***
アラームが鳴る少し前、朝の六時五十五分に目を覚ます。まだはっきりとしない意識の中、薄く目を開き耳を澄ませば、ぱらぱらと降り注ぐ雨の音が心地よく響いている。再び目を閉じればもう一度眠りにつくことができそうだ。
枕元に置いていたスマホが僅かに震えながらアラーム音を鳴らす。それを手に取りアラームを止めれば画面に表示された時刻は七時ちょうど。勢いよく体を起こし、ベッド横のカーテンを開ければ、薄暗い雨空が広がっていた。
「おはよう」
誰に言った訳でもない、ぽつりと呟けば今日も一日が始まる。顔を洗ってからリビングに向かえば、お母さんがコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。
「土曜なのに早起きね。今日は陽葵ちゃんと出かけるの?」
「うーん、そんなとこ」
冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注ぎながら適当に答える。お母さんは私が休日に早起きをする日は、陽葵と出かけるのだと思っている。それくらい、お母さんの中で陽葵は家族みたいに、当たり前の存在になっている。
「今日は雨だから残念だね。気をつけて出かけなさいね」
「うん」
七時十五分、起きてきたお父さんとすれ違うように部屋に戻る。春の雨はひんやりとした空気を纏っていて、家の中もペラペラのパジャマでは寒さを感じる。鼻を啜りながら昨日の夜から置きっぱなしの絵本をぺらりぺらりとめくる。その文字は目を瞑っても一言一句間違わずに読めるほど、何度も何度も読み返してきた絵本だ。
「芽依、お母さんもう行くから。戸締りちゃんとして出かけてね」
ガチャリとドアの開く音に振り返れば、荷物を持ったお母さんがいる。ノックもしないで開けるのはいつものことだ。
「はーい。行ってらー」
「ちゃんと勉強しなさいね。陽葵ちゃんを見習いなさいよ」
そう言い捨てて仕事への出ていったお母さんの眉間にはしわが寄っていた。これもいつものこと。高校生にもなって絵本を読んでいるのが気に入らないのか、勉強していなかったのが気に入らないのか――たぶん、どっちもだ。
「はぁ……」
ため息を吐いて絵本を閉じ、表紙をそっと撫でて本棚にしまう。
疲れる。お母さんの理宗の娘は、きっと陽葵なのだろう。勉強も運動もできる、そして愛嬌があり周りを照らしてくれる、そんな非の打ち所のない完璧な子。
わかっている。私も陽葵みたいになれたらどんなに幸せだろうって、きっと誰よりも思っているのだから。家では明るく振舞っていても、きっと私は陽葵にはなれていない。
「あっ、もう八時半過ぎてる」
お母さんもお父さんも、八時頃には家を出て仕事に向かう。もうとっくにこの家には私しかいなくなっていた。クローゼットを開き、今日着る服と奥にしまっていたポーチを取り出す。
「一週間ぶりだな」
折立の鏡を引き出しから出し、ポーチからコスメを手にする。これまでのお年玉で揃えたプチプラだけのそれらは週に一度しか役目を果たせない。
動画で見たメイクを参考に、自分なりの可愛いを重ねていけば、三十分ほどで普段より少し笑顔になれる私がいる。服を着替えて髪の毛までセットすれば、いつもは平凡な私でも、今だけはほんの少し、特別になれた気がする。
充電していたタブレットをバッグに入れて部屋を出る。家の戸締りを確認してから、シンプルな藍色の傘を手に家を出る。
朝から麦茶しか口にしていないお腹が空腹を伝える音を鳴らすが、そんなことどうでもいいくらい、心は跳ねるように軽かった。
休日の雨でも辺りはそれなりに人が行き交っており、車も多く通っている。ぱらぱらと雨が傘を打つ音が心地いい。湿気で前髪が乱れているような気もするが、気にせず目的地へ向かう。
つい数ヶ月前まで通っていた中学校の横道を進めば、次第に人の気配はなくなっていた。ただ中学校に通うだけでは進むことのなかった道、それでも一年以上前から毎週のように通っている道はどこかゆっくりと時間が流れているように感じる。
九時半を少し過ぎたころ、もうすっかり見慣れたカフェにたどり着いた。
「おはようございます」
