ユリメラ・ジョルジオは一風変わった薬師であった。
彼女は自分の出自を知らない。
今と成っては天涯孤独の身である。
これまでもその生のほとんどを一人で生きてきた。
一人の人生を彼女はそういう物だと受け止めていた。
所詮人は一人で生まれて、一人で死んでいくのだと。
少々寂しい思考ではある。

薬師とは薬を調合することを生業とする職業である。
日本でいう処の薬剤師に近い。
しかしこの世界においての薬師は、時には医者の役割を果たし、時には日用品を造る道具屋であったりもする。
その守備範囲は多岐に渡っているのだった。

ユリメラは齢六十を迎える、この世界においては御老体と呼ばれてもなんら不思議ではない年齢だ。
しかし彼女はそれを屁とも思っていなかった。
婆あ扱いされる事に何も違和感はなかったし、所詮そんなものであろうと受け止めていた。
私も老けたなあ、と感慨深く思うぐらいでしかなかったのだ。
そう美容院『アンジェリ』と出会うまでは。
今と成っては婆あ扱いされる事は許せなくなっていた。
お姉さんと呼べと腹の底から思うのであった。



ユリメラは旅の薬師であった。
全国各地を巡り、その土地に息づく植物を見聞し、そして採取する。
余りに手慣れた作業だ。
その後、その植物を調合し、何の薬になるのかを判別し研究をする。
その様な日常をこれまで送ってきていた。
何の疑いも無く、そうであるのが当たり前の事であると。
その事が余りに日常化していて、そうする事に疑問の余地など無かった。

薬師という職業には、終わりはないとされている。
それはその筈で、薬の調合においては何万通りもの割合や配分がある。
同じ植物を配合しようにも、その割合において、その効果効能が変わるのだ。
気が遠くなりそうな話であった。

時に植物は毒と成り得る。
そして薬にも成り得る。
調合次第で人を殺す毒にもなれば、人を生きながらえさせる薬にもなるのだ。
その差は余りにも大きい。
でもここに薬師としての遣り甲斐や難しさがある。
それをユリメラは楽しんでいた。
ユリメラは根っからの薬師であった。

ユリメラは薬師の仕事を師である者から学び、そして今と成っては、自らその先の学びを得ようと旅をしていた。
彼女の師は自らの事を多くは語らなかった。
彼女の師は余りにこの世界には似つかわしくない存在であった。
それを何となく察した彼女は、師について多くを知ろうとはしなかった。
それが師に対しての礼儀であると。
そうすべきだと思ったからだ。

彼女の師は、ユリメラがもうこれで薬師として独り立ちできるであろうというタイミングで、霧散する様にその姿を消してしまった。
彼女に一切何も告げず・・・
余りにあっけらかんとしていた。
ユリメラにとってはこれまでの暮らしが、幻であるかと感じる程だった。
去り際が鮮やか過ぎて、自然体であった。
でもユリメラにとっては、師と離れることに寂しさがあったのは否めない。
そしてこうも感じていた。
もう会う事は敵わないのだと。
この寂しさはもう埋まる事は無いと、心に留めるしかなかった。
齢15を迎える身には少々酷だったのかもしれない。



ユリメラは薬師という職業を誇らしく受け留めていた。
それは誰かの役に立てているとの実感がそう思わせていたからだ。
実際、彼女の調合する薬は効果が高く、また即効性にも優れていた。
彼女は薬師としてとても有能だったのである。

切り傷ぐらいなら簡単に治してしまう薬を調合していたし、命に係わる病気でもその薬において快癒させていた。
ある特定の地域では彼女は神格化されていたぐらいだ。
それ程までに彼女の腕は確かだった。

もし彼女が放浪の者でなかったならば、こうはならなかっただろう。
旅で知り得た植物は何千通りにも及ぶからだ。
そして効果効能の確かな薬を調合していた。
彼女の腕は確かで、実績も伴っていた。
彼女を知る者達が彼女を神格化扱いするのは、自然のことと思えた。

彼女は放浪の身を止めなかった。
何が彼女をそうさせたのか?
それは彼女のみぞ知るである。
恐らく根無し草の気儘な生活が気性に合っていたのだろう。
そうであるに違いない。

そして彼女はとある噂を耳にする。
新たに温泉が沸いたと。
その温泉の効能は、これまでの温泉では比較にならないぐらい、素晴らしい泉質であると。

そもそもユリメラは温泉が大好きである。
この世の秘湯と呼ばれる温泉を探り当てる事を喜びとしていた。
そんな噂を聞いてしまっては居てもたってもいられなかったのである。

