滲んだ空の下、台本の空白に君を書いた。

 真っ暗だった視界が徐々に明るさを取り戻す――とはいえ、まだ薄暗くて、目が慣れてようやく動ける程度だ。最近は、アラームが鳴るずっと前に目が覚めてしまう。学校の日はできるだけ寝たいというのに、一度覚めてしまった脳では再び眠りにつくことはできず、ベッドから起き上がってしまった方が有意義だ。
 思えば、部活を始めてからというもの夜眠りにつく時間が早くなった。早く寝たらそれだけ長く寝てしまえばいいのに、私の体はきっちりといつもの睡眠時間で目が覚めてしまう。
 体を起こしカーテンを開ければ、窓には雨が強く打ち付けられている。数日前の六月七日に梅雨入りをしてから、毎日のように強い雨が降り注いでいる。窓のそばはひんやりとしていて、その寒さを教えるように体が震える。
 部屋の電気をつけ。パーカーを羽織って椅子に座る。ぐっと伸びをしてから、タブレットの電源をつけた。夜にすることの多かった絵本を描く作業を、早く目が覚めるようになってからは朝にすることが多くなった。今までは平日の朝にそんな余裕はなかったが、案外集中できるものなのだと知る。
 高校に入学してから描き始めたこの絵本は、もうしばらく物語が進んでいない。最初は順調だったのに、決めていた結末がどうしても納得のいかないものに感じてしまう。描いては消す繰り返すだけで、あっという間に時間が過ぎていく。
 最初は絵本が好きで描き始めたくせに、今では絵本が嫌いで、それでもやっぱり好きだからこうして描いているのだろう。自分の描く絵本は何のためにあるのかなんて考えても無駄で、私だけの物語が出来るだけなのに。

「……もう二時間経ってる」

 画面の右上に小さく表示された時刻は七時になっていた。タブレットの電源を落として部屋を出て、顔を洗ってリビングへ向かうと、キッチンではお母さんが弁当を作っている。朝ごはんの前に着替えて準備を済ませようと自室に戻れば、ほんの少しだけ部屋が明るくなっている。まだまだ新しい、しわのない制服に袖を通し、洗面所で髪の毛を整える。雨の日でもいつも通りポニーテールにしてしまえば、髪の広がりなんて気にならない。

「雨ばっかりで嫌だね」

 リビングに行けば、お父さんも起きてきて朝ごはんを食べていた。その隣に座ったお母さんがテレビを見ながら呟く。テレビに表示された一週間の天気予報はずっと傘マークが並んでいる。

「雨なんて好きな人いないのに」

 ブツブツと文句を言うお母さんの言葉を聞き流しながら、朝ごはんを食べ始める。雨の日のお母さんの機嫌はあまり良くない。こういう日は下手に触れないのが一番だと私は知っている。黙々とご飯を食べているとお母さんが静かになり、どうしたのかとそちらを見ると目が合った。

「芽依、そろそろ髪切ったら? 長いの鬱陶しいでしょ」
「あー……」

 お父さんも私も喋らないでいると、いきなり私に話を向けられていた。箸を止め、一瞬で思考を巡らせて口を開く。

「髪を結ぶだけなの楽でいいんだもん。短いと寝癖大変でしょ」
「まあ、芽依寝相酷いもんね。それでもそんなに伸ばさなくたっていいのに」

 目は合っているようで合っていない。私の髪の毛の方に視線を逸らしている。私が髪を伸ばしていることが、なぜかお母さんは気に入っていない。いつだったか、中学生のころに「変に色気づいて……」と言われたことがある。その日から気づいたこと、それはお母さんは私が女の子らしくあることがあまり好きではないようだった。それは多分、お母さんにとっては無意識で、少しでも可愛くあろうとする私をお母さんは否定する。
 メイクをすることだってまだ早いと言われ、お母さんから隠れてするようになった。髪の毛を伸ばすのは、そんなお母さんへのちょっとした反抗心なのかもしれない。髪を伸ばしたから女の子らしいとは思っていない。それでもお母さんの言うこと全部に従っているわけではないのだと自分に言い聞かせている。

