遡ること一年前。
マリアベル・ベルメゾンは幼馴染であり、かつ親友からの手紙を読んで驚愕していた。
彼女の親友とはイングリス・レイズ、マリオの奥さんである。
二人は幼い頃からの友人であり、気心知れた仲であった。
今ではお互いの境遇が、簡単に会う事を許さないのだが、この様に手紙のやりとりは続いている。
その手紙の内容はこうであった。
ある時突然美容院なるお店が領内に出来ていた、大魔導士様のお導きらしい。
そして偶然にも娘が、寒空の中お店に立ち寄ることになった。
其処に居たのは、この国では余り見かけない風貌の男性。
その男性に介抱され、摩訶不思議な食事を提供されたのだと。
食事は娘曰く、この世の物とは思えない程美味しく、夢にまでみるのだとか。
名をカップヌードルと言う。
そのお礼がてら主人がお店に訪れた事が切っ掛けで、イングリスもその男性と出会うことになった。
その男性はジョニー店長、この領地初の美容師である。
そのジョニー店長が、私が生まれて以来、ずっと悩み続けてきた癖毛を、特殊な施術で物の見事に解決してくれた。
長年のコンプレックスが、数時間で解消されたことをとても感謝していると。
最近は世界が輝いて映っている。
世界がとても眩しいと。
一日でも早く会って、この私の髪形を見て欲しい。
その文字が嬉しそうに躍っていた。
そしてそのお店で扱われているシャンプーとリンスを届けるから、是非使ってみて欲しい。
その後には、シャンプーとリンスの使用方法が丁寧に記載されていた。
この様な内容が親友からの手紙に書かれていたのであった。
そしてマリアベルの前には、シャンプーとリンスが事も無げに置かれていた。
これはいったい何なのかと、手に取って確認している。
そこに描かれている文字は読むことは敵わない。
でも不思議と薄っすらと香しい臭いがする、そのシャンプーとリンスから。
まるで春先に咲き誇る花に似た香りが、鼻腔を擽り、爽やかな香りを伴わせている。
シャンプーとリンスを掴み取ると、マリアベルは意を決してお風呂場へと向かった。
付き人であるクロエを従えて。
髪を乾かすよりも前からマリアベルは驚きを隠せなかった。
手櫛の通る感覚、髪のさっぱり感としっとり感、そして艶髪。
鏡に映る自分が、これまで知っている自分ではなくなっている。
驚きと共に恍惚の笑みを浮かべていた。
髪の形状や質感があり得ないぐらい変貌していたのだ。
メイドであるクロエも隣でフリーズしていた。
いったい自分の御主人様に何が起こったのかと。
クロエの知るマリアベルは其処には居ない。
これまで以上に色気と麗しさの漂う貴婦人がそこには居た。
存在感が増しているとすら思える。
視線を交わすと頷き合う二人。
「クロエ!分かってますわね?」
「はい!」
二人は颯爽とクローゼットに突入した。
行動力の塊であるこの二人は、勢い勇んで着替えを始めた。
我先にと慌ただしい。
込み上げてくる嬉しさと、興奮を押し隠して、変装をする二人。
後は行動に移すのみであった。
「行きますわよ!」
「はい!」
町娘に似た衣装を身に纏ったマリアベルとクロエが、伯爵邸から抜け出して、街を散策することは、なにも今に始まったことではない。
二人にとっては日常の延長線上でしかない。
これを知るのは、この二人とギャバンのみである。
ある時こっそりと裏口から抜け出る所をギャバンに見つかってしまい、程々にお願いますと遠慮気味に苦言を呈されただけである。
その為、本日もギャバンには一報を入れている。
お出かけしますと・・・
どうしても行かなくてはならないお店が出来たと。
その知らせにギャバンは、配慮して口元をやや歪めただけであった。
マリアベルは伯爵の第一夫人という立場に居ながらも、元は商人の出である。
型苦しい貴族の礼儀や作法が好きでは無かった。
でも普段はそんな態度を微塵も表さない。
夫である伯爵の評判を落とさない様にと努めている。
人様の前では第一夫人の格を守る、貴族にとって規範的な行動をとっていた。
マリアベルは伯爵の第一夫人である事をしっかりと自覚し、その立場や地位を汚さない行いを是としている。
それはあくまで貴族としての時間の時に限られているのだが。
でも根は立場や地位で跪かれる事を快くは思っていない。
