小学生のころから、ずっと変わらない日課がある。その一つが陽葵と一緒に登校することだ。どちらかが休みでない限りは毎日二人で、それを九年間ずっと続けていた。
高校生になってもそれは当たり前のことで、私の家より駅から少し離れたところに住む陽葵は毎朝うちのチャイムを鳴らす。少し離れたところと言っても歩いて二分ほどしか変わらず、いつもの時間になっても陽葵が来なければ私が向かうことだってある。私にとっても陽葵にとっても、多分お母さんたちにとっても当たり前で日常生活の一部でしかない。
ただ、ほんの少しだけ変わったことといえば、学校に着くまでに二人きりではなくなることだろうか。小学校も中学校も徒歩圏内の場所にあり、二人で歩いて学校に通った。しかし、高校は電車に乗って登校する。入学して学校生活にもクラスにも慣れて、気がつけば途中の駅から乗るクラスメイトと自然に合流するようになっていた。いつの間に約束していたのかは分からないが、いつもの時間、いつもの車両に乗り込めば、次の駅でクラスメイトが陽葵を見つけてこちらに進んでくる。
「おはよー」
空いている訳でも混んでいる訳でもない車内で、一直線に陽葵の横に並ぶクラスメイト。また次の駅でそれがもう一人増え、四人で高校へ向かうようになっていたのだ。
まだ慣れないこれも、きっと一か月後には当たり前になっているのだろう。
二人きりで登校していたころは自然に手のぶつかる距離で歩いていた私たち。今ではどう頑張ってもぶつかることはない、陽葵の両サイドにはクラスメイトがいて、少し後ろを歩いている私も一緒に登校していると言えるのかはわからない。
昼休みになった教室は騒がしい。まだほとんどの人が教室内で弁当を食べていて私も例外ではない。椅子だけを後ろに向けて陽葵の机に弁当を広げる。弁当を食べる時間さえ陽葵の周りには人が集まるのではないかと思っていたが、この時間は意外とみんな自分の席で食べているようだった。
「ねえ、芽依も放課後出かけようよ」
卵焼きに箸を伸ばしながら陽葵は言う。部活は四月いっぱいは体験入部期間で、毎日部活へ参加しなくても良い。本人が決めたのなら正式に入部することも可能だが、毎日放課後を縛られることにもなるため四月中は体験入部のままの生徒が多い。私も、陽葵もまだ体験入部の段階で、放課後の部活は強制では無い。
「部活だから無理かなー」
「えー、今日くらいいいじゃん! 芽依もいなきゃ楽しくないよ」
「演劇部、部員少ないし休んで気まずくなるの嫌じゃん?」
「んー、そっか。じゃあ今度、絶対に一緒に出かけようね」
納得はしていないが受け入れた様子で言う。休んで気まずくなるなんてのは言い訳だが、部活に行くのは本当のこと。全てが嘘ではなければ陽葵はこれ以上何かを言うことがないことを知っている私はずるい。
「放課後、どっか行くの? 俺らも放課後遊ぼうって話してたんだけど一緒に行こうよ」
陽葵の隣の席で弁当を食べていた二人のクラスメイトが突然こちらに声をかける。陽葵の隣の席は女子だったが、離れた席の友達と弁当を食べており、空いた席にこの二人が座っている。彼らは部活動見学で陽葵たちと回っていたサッカー部に体験入学中の二人で、確か名前は佐原さんと村田さんだ。
ああ、やっぱりだ。こうなる気はしていた。放課後、陽葵が約束していたのはクラスメイトの女子だが、こうした話を聞きつければ必ずさらに人が加わる。この二人だって、自分たちも話しながらも私たちの会話に耳を傾けていたのだ。まだ知り合って一か月も経っていない――いないからこそ陽葵と関わりたいと思うのだろう。
「えっとー……佳奈ちゃんたちに聞いてみないと」