「行ってきます」

 いつも通り迎えに来た陽葵と並んで傘を差す。雨音に負けないように声を張る陽葵が意地らしくて可愛くて、朝ごはんのときの憂鬱な気持ちは消え去っていた。


 放課後、一度職員室に行ってから教室に戻る。職員棟までの渡り廊下は屋根があるものの、横から打ち込む雨で少し濡れてしまった。リュックを持っていけば良かったなと後悔しても遅い。机の上に用意していたリュックを背負い、玄関に行くとそこには雨が弱まるのを待つ生徒が数人だけいる。
 傘立てから自分の傘を取り、靴を履き替えて玄関を出る。屋根の下で少し待ってみるが、雨は中々弱まりそうにない。既に少し濡れているのだから、これ以上濡れても変わらないのかもしれない。そう思い傘を差そうとしたそのとき、背後から肩を叩かれな。振り返れば、顔も名前も知らない男子が立っていた。

「浅川さんだっけ?」

 名前を呼ばれ、クラスメイトにこんな人はいただろうかと考える。完璧に名前と顔が一致していないとはいえ、流石に見たことのある顔くらいはわかるはずだ。玄関はいくつかのドアに別れており、私と同じところから来たということは一年の他クラスの人だろうか。

「あ、俺一組の――なんだけど、浅川さんって柏木さんの幼なじみなんでしょ?」

 雨の音で相手の名前は聞こえなかったが、重要なことではないので気にしないことにする。この人の目的がすぐにわかってしまい、もっと早く部活に行けばよかったと、今日二度目の後悔をする。
 この人はまだマシな方だ。初めから陽葵目当てで声をかけてきたのだとわかりやすいのだから。変に隠さず二言目には陽葵の名前を出した。
 気づかれないようにため息を吐き、まっすぐと目を見つめる。

「陽葵の連絡先とかは自分で聞いてください。じゃあ、急いでいるので」

 相手に返事する隙も与えず、勢いよく傘を差して駆け出す。傘を差している意味なんてないくらい雨で濡れるが、そんなことどうでもいい。あの場にいると嫌なことを思い出してしまいそうで、早く立ち去りたかった。
 もう玄関からは見えない場所に来て、ようやく足を緩める。スカートがじっとりと重くなっていて、先ほどよりもずっしりしている。最悪だ、こういうときは雨が嫌いになる。
 放課後になってかなりの時間が経過している。もう部活は始まっているだろう。もっと早く行けたはずなのにと自分を責めながら足を進めるしかない。
 やはり部活はもう始まっていて稽古部屋から発声練習をする声が聞こえてくる。誰もいない部室に入ってリュックを置く。スカートだけでなく中に履いていた体操ズボンさえも僅かに濡れていて気持ち悪いが、生憎今日は着替えを持ってきていない。本当に最悪だ、嫌なことばかりが頭の中に広がっていく。少しでも乾かそうとタオルをスカートに押し付けていると部室のドアが開いた。

「あれ、来てたんだ。お疲れ」
「お疲れ様です。すみません、遅れて」

 先ほどまで稽古部屋にいたはずの高瀬先輩が入ってくる。基礎練習は終わったのかと思ったが一人しか部室には来ず、稽古部屋からはまだ声が聞こえてくる。

「それは気にしないで。雨、大丈夫だった?」
「結構濡れちゃいました」

 視線を落として、タオルをぎゅっと押し当てる。冷えた制服のせいか、手が微かに震える。

「大丈夫? 何かあったんじゃ……」
「え?」
「すごく辛そうな表情をしてるから。気分悪い?」

 高瀬先輩の言葉で自分が酷い顔をしていることを知る。鏡を見ていないから自分ではわからないけれど、見てすぐわかるほど酷い表情なのだろう。

「大丈夫です。全然、元気です」

 語尾が小さくなってしまうが、それも寒さのせいにしてしまおう。私の返事を聞いて高瀬先輩は部室を出ていった。私もそろそろ行かなくてはならない。タオルを置いて部屋を出ようとすると、再び戻ってきた高瀬先輩とぶつかりそうになる。

「あっぶな……ごめん。勝手にお節介させて?」

 部室に戻るように促され、ゆっくりと中に戻っていく。「部長にもう少し遅れるって伝えてるから」と遅れたことは気にしなくていいのだと言ってくれた。座るように促されて、少し離れた隣同士に腰を下ろす。