彼女は特別扱いをされたくはないのだ。
特別扱いをされることに優越感など一切感じない。それ処か非日常的な扱いを受けることに嫌悪感を感じるのだ。
その根底には商人の血が色濃く流れているのだろう。
彼女の父親は一代で大商会を設立し、メイデン領ではその名を知らない者はいないほどの、有名な大商会の設立者だ。
実際、メイデン領の納税額の一番高い商会は、このメンデス大商会である。
父の教えはこうであった。
「お客様は誰であれ、同じサービスを受けなければならない、それは相手が貴族であっても、国王様であっても、はたまたボロ布を羽織った子供であってもだ」
商人として、お客さんを地位や立場で差別しない姿勢が、マリアベルの父、イグナシオ・メンデスの教えであった。
彼女にとってこの教えは尊い。
その為、街に散策に出かける際には、町娘に変装をし、どのお店でもそのお店独自のサービスを堪能する。
そして一般市民であるからと邪険に扱うお店には、二度と彼女は足を運ばない。
そう、それは貴族としてもだ。
これは彼女の美学なのである。
街にひっそりと散策に出かける時には、クロエが必ず同行する。
クロエは只のメイドではない。
その見た目は童顔で、可愛らしい印象を受ける。
黒髪が短く片側だけ刈上げられ、横髪を左耳に掛けている。
右目は前髪で隠れていた。
その特徴的な髪形は彼女の存在感を強く押し出している。
実はクロエは魔導士であった。
護衛として、この者以上に頼りになる者はこのメイデン領には存在しない。
強面の冒険者が五人がかりで襲ってきたとしても、一瞬にして蹴散らしてしまうだろう。
それ程までにクロエの魔法は強力だ。
クロエは御主人様であるマリアベルを尊敬している。
本当はクロエはその魔法の腕を買われて、伯爵が抱える護衛師団に入団する予定であった。
しかしマリアベルがクロエの存在を知り、護衛師団から引き抜いた事で、メイド兼護衛としてマリアベルに付き従っている。
当初は第一夫人のメイド兼護衛などやりたくはなかったのだが、クロエはマリアベルの人となりを知った。
始めて二人して変装をし、街に散策に出かけた事をクロエは今でも鮮明に覚えている。
このご婦人はなんてお転婆なんだと頭を抱えそうになった。
伯爵の第一夫人がまさかこんな一面を持っていたことに、最初こそ戸惑ったクロエだったが、次第に慣れ、今ではこの散策が彼女にとっての至福の時間となっている。
この町娘スタイルの時の二人は、齢の離れた姉妹の設定である。
クロエにとっては、マリアベルは本当の姉では無いかと錯覚を覚える程に、役に徹している。
それはマリアベルも一緒で、町娘スタイルの時はクロエを妹として扱っている。
とても相性の良い二人であった。
本当の姉妹と周りが勘違いしてしまう程に。
二人は馬車の定期便に乗り込み、荷台の中で揺れていた。
そしてマリアベルは考えを巡らせる。
それは第二夫人のフェリアッテの嫌がらせについて。
いや、嫌がらせ等という生易しい物ではない。
時には生命の危機すらも感じた出来事もあった。
ファリアッテの嫌がらせは、彼女が子供を産み落としてからは、より過激になっている。
自分の子供を何としても伯爵の後継にしたいのだろう。
その意思を強く感じる、何が何でもと・・・
そんな事情が有る為、彼女は髪結いさんを抱えていない。
髪結い組合はフェリアッテの独壇場なのだ。
フェリアッテの息の掛かった者を抱える気にはなれなかった。
実際髪結い組合はいい噂を聞かない。
その為、現在のマリアベルの髪結いはクロエが代行している。
念の為、息子のロバートには毒味役が付いている。
辛い想いをさせてしまっているなと彼女は頭を悩ます。
当然伯爵には陳情を何度も何度も入れている。
しかし返って来る言葉は毎回同じだった。
フェリアッテに限ってはそんな事はありえない、と。
幸いギャバンはマリアンヌに好意的だ。
何度もギャバンとは協議を重ねているが、どうしても伯爵がファリアッテのことになると盲目的になるのかが見えてこなかった。
疑いの目を常に向けてはいるものの、フェリアッテは尻尾を一切掴ませなかったのだ。
媚薬の様な類の道具を使用しているのではないか?
はたまた伯爵を何かしらの理由で脅迫しているのか?
伯爵はファリアッテを無下に出来ない理由があるのではないか?
