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「歌った歌ったぁ」
三時間後。満足そうな顔をしてソファーにどかっと座る先輩。先輩は、どんな曲でも立ち上がってお腹に手を当てて力みながら歌う。さすがに二人きりだと自分の番が来るのはあっという間。私は開始一時間で盛り上げ役に徹することにした。二時間、先輩の独壇場。
「もう三時ですよ。一時間くらいしか寝れません」
さっきまで全然眠たくなかったのに、突然襲ってきた睡魔。眠くなったせいで、先輩への当たりが強くなってしまった。
「え、寝るの?」
「寝ないと明日に響きません?」
「一時間しか寝れないのに?」
それは、三時間も歌ったからじゃないですか、という言葉が喉まででかけたけれど、止めた。
「それじゃあ、どうするんですか?」
「久々だし、話そうよ。赤滝、俺に聞いて欲しいことあるんじゃない?」
「……聞いて欲しいこと?」
こてんと小首を傾げると、先輩が口を開こうとした。
「愚痴とか溜まってるでしょ。俺、聞くよー?」
前みたいに、へらっと笑う先輩。彼は、いつもタイミング良く私のガスを抜いてくれていた。そのおかげで、私は会社に居続けられた。私のことをすぐに見破ってしまう。
少し口を開けて言ってしまいそうになったが、グッと堪えた。先輩は、もうーー私の教育係じゃないし、他の部署でも大変なはず。異動して一ヶ月しか経っていない。私なんかより、ずっと大変なはず。
「さ、さぁ。何のことでしょう」
「何で隠すんだよー。死人に口なしって言うだろ」
「それは、死んだ人は口をきけないから罪をなすりつけられたりするって意味の言葉ですよ」
「え、そうなの? 死んだ俺なら他の奴に言いふらしたりする心配はないから言えって言いたかったんだけど」
「……え?」
誤魔化そうとした矢先、先輩の口から信じがたい事実が飛び出した。
死んだーー俺? 待って待って、頭が追いつかない。
「ビックリする? なになに、もしかして俺って職場で死んだこと知られてない? バックれたとか思われてる?」
「え、あ、いや……」
さっきまで普通に話すことが出来たのに、先輩が死んだことがうまく頭の中で処理できない。
先輩、本当に死んでる? 化けて私の前に出てきたの? 私、霊感とかないーーと、信じてるんだけど、実はあった?
この人、冗談とか平気で言えちゃう人だから……信じられない。
「どうしたどうした。さっきまで普通だったのに、急にしどろもどろになって。赤滝、おばけとか苦手?」
「あ、はい……苦手、なんですけど……いや、そうじゃないんです。えぇっと」
「俺が本当に死んだってことが、信じられない?」
「……はい。からかわれてるのかなぁ、って」
「じゃあ、触ってみる?」
はい、と私の前に手を差し出してきた。
これはーー握れということ……? 同じ部署で働いて、一緒に仕事をして、先輩という存在に憧れて、その気持ちがいつの日からかーー人としてではなく、異性として意識するようになった時、一度も触れられなかったその手に、今ーー触れようとしている。
この状況に、緊張感が走った。ごくりと生唾を飲み、意を決した。
「し、失礼します……!」
両手で恐る恐る、先輩の手を握ろうとした。
「どこ触る気だよ」
かしこまった私に、クスクスと笑う先輩。
冗談に返す余裕もなく、手に触れようとした。
ーーが。
「……触れない」
「そ。俺、死んでるから。理解してくれた?」
手を掴もうとしても、できない。触れられない。手も、ちょっと伸ばした先にある腕に触れようとしても貫通してしまう。腕をピンと伸ばして先輩の胸板あたりに触れようとしても、触れられない。大きく腕を振っても、当たらない。
「赤滝って結構大胆なのな」
「はっ……すみません」
「まぁ、信じられないよな。まさか今日、赤滝が俺のこと見えるようになると思わなかった」
「……へ?」
先輩の言葉に、瞬きを繰り返した。
「今日まで、赤滝が駅に来る時ずっと声をかけてたんだ。死んだすぐ後ってさ、自分が死んだって自覚なんかないんだ」
困った顔を浮かべて言う先輩。
先輩が言うには、自分が死んでることを自覚したのは誰かとぶつかっても、何も感じなかったから。ガラス越しに、自分の姿が映らないから。
そして、何度私に声をかけても私が反応しなかったから。
「最初は、無視してんのかなーって能天気に構えてた。でも、赤滝はそんなことする子じゃないじゃん? それに、駅で見かけるたびにやつれていって。なんとかしてあげたくても、何も出来なくて。情けないなーって、思ってたよ」
「そんな……私は、先輩が黙って部署を変わったんだって思ってました」
「俺、異動したことになってんの?」
「……はい。だから、今まで先輩に振られてた仕事が全部私に来て、理不尽に怒られて、終電にも間に合わない日が増えて。先輩に、いっぱい守ってもらってたんだって気付きました」
今まで一度も素直にこんなことを言ったことがない。あっけらかんとして、ひょうきんな先輩は冗談ばっかり言ってた。そんな先輩だから、私は真面目に頑張らないといけないんだって思ってた。
「先輩、どうして亡くなったんですか」
「俺、疲れてたみたいでさ。ホームに転落したみたい。んで、タイミング悪く電車が来て轢かれたみたい」
自分の死を他人事のように言う先輩。
「可愛い後輩を残して死んだのが心残りだったけど、今日会えてよかったよ」
「……え?」
「今日ーー四十九日なんだ。多分、こうして赤滝と最後にカラオケできたのも、話せたのもーー神様が最後にくれたチャンスなのかもなぁ」
チャンスーー?
それ、どういうこと……?
そう思っていたら、先輩の体がだんだんと透け始めた。先輩の後ろの壁が見え始めてる。
「そんな……! 先輩っ! 私っ……先輩と同じところに行きたい……!」
これが最後。そう思うと、ずっと言いたかった言葉が口から出てしまった。
この言葉を聞いて驚き、目を丸くしていたけれど透けても大きな手で私の頭を撫でた。
「何言ってんだ。今日、やっとお前に声が届いたのはーーお前が、電車に飛び込んで死ぬのを防ぐ為だろ。お前が生きる為に、神様が許してくれたんだ。それをないがしろにしたら俺、地獄行きだろ」
そう言うと、先輩の姿はすぅっと薄くなっていった。
「じゃあな。あと半世紀くらいはこっち来んなよー」
と、最後までおちゃらけた風に言って先輩の形は消えてしまった。