「話せないなら話さなくていいんだ。ただそんな顔してる中で無理はさせたくない」

 微かに聞こえる部員の声と雨音が響く部屋で、高瀬先輩から口を開く。

「私、そんなに酷い顔してますか?」

 表情に出さないことは得意のつもりだった。それなのにこんなに心配されるほど私はわかりやすい表情をしているのだろうか。

「多分、みんなが見たらあまり気にならないんだと思う。ただ、俺は人の表情を見るのが癖みたいになってて、今の芽依は辛そうに見える」
「そうですか……少し、嫌なことがあっただけなんです」
「うん、無理にとは言わないけど、話を聞くことくらいはできるよ」

 いつもよりも落ち着いた口調で高瀬先輩は話している。その声色からもただ心配しているだけだと伝わってくるが、話すにもどう話し始めれば良いのか悩んでしまう。やっとの思いで出た言葉は、幼稚でくだらない言葉だったかもしれない。

「高瀬先輩は、誰かと比べて自分が嫌になること、ありますか?」

 私の言葉を静かに待っていた高瀬先輩は、一度瞬きをしてこちらに目を向ける。そしてゆっくりと、真剣な眼差しで答えてくれる。

「あるよ。俺は兄が一人いてさ、その兄がすごく優秀で自分と比べてばかりだった」
「そう、なんですね。私は幼なじみがいるんです。同じクラスで可愛くて何でもできる幼なじみが」
「うん」
「そんな幼なじみと比べてばかりで。……さっき、その幼なじみ目当てで他のクラスの人から声をかけられて、それで嫌なことを思い出してしまって」
「……嫌なこと?」

 高瀬先輩は私の次の言葉を待っている。話すか、話さないかの選択は私にある。不思議なほど先ほどよりも寒さは感じないが、鼓動はうるさくなっていくばかりだ。下唇を噛み締めて、心を決めて話し始める。

 その記憶は中学二年のことだった。中学二年は唯一、私と陽葵のクラスが別れた年だ。クラスが別れても陽葵は、時間さえあれば私のクラスに会いに来てくれていた。あのころは陽葵に劣等感を抱きながらも、今よりは純粋に過ごせていた。
 中学二年の夏、二学期に入ったばかりのころ、私はクラスの男子に告白された。正直相手のことが好きだったかと言われるとそうでもない。ただ、私を見てくれて好きだと言ってくれたことが嬉しくて、絵本の中の世界みたいだなんて、馬鹿みたいに浮かれてしまっていた。そうしてできた初めての彼氏に陽葵は自分のことのように喜んでくれた。
 しかし、付き合い初めて二週間が経ったころ、部活中に忘れ物に気づいて教室に戻ったときに聞いてしまったのだ。彼氏が私に告白したのはクラスの違う陽葵と関わるきっかけにしたかったからだと。一切悪びれる様子もなく、いつもいる友達と笑っていて、少しでも浮かれていた自分が恥ずかしくて仕方なかった。
 その日は教室に入ることなどできず、手ぶらで部活に戻り「忘れ物してなかった」と陽葵に笑ったことだけは覚えている。その後すぐに彼とは別れた。結局、その彼が陽葵と親しくなることもなかったと思う。ずっと、陽葵にも誰にも話せていない、私が忘れたい記憶だ。

「私に興味を持った人はみんな、私の先にいる陽葵を見てるんだって気づいただけなんです」

 こんなに気持ちは沈んでいるのに、声だって震えているのに、涙は全く出てこない。もうずっと昔に泣いたって無駄だと気づいてしまって、涙なんてとっくに枯れてしまっていた。

「私は陽葵みたいに……いや、ただ自分じゃない誰かになりたくて、そんな理由で演劇部に入ったなんて言ったら軽蔑しますか?」

 ずるい質問だと思う。欲しい言葉は決まっていて、それでいてその答えしか言えないような聞き方だ。こういうときでさえ、私はどこまでも醜い。

「軽蔑なんてしないよ。部活にはいる理由なんて、きっとみんな特にない。俺も、くだらなくて馬鹿みたいな理由で演劇部に入ったんだから」
「そう、ですかね」
「それに、どう考えても芽依は悪くないよ。さっきの話だって、今だって。芽依は幼なじみの子を傷つけないように一人で抱え込んでる。そんな誰よりも優しい人間なんだって、俺は知ってるから」

 高瀬先輩の言葉がストンと胸に落ちる。私の話を聞いて、欲しかった言葉でも想定していた言葉でもないけれど、この言葉は本当に私を見てくれているのだと、そう思ってしまう。

「気づかないだけできっと、自分を見てくれてる人はいるんだよ」

 そう笑う顔は、完璧すぎるほど優しくて暖かい笑顔だった。