等々、常に彼女は思い悩まされていた。
そんな現実から逃避したいということもあり、町娘スタイルは止められない。
これは彼女にとっては気晴らしでもあったのだから。
ふとマリアンヌは首を左右に振る。
こんな事を考えていてはいけない、折角変装してまで街に繰り出しているのだ。
ここは美容院『アンジェリ』に想いを馳せよう。
隣ではその胸中を感じ取ったクロエが頷いていた。
そうあるべきと視線が訴えかけている。
美容院『アンジェリ』を外側から眺める二人。
二人は口をぽかんと開いて、眼を見開いていた。
このお店はいったいなんなのだと・・・
白を基調とした外壁、そして重厚な両開きの扉。
所々に凝らされている意匠が、巧の技を感じさせる。
恐らくお店の名前が刻まれているのであろう文字は、鮮やかなオレンジ色だった。
庭先は丁寧に整えられ、石畳が敷かれている。
まだ春を迎える前だというのに、花壇には花が咲いていた。
この花を二人は見たことがない。
白と淡い紫色の花びらを、目一杯広げている。
朧げだが確実に、その花は冬の時期であるにも関わらず、満開のアピールをしていた。
その有り様に健気であると、思わず花弁を撫でたくなる。
なによりも驚いたのは、その店内が透けて見える窓ガラスの透明度。
お店の外側からでも店内の様子が窺い知ることが出来た。
この国にはここまで完成されたお店は存在しない。
まるでお伽話に出てくるお店ではないかと錯覚してしまう。
一瞬狼狽えそうになる二人であるのだが、ここは現世であると認識を改める。
間違っても夢の世界ではないと。
実際に目の前に美容院『アンジェリ』は存在する。
この街の風貌に似合っている様で、似合っていない、摩訶不思議なお店が二人の来店を待っていた。
高鳴る胸の感覚に、嬉しさが込み上げてくる。
二人は視線を重ねると店内へと歩を進めた。
その歩みは踊りだしそうなステップであった。
「いらっしゃいませ!」
一人の男性が、見たことも無い装置で禿げたおじさんの頭を洗っていた。
いや、これは先ほど使用したシャンプーに違いないと、マリアベルは当たりを付ける。
受付の奥から赤髪の少女が顔を出すと、こう告げた。
「いらっしゃいませ!美容院『アンジェリ』にようこそ、ご予約の方でしょうか?」
目鼻立ちがくっきりとしていて可愛いが、随分とおぼこい印象を受ける少女、成人しているのかどうかという年齢だろう。
「あ、いえ、予約はしていません」
クロエが答える。
続けてマリアベルが、
「予約しないと駄目でしょうか?」
不安な表情が揺れている。
「はい、申し訳ありませんが、今日は予約で埋まっていまして・・・」
すまなそうな視線を赤毛の少女が投げかけてきた。
二人は顔を突き合わせると視線で会話をする。
これは予約をしないといけないなと・・・
「予約は最短でいつが空いているのかしら?」
赤毛の少女が受付の中にあるであろう予約表を確認すると、
「来週の今の時間からになりますが、予約を取っていかれますか?」
簡易的ではあるが、手作りのメニュー表がカウンターの上に置かれていた。
それを手に取り、眉間に皺を寄せて考えるクロエ。
一方マリアベルはもう決めていたのだろう、瞬時に施術のメニューを告げた。
「ストレートパーマでお願いします」
すると先ほどのジョニー店長であろう男性が、シャンプーをしながらも、熱意の籠った視線をマリアベルに送って来る。
嬉しいのか、口元が緩んでいた。
その男性はシャンプーを終えておじさんを立たせると、カット台に誘導していた。
誘導を終えたジョニー店長であろう男性が、マリベルに近づくと、マリアベルの髪の毛を凝視する。
「フム・・・これは2時間以上はかかりそうですね、髪に触れても宜しいですか?」
「ええ、お願いします」
マリアンヌはジョニー店長に向けて頭を下げる形となった。
これはマリアンヌの正体を知っている者からはあり得ない行為だ。
伯爵の第一夫人が、どこの馬の骨ともつかない男性に頭を下げている。
この世界ではあり得ない光景だ。
「では・・・っと」
髪の毛に触れて感触を確かめるジョニー店長。
「そうですね・・・やっぱり2時間は最低欲しいな・・・出来れば2時間半・・・どうでしょうか?」
「はい!大丈夫です」
期待の眼差しをジョニー店長に向けるマリアベル、まるで乙女の様な羨望の輝きの籠った視線だ。
「私は、カットをお願いします!」
「畏まりました!ストレートパーマとカットですね。では来週のこの時間にお待ちしております!」
笑顔を振りまいて二人は帰路についた。
そして二人が店を出ると、
