滲んだ空の下、台本の空白に君を書いた。

***

「――起立、礼」
「ありがとうございました」

 終礼が終わると一気に全身の力が抜けたように席に座り込む。担任の声が教室のざわめきに飲まれていく中、私はぼんやりと廊下の先の曇り空を見ていた。
 昨日、入学式を迎えたばかりの私たちの学校生活は、今日から本格的に始まった。入学式は半日程度だったというのに、今日からは一日を学校で過ごすことになる。そんな当たり前の学校生活は、中学を卒業してから久しぶりなもので、再び慣れるまでは時間がかかってしまいそうだ。とはいえ、まだ入学したばかりの時間割に難しい授業などなく、学級委員決めや部活動紹介などのオリエンテーションで一日が終わった。

「芽依はどこの部活に見学行くか決めた?」

 緊張した体を和らげるよう小さく伸びをしていると、陽葵に後ろから声をかけられる。名簿順で決められた座席は、私が廊下側の一番前。そのすぐ後ろが陽葵だった。陽葵の周りには数名のクラスメイトが集まっており、出会ったばかりだというのに親しげに話していた様子だった。今日一日、たった数時間しか過ごしていないというのに、当たり前ように陽葵の周りには“友達”がいる。
 陽葵からの問いかけに数時間前の部活動紹介を思い出すが、どれも深く印象に残っていない。昼ご飯を済まし眠気がさす時間帯だったことに加え、各部活動三分程度話すだけだったためどうにも興味が湧かなかった。

「特別気になるのはなかったかな」
「じゃあ、芽依も一緒にテニス部見に行こうよ」

 みんなで行こうと話していたところなのだと周りのクラスメイトに視線を向けて言う。部活動に所属するのは強制ではないため見学も任意だ。私は高校は帰宅部にしようと考えていたが、陽葵は部活に入るつもりらしい。「どこにも入部しない人も多いが見学だけは行った方がいい」と語っていた担任の言葉が頭に過ぎり、行こうかなとうなづく。

「陽葵ちゃんと浅川さんって仲いいんだ」

 周りのクラスメイトは静かに二人の会話を聞いていたが、私が返事をするとその中の一人の男子生徒が口を開いた。彼はサッカー部に入部を決めているが、テニス部も見学だけ行きたいのだと話していた。そんな会話を先ほど背中で聞いて、きっとこの人も陽葵と仲良くなりたいのだろうなと他人事に思った。

「芽依とは幼なじみだからね。親友だもん」

 「ねー!」と笑いかける陽葵に「そうだね」と笑い返す。物心ついた頃にはもう一緒にいて、気づけば“親友”という肩書きがついていた。陽葵はいつでも当然のように親友だと言ってくれる。

「全然タイプ違いそうなのに、意外だね」

 思ったままのことを口にしただけなのだろう。そうだよね――そう、何度目かもわからない言葉を心の中でつぶやく。ここ数年で何度も「意外だね」と言われてきた。
 勉強も運動も得意で可愛い、まさに才色兼備。明るくて裏表のない陽葵はいつだってクラスの中心にいる人だ。一方私は、勉強も運動も普通。特別秀でている何かがあるわけではない私は、クラスでも特に目立たない存在。私が陽葵の隣にいるのは不釣り合いだと思うようになったのはいつからだろう。幼いころは私が人見知りだった陽葵の手を引いていたのに、いつの間にかその役割は逆になっていた。
 まだ、勉強も運動もお互いにどれほどの能力があるのかわからない状態の今、それでも意外だと言われるほど、私たちは不釣り合いなのだろう。容姿や雰囲気、そんなことから一瞬で私たちは無意識に格付けし合う。

「そろそろ行こっか」

 陽葵が席を立つと周りも動き始める。ここも陽葵中心に動いているのだと心の中で笑ってしまう。私も周りの人と変わらない。陽葵に倣ってを席を立ち、リュックを背負って静かに後ろをついていく。