陽葵の言う佳奈さんは元々約束をしていた相手。佳奈さんともう一人、咲良さんの三人で約束をしており、私も誘っていいかと二人に言っていたらしい。佳奈さんと咲良さんはこのクラスでも特に陽葵と話していることが多く、すでに仲良くなっている。陽葵と一番一緒にいる私も二人と過ごすことは多いが、陽葵と比べると二人との距離は遠く感じる。
陽葵の返事を聞いた佐原さんは、すぐ二人に了承をもらい結局放課後は五人で出かけることになったようだ。すっかりクラスの雰囲気が固まり、佐原さんと村田さんはムードメーカーとして人気だ。そんな二人からの誘いなら悪い気はしない。たとえ目当ての人がいるのだとわかっていても、同じ時間を過ごせるならいいと思うのが普通なのかもしれない。それは多分、男子も女子も同じだ。
陽葵は私がいないと楽しくないと言うが、きっと五人で過ごすころには忘れているだろう。私はその中に入ることができるなんて思っていないし、きっと心の底から楽しめない。空気になって辛くなるくらいならば、私は初めから行かない選択肢を選ぶ。
放課後に行く場所を相談し合う声を聞きながら、箸を進めるスピードを早める。今朝「味濃いかも」と言われた卵焼きのしょっぱさを残したまま、水で流し込んで弁当箱を閉じる。
今日の昼休みは少しだけ長く感じた。
これまでの人生で、大きな声を出したことはあっただろうか。声を荒らげる、とまでは言わなくても声を張るということをしたことはあったのか。記憶をぼんやりと遡れば、幼稚園児でまだ活発で自分が世界の中心だと思っていたころの自分が思い返される。
あのころは陽葵は極度の人見知りで友達も私だけだった。それに比べて私は人と関わることが大好きで、いつもたくさんの人に囲まれていたような気がする。たくさん喋ってたくさん笑って、きっとあのころの私は大きな声を出していただろう。
今は私も陽葵も真逆の人間になっていて、その記憶が嘘ではないかと言われたらはっきりと否定できないほど自分でも信じられない幼少期だったと思う。
「一年生、もっとお腹から声出して!」
お腹から声を出すという感覚がいまいち分からないまま、声を出す。数日前に教えられた腹式呼吸なんてこれまで意識したこともない。突然言われてすぐに理解できるほど私は感覚派の人間でもない。両手を軽くお腹に当てて見ても、この声がお腹から出ているかなんてわからず、喉から声が出ているとしか思えない。
「はいっ、今日はこれくらいでいいか」
部長が手を叩いた音でようやく一息つける。演劇部に体験入部してから、毎日部活に参加している。初日は先輩方と話して終わった部活だったが、次の日からはいつも通りの部活のメニューが始まった。
演劇部がどのような部活内容か詳しくは知らなかったが、文化部だからそんなにきつくはないだろうという考えは甘かった。想像していたのは発声練習と演技の稽古くらいだったが、実際は柔軟や筋トレもしっかりし想像以上に体力が必要だ。
今は声を届ける練習をしていて、稽古部屋の壁際に私たちが立ち、向かいの壁に唯一三年の部長が立っている。私は精一杯声を出しても「もっと」と言われるが、部長の声はこちらまでまっすぐに届く。部長は男子だから……と一瞬考えたが、私の横に並ぶ二年女子の先輩も凛とした声が向こうまで届いており、純粋にすごいという感想だけが残った。キャストもスタッフも関係なく、基礎練習はみんなが参加している。
演劇部は現在、三年男子の部長を筆頭に、二年男子三人、二年女子二人の計六名が正式な部員らしい。
キャストは部長、高瀬先輩、剣道部と兼部している二年男子の三人。女子キャストはいないため、演出担当の二年女子が補っている。
スタッフは音響が二年男子、照明が二年女子をメインにし、その他の役割はみんなで支え合っているという、かなりギリギリの人数で活動している。
私ともう一人の新入生である他クラスの男子、二人が体験入部に来てくれただけで部員みんなが喜んだ理由がなんとなく察せてしまう。