「よーし!よし!よし!」
美容師としての仕事が出来ると一人興奮するジョニー店長がそこにはいた。
シルビアは訳も分からず、引き攣った頬を撫でていた。
遂に予約の日が訪れていた。
二人は朝からそわそわと浮足立っている。
特にマリアベルは気が気ではなかった。
マリアベルも実はイングリスと同様に、癖のある髪の毛に不満があったからだ。
コンプレックスを抱える程では無いにしても、改善できるなら是非お願いしたいと思っていた。
まだ予約の時間には程遠い時間であるのに、既に二人は変装を終えていた。
随分と気が早い。
この後に訪れるであろう興奮の時間を待ちきれないのだろう。
馬車で揺られつつも、マリアベルは夢想が止まらない。
年甲斐も無くワクワクしている自分に少々面食らっているぐらいだ。
隣に控えるクロエもたいして変わらない。
でも、時折表情を改めて鋭く周りを警戒する。
数秒後にはまた可愛く変貌を遂げるであろう自分を想像する。
そして遂に美容院『アンジェリ』の前に馬車が到着した。
そんな夢見心地の二人は『アンジェリ』へと歩を進めた。
浮足立ったステップが、軽くリズムを刻んでいた。
万遍の笑顔で二人を迎え入れるジョニー店長とシルビア。
最初の時には気づかなかったが、暖かな風が店内に漂っていた。
外の寒さからは考えられない温かさ。
それであれば上着は必要ないだろうと、脱ぐことにした処に声を掛けられた。
「お預かりします」
シルビアに手を差し出されていた。
へえー、と感心するマリアベル。
すると、湯気が立ち昇る純白の小さなタオルを手渡される。
「これで暖まってください、おしぼりです。手を拭いてください」
シルビアの笑顔が眩しかった。
手に取ると、おお!これは嬉しいサービスだ。
一心地着くことが出来る。
手から伝わる温かさが、凍えた身体を溶かしてくれる。
隣ではクロエがほっと一息ついていた。
もうこの段階で料金を請求されたとしても、支払うであろうとマリアベルは考えている。
暖が取れ、おしぼりなる物が提供された。
これは立派なサービスである。
後日知るがこれは無料のサービスであった。
その事に驚きを隠せなかったマリアベル。
どうしてこれを無料のサービスに出来るのかと。
「じゃあ、マリアベルさんはこちらに座って下さい、クロエちゃんはマリアベルさんの放置時間にカットを行いますね」
ジョニー店長の爽やかな雰囲気が、絶妙にこのお店の雰囲気に融合している。
来店開始早々、ものの1分にも満たない時間で、既に二人は心を鷲掴みにされてしまっていた。
クロエは待合のソファーに腰掛け優雅に寛いでいる。
マリアベルはカット台に誘導された。
ここからは二人にとっては忘れることなど出来ない、夢の時間の始まりとなったのであった。
放置時間には飲料が提供された。
無難な処で紅茶を頼んでしまったが、後日これを反省することになる。
コーヒーなる異国の飲料がある事を知ったのは、次のイングリスからの手紙で知らされた。
最初から教えておいてくれよとは親友には言えなかった。
というのも、イングリスがコーヒーを味わったのは、二週間後にカットに訪れた時だったからだ。
そして特別にと、ロールケーキなる珍妙なお菓子が無料で提供された。
恐らく乳の類のお菓子であろう。
ジョニー店長に言わせると、スイーツという物らしいのだが、これが爆発的に美味しかった。
クロエは何を勘違いしたのか、お替わりを要求していた。
でも不思議なもので、そのお替わりにジョニー店長は対応してみせたのだ。
ジョニー店長に言わせると、シルビアちゃんの為にたくさん買っておいて正解だったとの話だった。
当のシルビアは舌を出して照れていた。
可愛らしい女子である。
そして当然の如くマリアンヌにもお替りが提供された。
マリアンヌはじっくりと、味わい深くロールケーキを堪能していた。
こんな甘味は食べたことが無い・・・表現できないほどの至福の時間・・・
施術を終え、満足感と高揚感でいっぱいとなった二人は、来月の予約を行い、帰路についた。
ジョニー店長にお勧めされたトリートメントを大事そうに三つも抱えて。
あろうことか、半年後にマリアベルとクロエの世界が一変した。
それはフェリアッテの失脚だった。
これまでの身の危険を感じる様な出来事はその後一切なくなり、愛息子のロバートの毒味役もお役御免となった。
平和で穏やかな日常が伯爵家には訪れていた。
その一報を聞いた時、マリアベルはこうつぶやいた、
「あのお店には今後も通い詰めましょう、誰よりも熱心に。ジョニー店長のお勧めは全部乗っからせて貰いましょう!」
