滑るし」
「この辺は地上やもっと下からの風が吹いてるから地形も歪みたい。モチマロはお留守番させて正解だったね」
「疲れるからボクはまったく好きじゃないよ」
道中、横でちょこちょことペンギン歩きするユキに尋ねてみた。
「ところでユキは……友達とかいないの?」
「なんでお前にそんな心配されなきゃいけないのさ?」
「いやーちょっと気になっただけ。ぶっちゃけどうよ」
「うっさいなぁ。それプライベートの侵害だぞ」
「プライバシーの間違いだろそれ」
「うぐっ」
「ははーん。さては俺と同じでダチ少ないな~?」
「こ、交友関係いじんのは最低だぞ! てか、お前こそ友達いんの?」
「数人ぐらいだけどな。つってもベスト・フレンド・フォーエバー級のダチはいねえ!」
「ってことは世界にはそのテンションで来られても胃が爆散しない人間が、二人以上も!?」
「失礼だな! たしかに俺もこんなテンションうざい友達は嫌だけど!」
「自覚あるなら自重しろよ」
ツッコミの切れ味こそ相変わらず鋭いが、初対面の時に比べたら打撃は優し目な気がする。今となってはちょっとだけ懐かしくて、寂しい。
「ユキ、スズカ」
二人と上手く目を合わせられないまま、俺は虚空に向かって聞いてみた。
「俺達、友達ってことで良いよな?」
ほんの僅かな静寂が流れた。足元の雪をキシっと踏み締めた音が伝わってくるぐらいに。
ここを去る人間として、どうしても聞きたくなったんだ。
グラスの中で溶ける氷みたいに、この関係がなかったような事にしたくなかったから。
返事に少し怯えていると、そんな不安が消えるぐらい力強くスズカが答えてくれた。
「当然だよ。ソーヤは私の大事な友達。ここで出会えた、面白くて楽しい男の子だ」
胸にじんわりと温度が広がる。凍り付きそうだった脈拍が戻ったのを感じる。
「わ、悪いヤツじゃないしな。ボクも、嫌いってわけじゃ、ない……」
あれだけ素直じゃなかったユキも、そっぽを向きながらではあったが口にしてくれた。
一方通行じゃない思いに安堵を覚えた。けど同時に察してしまう。
――あくまで俺は、数日過ごしただけの仲で終わってしまっていることに。
「な、なあっ!」
「どうしたのソーヤ?」
「急に声の大きさ上げんなよお」
「わ、悪い悪い。つい声が跳ねちまった」
首を傾けられて、二人に覗き込まれる。ただでさえ声が詰まっていたのに、そうまでして見られては、喉まで昇っていた言葉も胸の奥へ逆戻りするものだ。
「……ごめん、なんでもない」
「ソーヤ?」
「聞こうと思ったこと、今パッと忘れちまった。はっはは……」
「そうなの? 重要なことじゃなきゃ、良いんだけど」
重要なことだよ。けど言えないんだ。
「変なヤツだよなお前。ちゃんと考えて喋ろうとしてるのか?」
考えてるさ。考えすぎて、いつもみたいに声が出てこないんだよ。
――こんなところでお別れなんて嫌だ。二人とミカさん、モチマロも連れて地上に出よう。
そうやって呑気に言いたかった。
『お前はさ、自由にやんなよ』
『なんでお前にそんな心配されなきゃいけないのさ?』
『地上に戻っても居場所、ないんだよね』
三人の言葉がフラッシュバックする。言葉の奥に隠れた下地の色、背景が何か、詳しく聞かなくても悟ることぐらいできるさ。
でもこのダンジョンみたいに声が凍った今の俺に、皆を連れ出せるだけの言葉が出せるとは到底思えなかった。
ダンジョン内じゃ暑さで汗なんてかかないからと、ライムを調合した消臭スプレーをユキは振りかけていた。
朝食の皿をスズカが下げ終えた頃、イグルーの入り口でミカさんは手を振る。
「それじゃ、あたしはこんなとこで。お邪魔しました!」
「ミカさん、行く宛とかあんの?」
「ないっ! けどそこが良いんじゃんか。先のことは置いといて、今を気楽に過ごすが吉だ」
最後までミカさんは自由奔放が二足歩行しているような人だった。
大人特有の堅苦しさを脱ぎ捨てた彼女は今日も流浪の身として氷土を踏むらしい。
「それにいつまでも居候って訳にもいかないだろう?」
「ミカさんならいつでも歓迎ですよ。私とユキの分まで魚とか獲ってくれてたの、知ってますよ」
「あ、バレちゃってた? そこはスマートにいけたら良かったんだけどなぁ。ま、お礼だから気にしないで」
「ブモッ……」
モチマロまでも顔を出した。揃って世話になった俺達は家の前で彼女を見送る。
「ダンジョンを一通り探索でもしたらまた戻ってくるかもだしさ。たまに来るご近所さんだと思って、これからもよろしっく~」
ミカさんは手をヒラヒラさせて立ち去ろうとした。
だが次の瞬間、くるりと振り返って俺と目を合わせる。
「それと坊主」