志望は何かを聞かれ「演技をしたことはないけど、キャストが気になってます」と伝えると、ようやく解放されると大喜びする演出の先輩に周りが苦笑していた光景はかなり異様だった。
「休憩終わったらエチュードするか。今日は全員いるから四人ずつな」
「え〜」
基礎練習が終わって水分補給をしていると、ペットボトルの水を一気に飲んだ部長が言う。その言葉に先輩たちは嫌そうに顔をしかめる。
「エチュードって何ですか?」
私も疑問に思っていると同級生が部長に尋ねる。エチュードという言葉は聞いたことがあるような、ないような。何をするのかよくわからず、先輩たちが嫌がる理由もわからない。
「エチュードは、即興で芝居することだね。簡単なテーマとか設定は決めていいけど後は全部即興で演じるの」
「なるほど……」
演劇は台本があって当たり前だと思っていた。即興ということはセリフも自分で考えて発するしかない。始まりも終わりも決まっていない芝居ということなら、先輩たちが嫌そうにしているのも納得だ。
「下手くそでも面白くなくてもいいから、好きな演技をするんだ」
部長はそう言うが、好きな演技なんてわからない。適当に分けた四人ずつのグループ、もちろん一年の二人は違うグループになった。初めてが私しかいないのはどうしても不安で仕方ない。
「じゃあ、テーマは“天気”で。晴れでも雨でも曇りでもいい。役も指定しないから完全に即興でいこう」
二グループ、それぞれの代表として部長と高瀬先輩がジャンケンをする。みんなが見守る中、ジャンケンに負けた高瀬先輩は先にエチュードすることが決まった。同じグループに振り分けられた私も先ということだ。
まだ心の準備もできていない中、そんなこと知らない部長が「三、二、一、スタート!」と手を叩くと稽古部屋の空気がふわっと張り詰めた。様子を伺うようにちらりと先輩たちを見渡す。
「あっ、傘、忘れた」
沈黙の時間はほんの一瞬で、先輩たちはすぐに動き出す。僅かに顔を上に向けながら呟いた声に、もう一人が「じゃあ、入れてあげる」と応じて、芝居が生まれる。
雨音も風もない静かな部屋なのに、そこには雨が降っていているように思えた。
だけど、この空間で私だけ置いてけぼりだ。何を、どうすればいいのだろう。声を出そうと口を開くが、言葉が喉につかえて出てこない。ただぎこちなく立ち尽くすことしかできない。自分だけ時間が止まっているようで、頭が真っ白になる。
台本もない、指示もない。自分の意思で生み出す演技が怖かった。
「……寒い?」
不意に、傘を差した誰かが、そっと隣に立った。その声に振り向くと高瀬先輩が、演技のまま心配そうな表情でこちらを覗き込んでいた。
「濡れるよ。ほら、入って」
傘を持った手が少し、こちらに近づく。差し出された傘に入るように、ゆっくりと一歩高瀬先輩に近づく。
「ありがとう、ございます……」
ようやく振り絞って出た声は、きっと震えていた。セリフのつもりで出た言葉なのに震えてしまう声に、私は「ごめんなさい」と誰にも聞こえないような声で呟いてしまう。その言葉が高瀬先輩に届いたのか、彼はふっと笑った。
「寒かったよね。雨、止まないな」
そう言った後にボソリと「大丈夫」と呟く。
「大丈夫、エチュードに間違いなんてないから」
私にだけ聞こえたその言葉に、不思議なほど安心してしまった。緊張で感覚がなくなっていた手足の強ばりが、ゆっくりと解けていく。
“正解がない”ということは“間違いがない”ということ。ここでは何をしたっていいのだと教えてくれる。
「流れるままに、やってみて」
「……はい」
他の二人と自然に合流し、芝居を続ける。高瀬先輩が、まるで台本にそう書いてあるかのようなくしゃみをする。私が心配するように彼に声をかければ、彼は笑顔を返してくれた。いつの間にか、私の口元には自然と笑みが浮かんでいて、気がつけば芝居の中に入れていた。