こうして美容院『アンジェリ』いちの太客が、誕生したのであった。
その正体はジョニーに恩を感じたマリアベルだった。
因みに、そうで無くとも、毎回この二人は店販商品を抱える様に買い漁っている。
ジョニーが心配する程に。
フェリアッテの一件は、マリアベルにとっては、ジョニーに恩義を感じる出来事であったのだが、その出来事が無くとも、店販商品の爆買いは変わらなかっただろう、とは後のジョニーの発言である。
その発言に間違いは無いと思われる。
女性の美への渇望は異世界でも変わらない様である。
マリアベル・ベルメゾンは幼馴染であり、かつ親友からの手紙を読んで驚愕していた。
彼女の親友とはイングリス・レイズ、マリオの奥さんである。
二人は幼い頃からの友人であり、気心知れた仲であった。
今ではお互いの境遇が、簡単に会う事を許さないのだが、この様に手紙のやりとりは続いている。
その手紙の内容はこうであった。
ある時突然美容院なるお店が領内に出来ていた、大魔導士様のお導きらしい。
そして偶然にも娘が、寒空の中お店に立ち寄ることになった。
其処に居たのは、この国では余り見かけない風貌の男性。
その男性に介抱され、摩訶不思議な食事を提供されたのだと。
食事は娘曰く、この世の物とは思えない程美味しく、夢にまでみるのだとか。
名をカップヌードルと言う。
そのお礼がてら主人がお店に訪れた事が切っ掛けで、イングリスもその男性と出会うことになった。
その男性はジョニー店長、この領地初の美容師である。
そのジョニー店長が、私が生まれて以来、ずっと悩み続けてきた癖毛を、特殊な施術で物の見事に解決してくれた。
長年のコンプレックスが、数時間で解消されたことをとても感謝していると。
最近は世界が輝いて映っている。
世界がとても眩しいと。
一日でも早く会って、この私の髪形を見て欲しい。
その文字が嬉しそうに躍っていた。
そしてそのお店で扱われているシャンプーとリンスを届けるから、是非使ってみて欲しい。
その後には、シャンプーとリンスの使用方法が丁寧に記載されていた。
この様な内容が親友からの手紙に書かれていたのであった。
そしてマリアベルの前には、シャンプーとリンスが事も無げに置かれていた。
これはいったい何なのかと、手に取って確認している。
そこに描かれている文字は読むことは敵わない。
でも不思議と薄っすらと香しい臭いがする、そのシャンプーとリンスから。
まるで春先に咲き誇る花に似た香りが、鼻腔を擽り、爽やかな香りを伴わせている。
シャンプーとリンスを掴み取ると、マリアベルは意を決してお風呂場へと向かった。
付き人であるクロエを従えて。
髪を乾かすよりも前からマリアベルは驚きを隠せなかった。
手櫛の通る感覚、髪のさっぱり感としっとり感、そして艶髪。
鏡に映る自分が、これまで知っている自分ではなくなっている。
驚きと共に恍惚の笑みを浮かべていた。
髪の形状や質感があり得ないぐらい変貌していたのだ。
メイドであるクロエも隣でフリーズしていた。
いったい自分の御主人様に何が起こったのかと。
クロエの知るマリアベルは其処には居ない。
これまで以上に色気と麗しさの漂う貴婦人がそこには居た。
存在感が増しているとすら思える。
視線を交わすと頷き合う二人。
「クロエ!分かってますわね?」
「はい!」
二人は颯爽とクローゼットに突入した。
行動力の塊であるこの二人は、勢い勇んで着替えを始めた。
我先にと慌ただしい。
込み上げてくる嬉しさと、興奮を押し隠して、変装をする二人。
後は行動に移すのみであった。
「行きますわよ!」
「はい!」
町娘に似た衣装を身に纏ったマリアベルとクロエが、伯爵邸から抜け出して、街を散策することは、なにも今に始まったことではない。
二人にとっては日常の延長線上でしかない。
これを知るのは、この二人とギャバンのみである。
ある時こっそりと裏口から抜け出る所をギャバンに見つかってしまい、程々にお願いますと遠慮気味に苦言を呈されただけである。
その為、本日もギャバンには一報を入れている。
お出かけしますと・・・
どうしても行かなくてはならないお店が出来たと。
その知らせにギャバンは、配慮して口元をやや歪めただけであった。
マリアベルは伯爵の第一夫人という立場に居ながらも、元は商人の出である。
型苦しい貴族の礼儀や作法が好きでは無かった。
でも普段はそんな態度を微塵も表さない。
夫である伯爵の評判を落とさない様にと努めている。
人様の前では第一夫人の格を守る、貴族にとって規範的な行動をとっていた。