カランカランと軽快な音を響かせ、ドアを開きながら挨拶をすれば、いつもの優しい笑顔が私を迎えてくれる。
「おはよう。いつものところ空いてるからね」
そう言いながらカウンター席の端へちらりと視線を向けたのはユキさんだ。ユキさんはこのカフェ【まにまにカフェ】の店長で、ほとんど一人で切り盛りしているらしい。母親から受け継いだらしく、時々妹が手伝いに来てくれるのだと聞いたが、私は一度もあったことがない。
元々穴場な場所にあるカフェということもあり、お客さんは常連客ばかり。オープンしてから三十分しか経っていない今、一人目の客は私だったみたいだ。
「今日は早く来てくれたんだね」
私がいつもの席に着くと、カウンター越しにユキさんは言う。中学生のころは部活や受験などもあり昼過ぎに来ることが多かった。中学を卒業してからの春休み期間もこんなに早く来れたのは片手で数えられる程度だろう。
「早くここに来たいなって、一週間ずっと楽しみにしてたんです」
学校に通っている間もふとした時に早くまにまにカフェに行きたいと思っていた。ようやく長かった感一週間が終わり、今日は久しぶりに朝から行くと決めていた。
「そういえば高校始まったんだよね? どうだった?」
そうだ。今日は高校が始まってから初めて来る日。高校が始まったからこそ、今日はこんなに早くに来たかったのかもしれない。
「正直、まだよくわからないです」
「まあ、そうだよね。まずは慣れるところからだもんね」
ウンウンと頷いたユキさんは「青春楽しんでね」と柔らかい笑みを浮かべた。その言葉を受け流すように笑うと、ぐぅぅ〜と腹の虫が鳴った。その音で忘れていた空腹を思い出す。
「ユキさん、今日おにぎりありますか?」
「もちろんあるよ。具なしと梅と鮭と昆布と……」
指を折りながら出てくる定番の具材。少し考えてから鮭と高菜のおにぎりを注文する。
レトロな雰囲気の残るまにまにカフェのメニューは洋風なものばかりだ。しかし、雨の日限定でメニューにおにぎりが追加される。店内の雰囲気とはどこかアンバランスだが、ユキさんの握ってくれるおにぎりは自分で作るよりもずっと美味しい。
なぜ雨の日だけおにぎりがあるのか聞くと、「雨の日にふらりと帰ってきそうな人がおにぎり好きなんだ」と教えてくれた。きっとユキさんはこのカフェで誰かを待っているのだろう。雨の日に帰ってきてくれそうなその人が好きだというおにぎりを用意して、ずっとここで待っている。
「あっ、そうだ。看板、書き換えてくれる?」
出来たてのおにぎりを食べ終わり、バッグからタブレットを取り出すと、ユキさんは思い出したと手を叩き言う。
「もちろんです。おすすめ何ですか?」
今月のおすすめメニューを書いた紙とカラーペンを受け取り入口に向かう。晴れの日は外に出してあるブラックボードの看板は、今日は入ってすぐに見える位置に置かれている。
月に一度ほどのペースでおすすめメニューが変わるこのカフェでは、この看板にそれを書いている。メニュー名と値段に加えイラストを描き、ポップな看板にすることが私の毎月の習慣になっていた。
初めてまにまにカフェに来た一年前、落ち着いた雰囲気とユキさんの人柄に惹かれて気がつけば毎週のように通っていた。家族にも、陽葵にだって教えていない私だけの場所だ。最初のころは長くても二時間経たずに帰っていたが、あまりにも居心地がよく次第にもっと長居したくなっていた。
しかし、ゆっくりしていいと言われてもそこに限度があるのはわかっていた。タブレットで絵本を描きながらドリンクが無くなれば注文し、二時間ほどで帰るのを一か月ほど繰り返したある日、ユキさんが「追加注文なんて気にしないで、もっとゆっくりしていっていいんだよ」と言ってくれた。店が混むこともなく、話し相手がいるのは嬉しいことだと。まにまにカフェは流れに身を任せてゆっくりと心を休ませられる場所でありたいのだと教えてくれた。
ユキさんのその言葉にきっと嘘はなく、家よりも心の休まるこのカフェにいたい私はその言葉に甘えることとなり、今でも毎週のように長居させてもらっている。とはいえ、追加注文もあまりせずに長居するのは申し訳ない私の気持ちを汲んで、看板を書くことをお願いしてくれた。