高校生になってもそれは当たり前のことで、私の家より駅から少し離れたところに住む陽葵は毎朝うちのチャイムを鳴らす。少し離れたところと言っても歩いて二分ほどしか変わらず、いつもの時間になっても陽葵が来なければ私が向かうことだってある。私にとっても陽葵にとっても、多分お母さんたちにとっても当たり前で日常生活の一部でしかない。
ただ、ほんの少しだけ変わったことといえば、学校に着くまでに二人きりではなくなることだろうか。小学校も中学校も徒歩圏内の場所にあり、二人で歩いて学校に通った。しかし、高校は電車に乗って登校する。入学して学校生活にもクラスにも慣れて、気がつけば途中の駅から乗るクラスメイトと自然に合流するようになっていた。いつの間に約束していたのかは分からないが、いつもの時間、いつもの車両に乗り込めば、次の駅でクラスメイトが陽葵を見つけてこちらに進んでくる。
「おはよー」
空いている訳でも混んでいる訳でもない車内で、一直線に陽葵の横に並ぶクラスメイト。また次の駅でそれがもう一人増え、四人で高校へ向かうようになっていたのだ。
まだ慣れないこれも、きっと一か月後には当たり前になっているのだろう。
二人きりで登校していたころは自然に手のぶつかる距離で歩いていた私たち。今ではどう頑張ってもぶつかることはない、陽葵の両サイドにはクラスメイトがいて、少し後ろを歩いている私も一緒に登校していると言えるのかはわからない。
昼休みになった教室は騒がしい。まだほとんどの人が教室内で弁当を食べていて私も例外ではない。椅子だけを後ろに向けて陽葵の机に弁当を広げる。弁当を食べる時間さえ陽葵の周りには人が集まるのではないかと思っていたが、この時間は意外とみんな自分の席で食べているようだった。
「ねえ、芽依も放課後出かけようよ」
卵焼きに箸を伸ばしながら陽葵は言う。部活は四月いっぱいは体験入部期間で、毎日部活へ参加しなくても良い。本人が決めたのなら正式に入部することも可能だが、毎日放課後を縛られることにもなるため四月中は体験入部のままの生徒が多い。私も、陽葵もまだ体験入部の段階で、放課後の部活は強制では無い。
「部活だから無理かなー」
「えー、今日くらいいいじゃん! 芽依もいなきゃ楽しくないよ」
「演劇部、部員少ないし休んで気まずくなるの嫌じゃん?」
「んー、そっか。じゃあ今度、絶対に一緒に出かけようね」
納得はしていないが受け入れた様子で言う。休んで気まずくなるなんてのは言い訳だが、部活に行くのは本当のこと。全てが嘘ではなければ陽葵はこれ以上何かを言うことがないことを知っている私はずるい。
「放課後、どっか行くの? 俺らも放課後遊ぼうって話してたんだけど一緒に行こうよ」
陽葵の隣の席で弁当を食べていた二人のクラスメイトが突然こちらに声をかける。陽葵の隣の席は女子だったが、離れた席の友達と弁当を食べており、空いた席にこの二人が座っている。彼らは部活動見学で陽葵たちと回っていたサッカー部に体験入学中の二人で、確か名前は佐原さんと村田さんだ。
ああ、やっぱりだ。こうなる気はしていた。放課後、陽葵が約束していたのはクラスメイトの女子だが、こうした話を聞きつければ必ずさらに人が加わる。この二人だって、自分たちも話しながらも私たちの会話に耳を傾けていたのだ。まだ知り合って一か月も経っていない――いないからこそ陽葵と関わりたいと思うのだろう。
「えっとー……佳奈ちゃんたちに聞いてみないと」
陽葵の言う佳奈さんは元々約束をしていた相手。佳奈さんともう一人、咲良さんの三人で約束をしており、私も誘っていいかと二人に言っていたらしい。佳奈さんと咲良さんはこのクラスでも特に陽葵と話していることが多く、すでに仲良くなっている。陽葵と一番一緒にいる私も二人と過ごすことは多いが、陽葵と比べると二人との距離は遠く感じる。