マリアベルは伯爵の第一夫人である事をしっかりと自覚し、その立場や地位を汚さない行いを是としている。
それはあくまで貴族としての時間の時に限られているのだが。
でも根は立場や地位で跪かれる事を快くは思っていない。
彼女は特別扱いをされたくはないのだ。
特別扱いをされることに優越感など一切感じない。それ処か非日常的な扱いを受けることに嫌悪感を感じるのだ。
その根底には商人の血が色濃く流れているのだろう。
彼女の父親は一代で大商会を設立し、メイデン領ではその名を知らない者はいないほどの、有名な大商会の設立者だ。
実際、メイデン領の納税額の一番高い商会は、このメンデス大商会である。
父の教えはこうであった。
「お客様は誰であれ、同じサービスを受けなければならない、それは相手が貴族であっても、国王様であっても、はたまたボロ布を羽織った子供であってもだ」
商人として、お客さんを地位や立場で差別しない姿勢が、マリアベルの父、イグナシオ・メンデスの教えであった。
彼女にとってこの教えは尊い。
その為、街に散策に出かける際には、町娘に変装をし、どのお店でもそのお店独自のサービスを堪能する。
そして一般市民であるからと邪険に扱うお店には、二度と彼女は足を運ばない。
そう、それは貴族としてもだ。
これは彼女の美学なのである。
街にひっそりと散策に出かける時には、クロエが必ず同行する。
クロエは只のメイドではない。
その見た目は童顔で、可愛らしい印象を受ける。
黒髪が短く片側だけ刈上げられ、横髪を左耳に掛けている。
右目は前髪で隠れていた。
その特徴的な髪形は彼女の存在感を強く押し出している。
実はクロエは魔導士であった。
護衛として、この者以上に頼りになる者はこのメイデン領には存在しない。
強面の冒険者が五人がかりで襲ってきたとしても、一瞬にして蹴散らしてしまうだろう。
それ程までにクロエの魔法は強力だ。
クロエは御主人様であるマリアベルを尊敬している。
本当はクロエはその魔法の腕を買われて、伯爵が抱える護衛師団に入団する予定であった。
しかしマリアベルがクロエの存在を知り、護衛師団から引き抜いた事で、メイド兼護衛としてマリアベルに付き従っている。
当初は第一夫人のメイド兼護衛などやりたくはなかったのだが、クロエはマリアベルの人となりを知った。
始めて二人して変装をし、街に散策に出かけた事をクロエは今でも鮮明に覚えている。
このご婦人はなんてお転婆なんだと頭を抱えそうになった。
伯爵の第一夫人がまさかこんな一面を持っていたことに、最初こそ戸惑ったクロエだったが、次第に慣れ、今ではこの散策が彼女にとっての至福の時間となっている。
この町娘スタイルの時の二人は、齢の離れた姉妹の設定である。
クロエにとっては、マリアベルは本当の姉では無いかと錯覚を覚える程に、役に徹している。
それはマリアベルも一緒で、町娘スタイルの時はクロエを妹として扱っている。
とても相性の良い二人であった。
本当の姉妹と周りが勘違いしてしまう程に。
二人は馬車の定期便に乗り込み、荷台の中で揺れていた。
そしてマリアベルは考えを巡らせる。
それは第二夫人のフェリアッテの嫌がらせについて。
いや、嫌がらせ等という生易しい物ではない。
時には生命の危機すらも感じた出来事もあった。
ファリアッテの嫌がらせは、彼女が子供を産み落としてからは、より過激になっている。
自分の子供を何としても伯爵の後継にしたいのだろう。
その意思を強く感じる、何が何でもと・・・
そんな事情が有る為、彼女は髪結いさんを抱えていない。
髪結い組合はフェリアッテの独壇場なのだ。
フェリアッテの息の掛かった者を抱える気にはなれなかった。
実際髪結い組合はいい噂を聞かない。
その為、現在のマリアベルの髪結いはクロエが代行している。
念の為、息子のロバートには毒味役が付いている。
辛い想いをさせてしまっているなと彼女は頭を悩ます。
当然伯爵には陳情を何度も何度も入れている。
しかし返って来る言葉は毎回同じだった。
フェリアッテに限ってはそんな事はありえない、と。
幸いギャバンはマリアンヌに好意的だ。
何度もギャバンとは協議を重ねているが、どうしても伯爵がファリアッテのことになると盲目的になるのかが見えてこなかった。
疑いの目を常に向けてはいるものの、フェリアッテは尻尾を一切掴ませなかったのだ。
媚薬の様な類の道具を使用しているのではないか?
はたまた伯爵を何かしらの理由で脅迫しているのか?
伯爵はファリアッテを無下に出来ない理由があるのではないか?