旅の薬師を続けつつも、彼女は温泉街ララへと急行した。
その興奮は近づくにつれて高まっていった。
そして彼女は温泉街ララへと降り立つ事になった。
彼女はその街並みを見て驚愕した。
この温泉街はどうなっているのだと・・・



ユリメラは最初に、足湯場があることに驚いた。
これまでにこの様な施設は拝んだことは無かった。
なんというホスピタリティー。
絶大の興味を持って、足湯に浸かってみた。

ああー、疲れが解れるー。
気持ち良いー!
一瞬で心を鷲掴みにされてしまった。
足をお湯に浸すだけでこんなにも癒されるのだと・・・

そして始めてボディーソープなる物を使うことになった。
これは・・・何という洗浄力・・・この原材料はどんな植物だろうか?
薬師として大きな興味を駆り立てられてしまった。
パッケージを繁々と眺めるも、その文字は読めない。
隣に座る行商人らしき人物に思わず尋ねてしまっていた。

「このボデーシャンプーなる物はどこで買えるのかねえ?」

「それは其処ですよ、美容院『アンジェリ』です」
行商人が指さす先には見たこともないお店が鎮座していた。
はて?ここは?と興味をそそられる。
摩訶不思議な佇まいのお店がそこにはあった。
ユリメラにはそのお店が光り輝いて見えていた。
後光が差すほどに。

興味は一端脇におき、念願の温泉に浸かることになった。
ここは自分の趣味に重きを置いた決断だった。

ここでもシャンプーとリンスなる未知の物に遭遇してしまった。
このしっとり感はいったい・・・保湿力が凄い・・・
彼女の興味が尽きる事は無かった。
そして彼女は改めて知ってしまった、これも美容院『アンジェリ』の仕業であると・・・
あのお店はどうなっているのか・・・

なんにしても温泉の噂は本当だった。
彼女の実感としては、5歳は若返った感覚だった。
実際の所は分からないが、そう感じていた。
であればそれでいいだろう。
彼女の体感が重要なのだから。
それに慢性的に彼女を悩ませていた腰痛が軽くなっていた。
なんという治癒力・・・ここまでの温泉があろうとは・・・
この時点で彼女の腹は決まった。

彼女は寸分も迷うことなく、この街に居を構える決心をした。
これまでの旅の終着点がここなのだと、決意を固めることにした。
温泉街ララに、彼女の薬師工房を建設する事にしたのだ。
この決断の意味は大きい。
彼女の人生を大きく変えるのだから。
幸い彼女は金銭には困っていなかった。
お店の一件ぐらいは、簡単に建てられるほどの財力を有している。
これまでの活動において充分に利益は得ていたのだから。

そして彼女はシャンプーとリンス、そしてボディーシャンプーの謎を解明すべく、美容院『アンジェリ』に訪れていた。
ちょっとした道場破りの気分だった。

入店するや真っ先に要件を述べる。

「店主や、ちょっとよいか?」
営業終了後の賄いの時間に、遠慮も無くお店に踏み込んでいた。
ジョニー達の視線に晒されるも、動じる事はないユリメラ。

「いらっしゃいませ?でいいんですよね?」

「んーん?否、客ではないさね」

「はあ・・・」
眉間に皺を寄せるジョニー。

「ちょっと教えて欲しい事が有ってなあ」
ジョニーから見たユリメラは、衣服は小綺麗にしているが、髪は伸ばしっぱなしのグレイヘアー、化粧はノーメーク、処々に染みや皺がある、婆さんだった。
勿体ないと思うジョニーは職業病なのかもしれない。
ユリメラを眺めると共に、どんな髪型が似合うかを既に考えていた。
そうしながらも自然と会話を行うジョニー。

「どうしましたか?」

「温泉で供え付けてある、シャンプーとリンス、そしてボデーソープの原材料はなんなのかねえ?教えて貰えるかい?」
いきなり本題に踏み込んでいくユリメラ。
その発言にキラりと眼を光らせるジョニー。

「ほう、知りたいですか?それはどうして?」

「フム、私は薬師でなあ。あのボデーソープの洗浄力は、私の造る石鹸を遥かに凌駕しているだけでなく、洗い上がりもさっぱりしているし、突っ張り感が全くない、何でか?と思ってなあ」