陽葵の返事を聞いた佐原さんは、すぐ二人に了承をもらい結局放課後は五人で出かけることになったようだ。すっかりクラスの雰囲気が固まり、佐原さんと村田さんはムードメーカーとして人気だ。そんな二人からの誘いなら悪い気はしない。たとえ目当ての人がいるのだとわかっていても、同じ時間を過ごせるならいいと思うのが普通なのかもしれない。それは多分、男子も女子も同じだ。
陽葵は私がいないと楽しくないと言うが、きっと五人で過ごすころには忘れているだろう。私はその中に入ることができるなんて思っていないし、きっと心の底から楽しめない。空気になって辛くなるくらいならば、私は初めから行かない選択肢を選ぶ。
放課後に行く場所を相談し合う声を聞きながら、箸を進めるスピードを早める。今朝「味濃いかも」と言われた卵焼きのしょっぱさを残したまま、水で流し込んで弁当箱を閉じる。
今日の昼休みは少しだけ長く感じた。
これまでの人生で、大きな声を出したことはあっただろうか。声を荒らげる、とまでは言わなくても声を張るということをしたことはあったのか。記憶をぼんやりと遡れば、幼稚園児でまだ活発で自分が世界の中心だと思っていたころの自分が思い返される。
あのころは陽葵は極度の人見知りで友達も私だけだった。それに比べて私は人と関わることが大好きで、いつもたくさんの人に囲まれていたような気がする。たくさん喋ってたくさん笑って、きっとあのころの私は大きな声を出していただろう。
今は私も陽葵も真逆の人間になっていて、その記憶が嘘ではないかと言われたらはっきりと否定できないほど自分でも信じられない幼少期だったと思う。
「一年生、もっとお腹から声出して!」
お腹から声を出すという感覚がいまいち分からないまま、声を出す。数日前に教えられた腹式呼吸なんてこれまで意識したこともない。突然言われてすぐに理解できるほど私は感覚派の人間でもない。両手を軽くお腹に当てて見ても、この声がお腹から出ているかなんてわからず、喉から声が出ているとしか思えない。
「はいっ、今日はこれくらいでいいか」
部長が手を叩いた音でようやく一息つける。演劇部に体験入部してから、毎日部活に参加している。初日は先輩方と話して終わった部活だったが、次の日からはいつも通りの部活のメニューが始まった。
演劇部がどのような部活内容か詳しくは知らなかったが、文化部だからそんなにきつくはないだろうという考えは甘かった。想像していたのは発声練習と演技の稽古くらいだったが、実際は柔軟や筋トレもしっかりし想像以上に体力が必要だ。
今は声を届ける練習をしていて、稽古部屋の壁際に私たちが立ち、向かいの壁に唯一三年の部長が立っている。私は精一杯声を出しても「もっと」と言われるが、部長の声はこちらまでまっすぐに届く。部長は男子だから……と一瞬考えたが、私の横に並ぶ二年女子の先輩も凛とした声が向こうまで届いており、純粋にすごいという感想だけが残った。キャストもスタッフも関係なく、基礎練習はみんなが参加している。
演劇部は現在、三年男子の部長を筆頭に、二年男子三人、二年女子二人の計六名が正式な部員らしい。
キャストは部長、高瀬先輩、剣道部と兼部している二年男子の三人。女子キャストはいないため、演出担当の二年女子が補っている。
スタッフは音響が二年男子、照明が二年女子をメインにし、その他の役割はみんなで支え合っているという、かなりギリギリの人数で活動している。
私ともう一人の新入生である他クラスの男子、二人が体験入部に来てくれただけで部員みんなが喜んだ理由がなんとなく察せてしまう。