私が惹かれた人柄というのはこういうところで、相手の気持ちを汲み取り包み込む優しさを持つユキさんが私は大好きだ。誰にも話していなかった絵本を書いているということもいつしかユキさんにだけは話せていた。
「よし、できました!」
丸く柔らかい文字でメニューを書き、見せてもらった写真をゆるく可愛らしい印象に描きあげる。完成した看板をパシャリとスマホで撮り、【まにまに】と名前のつけているアルバムに保存する。
「わあ、ありがとう! 今月も可愛いね。やっぱり芽依ちゃんがいてくれて良かったよ!」
完成を見たユキさんは看板の位置を少し直しながら褒めてくれる。毎回ユキさんは大袈裟なほどの言葉をくれる。他の人に言われたのならば嘘だと感じてしまう面倒くさい私も、ユキさんの言葉は照れくさくもそのまま受け入れられる。ここにいていいのだと、ユキさんの言葉に安心してしまう。
常連客ばかりのまにまにカフェは、休日でもピークタイムと言うほどお客さんが多く来店する時間は存在しない。それに加えて今日は雨ということもあり、昼を過ぎても穏やかな時間が流れていた。
「ユキさんって、高校生のころ部活とかやってましたか?」
新しく注文したアイスココアを受け取りタブレットの電源を落とす。店内には私たちの他には常連のおばあさんだけで、窓際のテーブル席でコーヒー片手に読書をしている。タブレットで書いていた絵本はページで言うと見開き一ページ分進んだ。休憩も挟みながら三時ほど作業していたが、すっかり集中力は切れてしまった。コンテストに応募するわけでもないこの作品に締切など存在しない。今日はここまでにしようと思い、ユキさんに話しかける。
「部活? 私はしてなかったかな」
カウンター内の椅子に座りながらユキさんは答える。お客さんに呼ばれなければユキさんはこうして椅子に座るか何か作業をしていることが多い。
「そうなんですか……」
「芽依ちゃんは部活迷ってるの? この前は高校では入るつもりないって言ってたよね」
一か月前、春休みに来たときに話したことを覚えていたのだろう。中学では陽葵と一緒に入ったソフトテニス部。元々興味もなく好きにもなれなかった部活を三年間辞めることができなかった。同じことは繰り返さないと心に決め、高校では部活には入らないと、一か月前の私は本気でそう決めていた。
「中学のときみたいに、流されて入るのは嫌で。でも……」
「でも?」
言葉を詰まらせる私をユキさんは暖かい目で待ってくれる。絶対に部活に入らないと宣言していた私がいきなり迷っているなんて変ではないか。いや、きっとそんなこと誰も気にすることのない些細なことだ。ただ、言葉にすれば自分自身の気持ちを誤魔化せなくなってしまいそうで躊躇ってしまう。
自分の気持ちになんて気づかない方が楽だ。陽葵と比べて劣等感を抱いてしまうこと、憎く思ってしまうこと。そんな感情を持つ醜い自分を隠すのに、冷めた性格は都合がいい。だから、いつからか無関心でクールな自分を作り上げることにした。
中学でだってそうだ。そう振る舞えば、みんなは私のことをそういうキャラクターなんだと受け入れてくれた。そうしてそれなりに受け入れてもらえて、それなりの人間関係が築けていた。高校でもそうやって生きていくつもりだった。そこに強い自我は必要ないと思っていた。
「……実は演劇部がちょっと気になってるんです。でも私なんかが入って、やっていける訳ないって思ってて」
「どうして? いいじゃん、入ってから考えてみたって」
「でも」
「芽依ちゃんは変に考えすぎなのよ。今回は誰かに言われたからじゃないんでしょ? ならやってみようよ。やりたいことやらなきゃ、あっという間におばさんになっちゃうよ」
真っ直ぐした目でこちらを見つめ「私みたいにね」と笑う。ユキさんはまだ二十代後半だし、見た目はそれよりももっと若く見える。そんなユキさんは「高校生なんて一瞬なんだから」と言う。
「もう少し、考えてみます」
「そうだね。いくらでも悩んでいいけど、自分の気持ち聞いてあげなよ」
グラスに水滴が流れるアイスココアを一口飲む。口の中に広がる甘さは疲れた脳を和らげてくれる気がした。