等々、常に彼女は思い悩まされていた。
そんな現実から逃避したいということもあり、町娘スタイルは止められない。
これは彼女にとっては気晴らしでもあったのだから。
ふとマリアンヌは首を左右に振る。
こんな事を考えていてはいけない、折角変装してまで街に繰り出しているのだ。
ここは美容院『アンジェリ』に想いを馳せよう。
隣ではその胸中を感じ取ったクロエが頷いていた。
そうあるべきと視線が訴えかけている。
美容院『アンジェリ』を外側から眺める二人。
二人は口をぽかんと開いて、眼を見開いていた。
このお店はいったいなんなのだと・・・
白を基調とした外壁、そして重厚な両開きの扉。
所々に凝らされている意匠が、巧の技を感じさせる。
恐らくお店の名前が刻まれているのであろう文字は、鮮やかなオレンジ色だった。
庭先は丁寧に整えられ、石畳が敷かれている。
まだ春を迎える前だというのに、花壇には花が咲いていた。
この花を二人は見たことがない。
白と淡い紫色の花びらを、目一杯広げている。
朧げだが確実に、その花は冬の時期であるにも関わらず、満開のアピールをしていた。
その有り様に健気であると、思わず花弁を撫でたくなる。
なによりも驚いたのは、その店内が透けて見える窓ガラスの透明度。
お店の外側からでも店内の様子が窺い知ることが出来た。
この国にはここまで完成されたお店は存在しない。
まるでお伽話に出てくるお店ではないかと錯覚してしまう。
一瞬狼狽えそうになる二人であるのだが、ここは現世であると認識を改める。
間違っても夢の世界ではないと。
実際に目の前に美容院『アンジェリ』は存在する。
この街の風貌に似合っている様で、似合っていない、摩訶不思議なお店が二人の来店を待っていた。
高鳴る胸の感覚に、嬉しさが込み上げてくる。
二人は視線を重ねると店内へと歩を進めた。
その歩みは踊りだしそうなステップであった。
「いらっしゃいませ!」
一人の男性が、見たことも無い装置で禿げたおじさんの頭を洗っていた。
いや、これは先ほど使用したシャンプーに違いないと、マリアベルは当たりを付ける。
受付の奥から赤髪の少女が顔を出すと、こう告げた。
「いらっしゃいませ!美容院『アンジェリ』にようこそ、ご予約の方でしょうか?」
目鼻立ちがくっきりとしていて可愛いが、随分とおぼこい印象を受ける少女、成人しているのかどうかという年齢だろう。
「あ、いえ、予約はしていません」
クロエが答える。
続けてマリアベルが、
「予約しないと駄目でしょうか?」
不安な表情が揺れている。
「はい、申し訳ありませんが、今日は予約で埋まっていまして・・・」
すまなそうな視線を赤毛の少女が投げかけてきた。
二人は顔を突き合わせると視線で会話をする。
これは予約をしないといけないなと・・・
「予約は最短でいつが空いているのかしら?」
赤毛の少女が受付の中にあるであろう予約表を確認すると、
「来週の今の時間からになりますが、予約を取っていかれますか?」
簡易的ではあるが、手作りのメニュー表がカウンターの上に置かれていた。
それを手に取り、眉間に皺を寄せて考えるクロエ。
一方マリアベルはもう決めていたのだろう、瞬時に施術のメニューを告げた。
「ストレートパーマでお願いします」
すると先ほどのジョニー店長であろう男性が、シャンプーをしながらも、熱意の籠った視線をマリアベルに送って来る。
嬉しいのか、口元が緩んでいた。
その男性はシャンプーを終えておじさんを立たせると、カット台に誘導していた。
誘導を終えたジョニー店長であろう男性が、マリベルに近づくと、マリアベルの髪の毛を凝視する。
「フム・・・これは2時間以上はかかりそうですね、髪に触れても宜しいですか?」
「ええ、お願いします」
マリアンヌはジョニー店長に向けて頭を下げる形となった。
これはマリアンヌの正体を知っている者からはあり得ない行為だ。
伯爵の第一夫人が、どこの馬の骨ともつかない男性に頭を下げている。
この世界ではあり得ない光景だ。
「では・・・っと」
髪の毛に触れて感触を確かめるジョニー店長。
「そうですね・・・やっぱり2時間は最低欲しいな・・・出来れば2時間半・・・どうでしょうか?」
「はい!大丈夫です」
期待の眼差しをジョニー店長に向けるマリアベル、まるで乙女の様な羨望の輝きの籠った視線だ。
「私は、カットをお願いします!」
「畏まりました!ストレートパーマとカットですね。では来週のこの時間にお待ちしております!」
笑顔を振りまいて二人は帰路についた。
そして二人が店を出ると、
「よーし!よし!よし!」
美容師としての仕事が出来ると一人興奮するジョニー店長がそこにはいた。
シルビアは訳も分からず、引き攣った頬を撫でていた。
遂に予約の日が訪れていた。
二人は朝からそわそわと浮足立っている。
特にマリアベルは気が気ではなかった。