志望は何かを聞かれ「演技をしたことはないけど、キャストが気になってます」と伝えると、ようやく解放されると大喜びする演出の先輩に周りが苦笑していた光景はかなり異様だった。
「休憩終わったらエチュードするか。今日は全員いるから四人ずつな」
「え〜」
基礎練習が終わって水分補給をしていると、ペットボトルの水を一気に飲んだ部長が言う。その言葉に先輩たちは嫌そうに顔をしかめる。
「エチュードって何ですか?」
私も疑問に思っていると同級生が部長に尋ねる。エチュードという言葉は聞いたことがあるような、ないような。何をするのかよくわからず、先輩たちが嫌がる理由もわからない。
「エチュードは、即興で芝居することだね。簡単なテーマとか設定は決めていいけど後は全部即興で演じるの」
「なるほど……」
演劇は台本があって当たり前だと思っていた。即興ということはセリフも自分で考えて発するしかない。始まりも終わりも決まっていない芝居ということなら、先輩たちが嫌そうにしているのも納得だ。
「下手くそでも面白くなくてもいいから、好きな演技をするんだ」
部長はそう言うが、好きな演技なんてわからない。適当に分けた四人ずつのグループ、もちろん一年の二人は違うグループになった。初めてが私しかいないのはどうしても不安で仕方ない。
「じゃあ、テーマは“天気”で。晴れでも雨でも曇りでもいい。役も指定しないから完全に即興でいこう」
二グループ、それぞれの代表として部長と高瀬先輩がジャンケンをする。みんなが見守る中、ジャンケンに負けた高瀬先輩は先にエチュードすることが決まった。同じグループに振り分けられた私も先ということだ。
まだ心の準備もできていない中、そんなこと知らない部長が「三、二、一、スタート!」と手を叩くと稽古部屋の空気がふわっと張り詰めた。様子を伺うようにちらりと先輩たちを見渡す。
「あっ、傘、忘れた」
沈黙の時間はほんの一瞬で、先輩たちはすぐに動き出す。僅かに顔を上に向けながら呟いた声に、もう一人が「じゃあ、入れてあげる」と応じて、芝居が生まれる。
雨音も風もない静かな部屋なのに、そこには雨が降っていているように思えた。
だけど、この空間で私だけ置いてけぼりだ。何を、どうすればいいのだろう。声を出そうと口を開くが、言葉が喉につかえて出てこない。ただぎこちなく立ち尽くすことしかできない。自分だけ時間が止まっているようで、頭が真っ白になる。
台本もない、指示もない。自分の意思で生み出す演技が怖かった。
「……寒い?」
不意に、傘を差した誰かが、そっと隣に立った。その声に振り向くと高瀬先輩が、演技のまま心配そうな表情でこちらを覗き込んでいた。
「濡れるよ。ほら、入って」
傘を持った手が少し、こちらに近づく。差し出された傘に入るように、ゆっくりと一歩高瀬先輩に近づく。
「ありがとう、ございます……」
ようやく振り絞って出た声は、きっと震えていた。セリフのつもりで出た言葉なのに震えてしまう声に、私は「ごめんなさい」と誰にも聞こえないような声で呟いてしまう。その言葉が高瀬先輩に届いたのか、彼はふっと笑った。
「寒かったよね。雨、止まないな」
そう言った後にボソリと「大丈夫」と呟く。
「大丈夫、エチュードに間違いなんてないから」
私にだけ聞こえたその言葉に、不思議なほど安心してしまった。緊張で感覚がなくなっていた手足の強ばりが、ゆっくりと解けていく。
“正解がない”ということは“間違いがない”ということ。ここでは何をしたっていいのだと教えてくれる。
「流れるままに、やってみて」
「……はい」
他の二人と自然に合流し、芝居を続ける。高瀬先輩が、まるで台本にそう書いてあるかのようなくしゃみをする。私が心配するように彼に声をかければ、彼は笑顔を返してくれた。いつの間にか、私の口元には自然と笑みが浮かんでいて、気がつけば芝居の中に入れていた。