アラームが鳴る少し前、朝の六時五十五分に目を覚ます。まだはっきりとしない意識の中、薄く目を開き耳を澄ませば、ぱらぱらと降り注ぐ雨の音が心地よく響いている。再び目を閉じればもう一度眠りにつくことができそうだ。
枕元に置いていたスマホが僅かに震えながらアラーム音を鳴らす。それを手に取りアラームを止めれば画面に表示された時刻は七時ちょうど。勢いよく体を起こし、ベッド横のカーテンを開ければ、薄暗い雨空が広がっていた。
「おはよう」
誰に言った訳でもない、ぽつりと呟けば今日も一日が始まる。顔を洗ってからリビングに向かえば、お母さんがコーヒーを飲みながらテレビを見ていた。
「土曜なのに早起きね。今日は陽葵ちゃんと出かけるの?」
「うーん、そんなとこ」
冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注ぎながら適当に答える。お母さんは私が休日に早起きをする日は、陽葵と出かけるのだと思っている。それくらい、お母さんの中で陽葵は家族みたいに、当たり前の存在になっている。
「今日は雨だから残念だね。気をつけて出かけなさいね」
「うん」
七時十五分、起きてきたお父さんとすれ違うように部屋に戻る。春の雨はひんやりとした空気を纏っていて、家の中もペラペラのパジャマでは寒さを感じる。鼻を啜りながら昨日の夜から置きっぱなしの絵本をぺらりぺらりとめくる。その文字は目を瞑っても一言一句間違わずに読めるほど、何度も何度も読み返してきた絵本だ。
「芽依、お母さんもう行くから。戸締りちゃんとして出かけてね」
ガチャリとドアの開く音に振り返れば、荷物を持ったお母さんがいる。ノックもしないで開けるのはいつものことだ。
「はーい。行ってらー」
「ちゃんと勉強しなさいね。陽葵ちゃんを見習いなさいよ」
そう言い捨てて仕事への出ていったお母さんの眉間にはしわが寄っていた。これもいつものこと。高校生にもなって絵本を読んでいるのが気に入らないのか、勉強していなかったのが気に入らないのか――たぶん、どっちもだ。
「はぁ……」
ため息を吐いて絵本を閉じ、表紙をそっと撫でて本棚にしまう。
疲れる。お母さんの理宗の娘は、きっと陽葵なのだろう。勉強も運動もできる、そして愛嬌があり周りを照らしてくれる、そんな非の打ち所のない完璧な子。
わかっている。私も陽葵みたいになれたらどんなに幸せだろうって、きっと誰よりも思っているのだから。家では明るく振舞っていても、きっと私は陽葵にはなれていない。
「あっ、もう八時半過ぎてる」
お母さんもお父さんも、八時頃には家を出て仕事に向かう。もうとっくにこの家には私しかいなくなっていた。クローゼットを開き、今日着る服と奥にしまっていたポーチを取り出す。
「一週間ぶりだな」
折立の鏡を引き出しから出し、ポーチからコスメを手にする。これまでのお年玉で揃えたプチプラだけのそれらは週に一度しか役目を果たせない。
動画で見たメイクを参考に、自分なりの可愛いを重ねていけば、三十分ほどで普段より少し笑顔になれる私がいる。服を着替えて髪の毛までセットすれば、いつもは平凡な私でも、今だけはほんの少し、特別になれた気がする。
充電していたタブレットをバッグに入れて部屋を出る。家の戸締りを確認してから、シンプルな藍色の傘を手に家を出る。
朝から麦茶しか口にしていないお腹が空腹を伝える音を鳴らすが、そんなことどうでもいいくらい、心は跳ねるように軽かった。
休日の雨でも辺りはそれなりに人が行き交っており、車も多く通っている。ぱらぱらと雨が傘を打つ音が心地いい。湿気で前髪が乱れているような気もするが、気にせず目的地へ向かう。
つい数ヶ月前まで通っていた中学校の横道を進めば、次第に人の気配はなくなっていた。ただ中学校に通うだけでは進むことのなかった道、それでも一年以上前から毎週のように通っている道はどこかゆっくりと時間が流れているように感じる。
九時半を少し過ぎたころ、もうすっかり見慣れたカフェにたどり着いた。
「おはようございます」