 陽葵と私、そして名前すらうろ覚えのクラスメイト四人――六人での移動は、全員と会話をするには多すぎた。陽葵を真ん中に歩く、サッカー部に入ると言っていた男子と女子。さらにその後ろに、もう一組の男女と私。
 会話の中心にいる陽葵をよそに、私は一人、歩く速度を少しずつ緩める。誰も私の様子など気にしていない。みんなの視線は陽葵に注がれ、言葉を発していない私には、誰も気づかない。
 一学年六クラスあるこの高校では、階段を挟んで三クラスと特別教室が並んでいる。生徒の普通教室は二階以上にあり、一年三組の私たちは、二階の一番端に配置されている。
 階段に着くころには、私は完全に“空気”になっていた。みんなが一階へ下りていく中、一人、二階に上がる。踊り場で足を止めスーッと深呼吸をすると、久しぶりに少しだけ心が軽くなる感覚がした。
 しばらく時間を置いて、陽葵に『用事ができた』とメッセージを送る。二分ほどして届いた返信には、いつもと変わらない調子の言葉が並んでいた。きっと陽葵は、私が嘘をついていることに気づいている。それでも敢えて指摘せず、私を気遣っているのだろう。私を責めることなどない。私に対しても、そんなところまで陽葵は優しくて完璧だ。そんな陽葵に黒い感情が湧いてしまう自分を、また少し嫌いになる。
 そろそろ帰ろうと顔を上げ、階段を下ろうとしたそのとき、右肩に後ろからぶつかるような衝撃が走った。

「ごめんっ!」

 衝撃の直後、声と共にパラパラと紙が舞い落ちる。さっきまで誰もいなかったはずの踊り場に響いたその声に、反射的に振り返る。そこには、ちょうど頭一つ分背の高い男子生徒が、眉を八の字にして立っていた。

「すみません。周り見てなくて……」
「俺こそごめんね。怪我無い?」
「はい、大丈夫です」
「そっか、よかった」

 申し訳なさそうに言いながらしゃがんだ彼に、私も慌ててしゃがみ込む。彼は上の階から下りてきたが、私が突然動き出したせいで、ぶつかってしまったのだろう。そして、上から来たということは、彼は先輩に違いない。私のせいで落としてしまった紙を私も拾わなければと手を伸ばす。
 二十枚ほどの紙は、思い思いの方向に散らばっていた。一枚一枚拾い、角を揃える。細かな文字がズラッと並んだその紙に、汚れや折れがないことに安心する。すべてを拾い終えて彼に差し出すと、彼は柔らかく笑って「ありがとう」と言った。

「じゃあ、これで……」

 彼の人懐っこい笑顔が、どこか陽葵と重なって見えた。胸の奥がざわついて、なぜか居た堪れない気持ちになる。私は早口で別れの言葉を口にし、そっと階段へと向かう。もう陽葵たちと別れてから、かなりの時間が経った。今から学校を出れば、誰とも顔を合わせることはないだろう。ここにいる理由も、もうなかった。そう思い階段に足をかけたとき、背中に声が飛んできた。

「ねえ、うちに見学に来ない?」
「……え?」

 想定していなかった言葉に、踏み出したばかりの足が止まる。口から出たのは間抜けな声だった。そんな私の様子など気にせず彼は話し続ける。

「君、一年生だよね?」
「はい……」
「他に予定ないなら、うちの部、見に来てよ」
「えっと」

 名前も学年もわからない、ただ先輩であろうことしかわからない彼はまっすぐにこちらを見つめている。これは明らかに部活動の勧誘なのだろう。何部なのかをはっきりと言葉にはされていないが、ほんの数分話しただけで伝わる彼の雰囲気に、私には縁のない部活だろうなと決めつける。
 偏見だ。初対面の私に馴れ馴れしく話しかけ、きっと彼は断られることなど恐れていない。たくさんいる生徒の中の一人である私にどう思われようと気にならないのだろう。すらっと背は高く、おそらく整っているとされる容姿を持つ彼は私とは真逆の人間で、陽葵のような人間。そんな彼のいる部活なんて私には無縁のはずなのだ。