マリアベルも実はイングリスと同様に、癖のある髪の毛に不満があったからだ。
コンプレックスを抱える程では無いにしても、改善できるなら是非お願いしたいと思っていた。
まだ予約の時間には程遠い時間であるのに、既に二人は変装を終えていた。
随分と気が早い。
この後に訪れるであろう興奮の時間を待ちきれないのだろう。
馬車で揺られつつも、マリアベルは夢想が止まらない。
年甲斐も無くワクワクしている自分に少々面食らっているぐらいだ。
隣に控えるクロエもたいして変わらない。
でも、時折表情を改めて鋭く周りを警戒する。
数秒後にはまた可愛く変貌を遂げるであろう自分を想像する。
そして遂に美容院『アンジェリ』の前に馬車が到着した。
そんな夢見心地の二人は『アンジェリ』へと歩を進めた。
浮足立ったステップが、軽くリズムを刻んでいた。
万遍の笑顔で二人を迎え入れるジョニー店長とシルビア。
最初の時には気づかなかったが、暖かな風が店内に漂っていた。
外の寒さからは考えられない温かさ。
それであれば上着は必要ないだろうと、脱ぐことにした処に声を掛けられた。
「お預かりします」
シルビアに手を差し出されていた。
へえー、と感心するマリアベル。
すると、湯気が立ち昇る純白の小さなタオルを手渡される。
「これで暖まってください、おしぼりです。手を拭いてください」
シルビアの笑顔が眩しかった。
手に取ると、おお!これは嬉しいサービスだ。
一心地着くことが出来る。
手から伝わる温かさが、凍えた身体を溶かしてくれる。
隣ではクロエがほっと一息ついていた。
もうこの段階で料金を請求されたとしても、支払うであろうとマリアベルは考えている。
暖が取れ、おしぼりなる物が提供された。
これは立派なサービスである。
後日知るがこれは無料のサービスであった。
その事に驚きを隠せなかったマリアベル。
どうしてこれを無料のサービスに出来るのかと。
「じゃあ、マリアベルさんはこちらに座って下さい、クロエちゃんはマリアベルさんの放置時間にカットを行いますね」
ジョニー店長の爽やかな雰囲気が、絶妙にこのお店の雰囲気に融合している。
来店開始早々、ものの1分にも満たない時間で、既に二人は心を鷲掴みにされてしまっていた。
クロエは待合のソファーに腰掛け優雅に寛いでいる。
マリアベルはカット台に誘導された。
ここからは二人にとっては忘れることなど出来ない、夢の時間の始まりとなったのであった。
放置時間には飲料が提供された。
無難な処で紅茶を頼んでしまったが、後日これを反省することになる。
コーヒーなる異国の飲料がある事を知ったのは、次のイングリスからの手紙で知らされた。
最初から教えておいてくれよとは親友には言えなかった。
というのも、イングリスがコーヒーを味わったのは、二週間後にカットに訪れた時だったからだ。
そして特別にと、ロールケーキなる珍妙なお菓子が無料で提供された。
恐らく乳の類のお菓子であろう。
ジョニー店長に言わせると、スイーツという物らしいのだが、これが爆発的に美味しかった。
クロエは何を勘違いしたのか、お替わりを要求していた。
でも不思議なもので、そのお替わりにジョニー店長は対応してみせたのだ。
ジョニー店長に言わせると、シルビアちゃんの為にたくさん買っておいて正解だったとの話だった。
当のシルビアは舌を出して照れていた。
可愛らしい女子である。
そして当然の如くマリアンヌにもお替りが提供された。
マリアンヌはじっくりと、味わい深くロールケーキを堪能していた。
こんな甘味は食べたことが無い・・・表現できないほどの至福の時間・・・
施術を終え、満足感と高揚感でいっぱいとなった二人は、来月の予約を行い、帰路についた。
ジョニー店長にお勧めされたトリートメントを大事そうに三つも抱えて。
あろうことか、半年後にマリアベルとクロエの世界が一変した。
それはフェリアッテの失脚だった。
これまでの身の危険を感じる様な出来事はその後一切なくなり、愛息子のロバートの毒味役もお役御免となった。
平和で穏やかな日常が伯爵家には訪れていた。
その一報を聞いた時、マリアベルはこうつぶやいた、
「あのお店には今後も通い詰めましょう、誰よりも熱心に。ジョニー店長のお勧めは全部乗っからせて貰いましょう!」
こうして美容院『アンジェリ』いちの太客が、誕生したのであった。
その正体はジョニーに恩を感じたマリアベルだった。
因みに、そうで無くとも、毎回この二人は店販商品を抱える様に買い漁っている。
ジョニーが心配する程に。
フェリアッテの一件は、マリアベルにとっては、ジョニーに恩義を感じる出来事であったのだが、その出来事が無くとも、店販商品の爆買いは変わらなかっただろう、とは後のジョニーの発言である。
その発言に間違いは無いと思われる。
女性の美への渇望は異世界でも変わらない様である。