カランカランと軽快な音を響かせ、ドアを開きながら挨拶をすれば、いつもの優しい笑顔が私を迎えてくれる。
「おはよう。いつものところ空いてるからね」
そう言いながらカウンター席の端へちらりと視線を向けたのはユキさんだ。ユキさんはこのカフェ【まにまにカフェ】の店長で、ほとんど一人で切り盛りしているらしい。母親から受け継いだらしく、時々妹が手伝いに来てくれるのだと聞いたが、私は一度もあったことがない。
元々穴場な場所にあるカフェということもあり、お客さんは常連客ばかり。オープンしてから三十分しか経っていない今、一人目の客は私だったみたいだ。
「今日は早く来てくれたんだね」
私がいつもの席に着くと、カウンター越しにユキさんは言う。中学生のころは部活や受験などもあり昼過ぎに来ることが多かった。中学を卒業してからの春休み期間もこんなに早く来れたのは片手で数えられる程度だろう。
「早くここに来たいなって、一週間ずっと楽しみにしてたんです」
学校に通っている間もふとした時に早くまにまにカフェに行きたいと思っていた。ようやく長かった感一週間が終わり、今日は久しぶりに朝から行くと決めていた。
「そういえば高校始まったんだよね? どうだった?」
そうだ。今日は高校が始まってから初めて来る日。高校が始まったからこそ、今日はこんなに早くに来たかったのかもしれない。
「正直、まだよくわからないです」
「まあ、そうだよね。まずは慣れるところからだもんね」
ウンウンと頷いたユキさんは「青春楽しんでね」と柔らかい笑みを浮かべた。その言葉を受け流すように笑うと、ぐぅぅ〜と腹の虫が鳴った。その音で忘れていた空腹を思い出す。
「ユキさん、今日おにぎりありますか?」
「もちろんあるよ。具なしと梅と鮭と昆布と……」
指を折りながら出てくる定番の具材。少し考えてから鮭と高菜のおにぎりを注文する。
レトロな雰囲気の残るまにまにカフェのメニューは洋風なものばかりだ。しかし、雨の日限定でメニューにおにぎりが追加される。店内の雰囲気とはどこかアンバランスだが、ユキさんの握ってくれるおにぎりは自分で作るよりもずっと美味しい。
なぜ雨の日だけおにぎりがあるのか聞くと、「雨の日にふらりと帰ってきそうな人がおにぎり好きなんだ」と教えてくれた。きっとユキさんはこのカフェで誰かを待っているのだろう。雨の日に帰ってきてくれそうなその人が好きだというおにぎりを用意して、ずっとここで待っている。
「あっ、そうだ。看板、書き換えてくれる?」
出来たてのおにぎりを食べ終わり、バッグからタブレットを取り出すと、ユキさんは思い出したと手を叩き言う。
「もちろんです。おすすめ何ですか?」
今月のおすすめメニューを書いた紙とカラーペンを受け取り入口に向かう。晴れの日は外に出してあるブラックボードの看板は、今日は入ってすぐに見える位置に置かれている。
月に一度ほどのペースでおすすめメニューが変わるこのカフェでは、この看板にそれを書いている。メニュー名と値段に加えイラストを描き、ポップな看板にすることが私の毎月の習慣になっていた。
初めてまにまにカフェに来た一年前、落ち着いた雰囲気とユキさんの人柄に惹かれて気がつけば毎週のように通っていた。家族にも、陽葵にだって教えていない私だけの場所だ。最初のころは長くても二時間経たずに帰っていたが、あまりにも居心地がよく次第にもっと長居したくなっていた。
しかし、ゆっくりしていいと言われてもそこに限度があるのはわかっていた。タブレットで絵本を描きながらドリンクが無くなれば注文し、二時間ほどで帰るのを一か月ほど繰り返したある日、ユキさんが「追加注文なんて気にしないで、もっとゆっくりしていっていいんだよ」と言ってくれた。店が混むこともなく、話し相手がいるのは嬉しいことだと。まにまにカフェは流れに身を任せてゆっくりと心を休ませられる場所でありたいのだと教えてくれた。
ユキさんのその言葉にきっと嘘はなく、家よりも心の休まるこのカフェにいたい私はその言葉に甘えることとなり、今でも毎週のように長居させてもらっている。とはいえ、追加注文もあまりせずに長居するのは申し訳ない私の気持ちを汲んで、看板を書くことをお願いしてくれた。
