季節の変わり目を告げる寒空の風物詩の空っ風が、大地の湿り気を伴った微風に変わり始めた頃。
灼熱の太陽はとっくに影を潜め、月光が優しく闇夜を照らしている時間帯。
この世界は月の光に照らされていた。

美容院『アンジェリ』ではジョニーこと、神野丈二が一人黙々と作業をしていた。
水が使い易い様にとシンクの脇で、研ぎ石にハサミを滑らせている。
何度も水を掛けては、ハサミを滑らせていた。
全く力は入っていない、ゆっくりとじっくりと刃先を滑らせている。
ハサミを滑らせる度に、刃先の状態を確認していた。
その視線には情熱と熱意が込められている。
今のジョニーには誰かが話し掛けても、その声は届かないだろう。
それ程集中力を高めて作業に当たっていた。
その様は熟練の職人の所業である。

時折、一瞬にも満たない瞬間に見せる表情は、ハサミに何かを宿わせる様な、そんな想いを感じさせた。
いや、そんな生易しいものではない、魂を込めているかの様な気概を纏っていた。
これぞ正に精魂込めるである。
研いでいるハサミに自分の魂を分け与えている。
そんな神々しさを感じる。
集中を超えたその先の、云わばトランス状態に至っている。
集中と緩和、相反する二つがここに同居していた。
何を想い、何を考え、何を込めているのだろうか・・・

その横顔からは様々な想いが想起させられた。
それは決して消極的な否定的な想いではない。
積極的な肯定的な想いであろう事は確かだ。
熟練の職人が魅せる、想像以上の何かがそこにはあった。
物質的であって、そうで無い何か・・・
常人では計り切れない、観えない何かがそこには存在していた。

やっと手を止めると、ジョニーがふと呟いた、
「ふう・・・これで癖は無くなっただろう・・・」
その後、ウィックを相手に何度もそのハサミの切れ味を確かめている。
少しでも癖がつかない様に、細心の注意を払いながら、角度を気にしてハサミを入れて、その切っ先や切った髪を確認している。
まだ集中力は切れていない。
ここが山場だと更に集中力が増している。
鬼気迫る表情を浮かべていた。
最後に一枚の白い紙を取り出して、切れ具合を確認して仕上げとなった。

そして納得がいったのか、こんな事を言い出した。
「よし、出来たな・・・」
満足げな笑顔だった。
振り返ると時計を眺める。
「やっば!・・・もうこんな時間なんだ・・・」
そそくさと片付けを行うと、裏口から消え去っていくジョニー。
どうやら時間を忘れて作業に没頭してしまっていたみたいだ。
その顔には満足そうな口元が張り付いていた。