「なるほど・・・薬師ですか・・・」
意味ありげにユリメラを眺めるジョニー、興味が視線に張り付いていた。
その視線を受けて飛び退くユリメラ。

「て、店主よ!私を手籠めにするつもりかえ?」
しまったと表情を改めるジョニー。

「私は貞操を守るさね!」
手を振って全力で否定するジョニー。

「いやいやいや!違いますよ!そうじゃなくて、薬師を待ってたんですよ!」

「はあ?どういう事かね?そんな甘言には惑わされんぞえ!」
流石にイラっとするジョニー。

「婆あに興味はねえよ・・・ふざけんな・・・」
右下を向いてぼそりと呟いた。

「婆あとな?ギャハハハ!」
一転爆笑し出したユリメラ。
どうにも感情の起伏が激しい。

「私は手籠めにされてもよいのだが?」
ジョニーに擦り寄ろうとするユリメラ。

「すんません、婆あは好みではありませんので、お断りします」
お道化つつも、仰々しくお辞儀をするジョニー、ウィットに飛んだ会話を楽しんでいる。
それを無表情で眺める弟子達。
リックは鼻で笑っていた。

「して、どうなのさ?」

「これは、界面活性剤ですね」

「界面活性剤?」
知らないワードに戸惑うユリメラ。

「はい、簡単にいうと、水と油を混ぜる物質です」

「フムフム、混ざりあわない物を混ぜ合わせる物質ということか・・・」
ユリメラは深く頷いていた。
そして不意に張顔する。

「店主よ、私にとってはこの街は遣り甲斐に満ちた天国のような街さね!」

「そうですか、では更なる天国を体験して貰いましょうか?」
不気味にジョニーの目が輝る。
待ってましたと云わんかの限りだ。

「ほう?これ以上とな?」

「ではこちらに座って頂きましょうか」

「そうかい、まあよい。店主に任せるかねえ!」
豪胆にカット台にドカッと座るユリメラ。
腕捲りをして気合を入れるジョニー、それに合わせて弟子達も臨戦態勢に入る。

「さあ、始めようか!メニューはカラーカット、そしてマリアンヌさん、化粧は任せます、ナチュラルに仕上げましょう。クリスタルちゃんは眉毛のカットとブロー、そしてセットまで頼むよ、シルビアちゃんはカラーカットとシャンプーまでよろしく!」

「はい!」

「了解です!」

「分かりました!」
どうやらどさくさに紛れて、ユリメラをモニターにしてしまったジョニー。
最近では裏予約表が手薄になっている為、渡りに船だったみたいだ。

というのもやはりカットのモニターは募りにくい。
あのシルビアでもよくて一日に二人までだった。
そこを加味してかは知らないが、ここぞとばかりに我が意を得たりとジョニー達は腕を鳴らしていた。



鏡に映る自分を、老け込んだなという想いで見つめるユリメラ。
彼女は久しぶりに鏡に映る自分を見ていた。
実は彼女は手鏡すらも持ち合わせていない。
美に対して余りに無頓着であったのだ。
綺麗になる自分や、可愛くなる自分に興味を覚えた試しがなかった。

でも身なりだけはそれなりに気は使っている。
それは師の教えだったからだ。
でもその根底には、人は成る様になる、見た目はさほど気にする必要はない。
そうこれまで自分に言い聞かせてきた。
悲しいまでに・・・特に理由はない。
でも衣服は礼儀に直結する、その為の教えであったのだ。



数時間後。
ユリメラは鏡に映る自分を唖然と見つめていた。
これはいったい誰なのか・・・
鏡に映る女性が自分である事に疑いすらも感じていた。
そして背筋を突き抜ける高揚感。
私って綺麗?

これまでの人生において、この感情に包まれたのは初めてだった。
ユリメラは女性としての自覚はあるが、美というものに対してさほど気にも留めてきていなかった。
でも・・・これまでに無い感覚に支配される。
そしてふと、師の言葉が脳裏を掠める。

「ユリメラ・・・心と身体は繋がっているのだよ」
言葉として意味は理解していたが、今はそれを全身で理解していた。

軽い、余りに身体が軽い。
見た目が若返り、そしてそれに釣られるように身体が軽くなっていた。
そして心もウキウキしている。
美とはこれほど深い意味を持っていたのか・・・
目覚めた美意識と、心地よい感覚に支配された。
ああ・・・もう婆あとは呼ばせんぞ・・・
私は美しい・・・
そう心に誓うのだった。
これが気分が上がるというやつか・・・私も捨てた物じゃないさねえ・・・
まだまだ女盛りさね!