私が惹かれた人柄というのはこういうところで、相手の気持ちを汲み取り包み込む優しさを持つユキさんが私は大好きだ。誰にも話していなかった絵本を書いているということもいつしかユキさんにだけは話せていた。
「よし、できました!」
丸く柔らかい文字でメニューを書き、見せてもらった写真をゆるく可愛らしい印象に描きあげる。完成した看板をパシャリとスマホで撮り、【まにまに】と名前のつけているアルバムに保存する。
「わあ、ありがとう! 今月も可愛いね。やっぱり芽依ちゃんがいてくれて良かったよ!」
完成を見たユキさんは看板の位置を少し直しながら褒めてくれる。毎回ユキさんは大袈裟なほどの言葉をくれる。他の人に言われたのならば嘘だと感じてしまう面倒くさい私も、ユキさんの言葉は照れくさくもそのまま受け入れられる。ここにいていいのだと、ユキさんの言葉に安心してしまう。
常連客ばかりのまにまにカフェは、休日でもピークタイムと言うほどお客さんが多く来店する時間は存在しない。それに加えて今日は雨ということもあり、昼を過ぎても穏やかな時間が流れていた。
「ユキさんって、高校生のころ部活とかやってましたか?」
新しく注文したアイスココアを受け取りタブレットの電源を落とす。店内には私たちの他には常連のおばあさんだけで、窓際のテーブル席でコーヒー片手に読書をしている。タブレットで書いていた絵本はページで言うと見開き一ページ分進んだ。休憩も挟みながら三時ほど作業していたが、すっかり集中力は切れてしまった。コンテストに応募するわけでもないこの作品に締切など存在しない。今日はここまでにしようと思い、ユキさんに話しかける。
「部活? 私はしてなかったかな」
カウンター内の椅子に座りながらユキさんは答える。お客さんに呼ばれなければユキさんはこうして椅子に座るか何か作業をしていることが多い。
「そうなんですか……」
「芽依ちゃんは部活迷ってるの? この前は高校では入るつもりないって言ってたよね」
一か月前、春休みに来たときに話したことを覚えていたのだろう。中学では陽葵と一緒に入ったソフトテニス部。元々興味もなく好きにもなれなかった部活を三年間辞めることができなかった。同じことは繰り返さないと心に決め、高校では部活には入らないと、一か月前の私は本気でそう決めていた。
「中学のときみたいに、流されて入るのは嫌で。でも……」
「でも?」
言葉を詰まらせる私をユキさんは暖かい目で待ってくれる。絶対に部活に入らないと宣言していた私がいきなり迷っているなんて変ではないか。いや、きっとそんなこと誰も気にすることのない些細なことだ。ただ、言葉にすれば自分自身の気持ちを誤魔化せなくなってしまいそうで躊躇ってしまう。
自分の気持ちになんて気づかない方が楽だ。陽葵と比べて劣等感を抱いてしまうこと、憎く思ってしまうこと。そんな感情を持つ醜い自分を隠すのに、冷めた性格は都合がいい。だから、いつからか無関心でクールな自分を作り上げることにした。
中学でだってそうだ。そう振る舞えば、みんなは私のことをそういうキャラクターなんだと受け入れてくれた。そうしてそれなりに受け入れてもらえて、それなりの人間関係が築けていた。高校でもそうやって生きていくつもりだった。そこに強い自我は必要ないと思っていた。
「……実は演劇部がちょっと気になってるんです。でも私なんかが入って、やっていける訳ないって思ってて」
「どうして? いいじゃん、入ってから考えてみたって」
「でも」
「芽依ちゃんは変に考えすぎなのよ。今回は誰かに言われたからじゃないんでしょ? ならやってみようよ。やりたいことやらなきゃ、あっという間におばさんになっちゃうよ」
真っ直ぐした目でこちらを見つめ「私みたいにね」と笑う。ユキさんはまだ二十代後半だし、見た目はそれよりももっと若く見える。そんなユキさんは「高校生なんて一瞬なんだから」と言う。
「もう少し、考えてみます」
「そうだね。いくらでも悩んでいいけど、自分の気持ち聞いてあげなよ」
グラスに水滴が流れるアイスココアを一口飲む。口の中に広がる甘さは疲れた脳を和らげてくれる気がした。