「はい」
「……お前はさ、自由にやんなよ」
その言葉が包んだ意味の全ては分からない。
でもそれが、かつての夏を振り返るような眼差しであることだけは、見つめ合った瞬間に伝わってきた。
ミカさんの背中が見えなくなった頃、ふっと息をついて呟いた。
「俺もそろそろ、帰らなくちゃ」
「ソーヤも時間、だよね」
「ったく、最後まで手間かけさせやがって」
「ブモッブモッ!」
「悪いな、面倒かけて。ホント助かるよ」
透き通った蒼穹、氷と水が共存する大地、幻想性を孕んだ生態系。
振り向けばこの氷の家に詰まった思い出と、一緒に過ごした二人と一匹がいる。
「楽しかったよ、このダンジョン」
心の底から胸が躍った夏だった。
それだけに、旅行先や祖父母の家から帰る時よりも幾分の名残惜しさが尾を引いていた。
※
荷物が画材だけだったお陰で、きちんと詰め直せば運びやすさも改善されていた。
リュックの中にあるキャンバスとスケッチブックには描きたい景色を十分に残せている。
転んで絵を傷つけないように、一歩づつ慎重に前へ出す。道はくねくねと曲がったり、短い間隔で坂になっている箇所もあった。
「こっちの道って意外にハードなんだな。路面凍結ってほどじゃないけど滑るし」
「この辺は地上やもっと下からの風が吹いてるから地形も歪みたい。モチマロはお留守番させて正解だったね」
「疲れるからボクはまったく好きじゃないよ」
道中、横でちょこちょことペンギン歩きするユキに尋ねてみた。
「ところでユキは……友達とかいないの?」
「なんでお前にそんな心配されなきゃいけないのさ?」
「いやーちょっと気になっただけ。ぶっちゃけどうよ」
「うっさいなぁ。それプライベートの侵害だぞ」
「プライバシーの間違いだろそれ」
「うぐっ」
「ははーん。さては俺と同じでダチ少ないな~?」
「こ、交友関係いじんのは最低だぞ! てか、お前こそ友達いんの?」
「数人ぐらいだけどな。つってもベスト・フレンド・フォーエバー級のダチはいねえ!」
「ってことは世界にはそのテンションで来られても胃が爆散しない人間が、二人以上も!?」
「失礼だな! たしかに俺もこんなテンションうざい友達は嫌だけど!」
「自覚あるなら自重しろよ」
ツッコミの切れ味こそ相変わらず鋭いが、初対面の時に比べたら打撃は優し目な気がする。今となってはちょっとだけ懐かしくて、寂しい。
「ユキ、スズカ」
二人と上手く目を合わせられないまま、俺は虚空に向かって聞いてみた。
「俺達、友達ってことで良いよな?」
ほんの僅かな静寂が流れた。足元の雪をキシっと踏み締めた音が伝わってくるぐらいに。
ここを去る人間として、どうしても聞きたくなったんだ。
グラスの中で溶ける氷みたいに、この関係がなかったような事にしたくなかったから。
返事に少し怯えていると、そんな不安が消えるぐらい力強くスズカが答えてくれた。
「当然だよ。ソーヤは私の大事な友達。ここで出会えた、面白くて楽しい男の子だ」
胸にじんわりと温度が広がる。凍り付きそうだった脈拍が戻ったのを感じる。
「わ、悪いヤツじゃないしな。ボクも、嫌いってわけじゃ、ない……」
あれだけ素直じゃなかったユキも、そっぽを向きながらではあったが口にしてくれた。
一方通行じゃない思いに安堵を覚えた。けど同時に察してしまう。
――あくまで俺は、数日過ごしただけの仲で終わってしまっていることに。
「な、なあっ!」
「どうしたのソーヤ?」
「急に声の大きさ上げんなよお」
「わ、悪い悪い。つい声が跳ねちまった」
首を傾けられて、二人に覗き込まれる。ただでさえ声が詰まっていたのに、そうまでして見られては、喉まで昇っていた言葉も胸の奥へ逆戻りするものだ。
「……ごめん、なんでもない」
「ソーヤ?」
「聞こうと思ったこと、今パッと忘れちまった。はっはは……」
「そうなの? 重要なことじゃなきゃ、良いんだけど」
重要なことだよ。けど言えないんだ。
「変なヤツだよなお前。ちゃんと考えて喋ろうとしてるのか?」
考えてるさ。考えすぎて、いつもみたいに声が出てこないんだよ。
――こんなところでお別れなんて嫌だ。二人とミカさん、モチマロも連れて地上に出よう。
そうやって呑気に言いたかった。
『お前はさ、自由にやんなよ』
『なんでお前にそんな心配されなきゃいけないのさ?』
『地上に戻っても居場所、ないんだよね』
三人の言葉がフラッシュバックする。言葉の奥に隠れた下地の色、背景が何か、詳しく聞かなくても悟ることぐらいできるさ。
でもこのダンジョンみたいに声が凍った今の俺に、皆を連れ出せるだけの言葉が出せるとは到底思えなかった。



