茹で上がる前に逃げ出したい。

 七月終わりの畦道(あぜみち)は、それ以外の思考を俺から奪った。


 画材を詰めたリュックのせいで、シャツと背中がペッタリくっつく。拭っても汗は顎から滴り落ちる。絵具も唇もすっかり乾いてカピカピだ。

「この日差しで何して遊ぶんだよ……」

 俺の名前、花森(はなもり)爽弥(そうや)の名が刻まれたスケジュール帳には汗シミ以外何も書いていなかった。

「トモキとヨシは予備校、マサトはインターハイだっけ。思い切って女子に……ってか知り合い全員受験モードだったわ」

 高三の夏休みに遊べる同級生なんていない。
 学校も友達の家も隣町。親は他県の親戚ん家まで数日外出。地元の友達は俺以外、この山に挟まれた田舎から脱獄している。

「皆遊んでる暇ないか。元々俺も余裕なかったもんな」

 八月の塾の予定は、一通の合格通知で消し飛ばされた――


 トモキに報告した時は、教室中がひっくり返ったみたいに驚かれた。

『爽弥おまっ、皇芸大のAO受かったの!?』
『うへぇ』
『受験レースに一番乗りで抜けやがってぇ! くゥ、おめでとう!!』
『ははっ、あんがとー。画塾もみんな驚くだろうなー』
『ううっ、俺はまだ半年以上戦争だぁ』
『勉強頑張ってな。俺は横でデッサンしてるから』
『嫌なヤツ!』


 でも実際にそんな真似をするわけもなく、友達と夏の間は距離を置く事にした。
 交友関係が深くない俺は、当然ぼっちだ。

「絵ばっか描いてて友達もあんま作んなかったし、当然と言えばそっか」

 結果、真夏の朝っぱらから一人田んぼ道を歩いてる。目的地はないし、スポドリは家に忘れた。

 この歳の学生がやる一人遊びというものを俺は知らない。
 結局今日もキャンバスや絵の具でギチギチなリュックを背負って、デッサン出来そうな風景を探す始末。それだけならまだ良かった。

「だ、け、ど、暑すぎッ! どーなってんだよ日本の夏はよー!」

 亜熱帯って習った気がするけど、今の日本は間違いなく熱帯だと思う。春も秋も最近はないし、さっきも蝉が鳴いてる途中で息絶える音が聞こえた。

 口が潤いと清涼感を求める。サイダーでもたっぷり流し込みたい。

 畳に寝そべって、扇風機とソーダだけで涼めた子ども時代が懐かしい。エアコンなんかなくても窓辺の風と風鈴の音があれば、夏は乗り越えられてた。
 記憶の中の夏は、こんな暑さじゃなかった筈だ。

「涼しかった俺の夏、どこ行っちゃったんだよ」

 外は暑くてもどこかには涼しいところはあって、汗が引いたらまた走り出す。夏休みっていうのは、そんな冒険に溢れてた。


 ――あの頃の涼しさと胸の高鳴りを、凍った地面が思い出させてくれた。

「あぶね、すべっ……え? なにこの、氷みたいなヤツ」

 勘違いかと思った。でもそれは明らかに氷だった。猛暑日の田舎道に似合わない霜が足元から伸びている。

 白い線は少し先まで続いて、錆びた自販機の陰へと繋がっていた。


 人目に付かない小さな日陰。そこには氷の竪穴ひっそり口を開けていた。

「なんだ、こんな氷……それより、どうして溶けてない?」

 地下鉄の入り口に似ている氷塊は、人間が一人入れそうな大きさだ。

 穴からひんやりとした空気が流れてくる。つまりこの竪穴は、地下へ繋がっているということだ。

「ダン、ジョン?」

 未知へ扉が鍵もかけず開いている。涼しさは少年時代の冒険の続きを囁く。なら迷いはない。

 気付けば穴に足を入れていた。

「これ深いかな――」

 その直後、体を浮遊感が包んでた。目の前は真っ暗で蝉の声も遠のく。

 理解できた時には足を滑らせて、穴の底に吸い込まれてた。

「おわああぁぁ、すすすすべっ、落ちる落ちる落ちる、てか落ちてる!!」

 細くうねった氷の穴をウォータースライダーみたいに滑り落ちてく。
 体が何度も打ち付けられた後、足元に出口が光っているのが見えた。

 暗闇から抜けて、俺の目に蒼い光が飛び込んで来る。


「――空?」


 さっきまで踏んでた地面の下に、高い青空が広がっていた。

 上も下も青のグラデーションだ。地下の天井は空より澄んだ色で、下には氷雪の大地が白みがかって存在してる。

 風は扇風機みたいな心地良さで、地下には水も溢れていた。
 滝のように天上から落ちる流れも、気流に乗ってらせん状に舞い上がる流れも、海のように凍土の上を満ち引きする潮もある。水中には鮮やかな魚群までいた。

 寒くはない。涼やかな地下世界は、夏と南極が融合したような環境を生み出している。

「こんな、景色が……」

 氷と水の共存。この世の清涼さを凝縮した秘密の避暑地。
 キャンバスでしか見れなかった風景に心を奪われた。

 けど心臓は強く下に引っ張られる。

「やっば、着地で死ぬわ」

 思い出したように体は重力に襲われた。

 急速に迫る凍結した地面。動く暇もなくて、俺は数秒後の落下死を予感した。


「手ぇ、握って!」

 声がした方を向いて、俺は向日葵が舞っているのかと見間違えた。

 麦茶より透き通った髪の色、ほんのり焼けた肌、胸元に結ばれた緑のリボン。真っすぐな瞳は夏の日差しより輝いてる。
 鮮やかな蒼の世界に凛と咲く花のコントラストに、俺はただただ見惚れていた。

 ビーチパラソルを抱えた女子高生は飛び込んできて、強引に俺の手を掴んだ。そのまま体を寄せられる。

「大丈夫! 絶対助けるから、このまま離さないで」

 風にあおられてパラソルが落下の勢いを抑えた。花の香りもふわっと広がる。

 彼女はガッシリと体を掴んだまま、必死の表情で俺の無事を確認した。そのままホッと安堵の溜め息をつく。

 その吐息で俺の思考は吹き飛んだ。

「なんかめっちゃ可愛い子いた!」

 口をついて出た言葉だった。その一言に彼女は目を丸くする。

「へぇっ!?」

「あ、ごめっ! 言ってる場合じゃなかった!」

 あっという間に少女は耳まで紅潮させる。それでもその手は俺を離そうとしなかった。


 気流に乗って氷結した世界に俺達は浮かぶ。
 その最中に拝んだ彼女の恥ずかしがる様子が、この地下の何よりも目を奪われた。