「部活、入る気ないので」

 嘘ではない。中学では陽葵に合わせてソフトテニス部に入っていた。運動が得意ではない、好きなわけでもないのに陽葵に誘われるがまま三年間所属していた。「気になるけど心細くて……」と不安げに言う陽葵に、私は頼られた気がして少し浮かれていた。幼少期の、人見知りで私の後ろに隠れていた陽葵の面影に、自分もあのころに戻れた気がしたのかもしれない。入部後、あっという間に部活に馴染んだ陽葵の隣で後悔した日が、つい最近のことのように感じる。変なプライドがすぐに退部することも拒んで、三年になり引退を迎えたとき、それまでの思い出を懐かしみ後輩との別れを悲しむ陽葵を見ながら、清々しい気持ちになってしまった。
 もう二度とあのような三年間を過ごすなんてごめんだ。そんな思いで過ごすくらいならば、私はどこの部活にも所属するべきではない。

「見学だけでいいからさ。今から二十分の歓迎公演なんだ」
「歓迎公演……?」
「そう! あっ、俺演劇部でさ」
「なるほど……」

 ここで初めて彼の所属する部活が判明する。演劇部は中学校にはなかった部活で、その存在をすっかり忘れていた。先ほど拾った紙を思い出す。ああ、なるほど。細かな文字がズラッと並んでいたそれは、パッと見ただけども鍵括弧がいくつも書かれていた。不思議だなと心のどこかで気になっていたが、あれは台本だったのだと考えるとしっくりくる。

「活動場所が校舎から離れてるせいで、あんまり人が来なくて……。時間あるなら、お願い!」
「……見に行くだけなら」

 後輩に対してだと言うのに迷いなく頭を下げる姿に、断るのも申し訳なく感じる。映画やドラマはよく見るが演劇を直接見たことはない。それなのに、正直少し気になっている自分もいた。

「ありがとう! これから部室に向かうから案内するよ」
「はい、お願いします」

 頭を上げた彼はほっとしたような柔らかな笑顔を浮かべていた。その予想外の笑顔にどきりとする。太陽のように眩しい笑顔じゃない、心を緩めるような穏やかな笑顔。そんな表情ができる人なのか。

「いきなり声かけるなんて俺、変な人すぎるし緊張した~。びっくりさせちゃったなら、ごめんね」
「まあ、はい……」

 口から零れた言葉は失礼なもの言いになってしまう。緊張していたのだという驚きが大きくて、彼も同じ人間なのかと思ってしまった。そんな私に彼は「正直だな~」と笑っている。不快にさせてのではないかという不安も、彼のその表情のおかげで一瞬で消え去った。

「じゃあ、行こうか」

 歩き出した彼と一歩分離れて歩き出す。玄関で靴を履き替え、グラウンドを横目に坂道を進んでいく。授業を受けているだけでは通ることのない道。理科棟や芸術棟よりも離れたところが、演劇部の活動場所だった。

「高瀬、やっと来た。一年生待たせちゃってるじゃん」

 彼に連れられてたどり着いたそこには、既に新入生が三人いた。おそらく部員だと思われるのは、なにやら準備している五人程度だろうか。玄関で靴を脱ぎ、用意されたスリッパに履き替えていると、一人の男子生徒の声が飛んでくる。

「あっ、部長! でもほら、一人一年生連れてきましたよ」

 彼の言葉に、部長と呼ばれた男子生徒の視線がこちらへ向く。軽く会釈をした私を一瞥し、彼――高瀬先輩に視線を戻す。

「じゃあ、お前は早く準備してこい」
「はーい」
「よし、一年生はこっちね。椅子並べてるから座って」
「あっ、はい!」

 『演劇部へようこそ』と書かれた紙をドアに貼り付けた部屋へ入っていった彼を確認し、部長は再びこちらに視線を向けた。そして彼の入った部屋とは反対側の、大きい部屋に通される。稽古部屋と呼ばれるらしいそこは、窓際にパイプ椅子が並べられそこに新入生が座っている。中央にはいくつかの大きなパネルが壁のように立っていて、教室にある机と椅子のセットや机に白い布を被せたであろうものが置かれている。

「もうすぐ始まるから、待たせてごめんね」

 忙しそうにしていた男子部員の一人が座って待つ私たちに言う。そして、私たちから少し離れて並べられた机にノートパソコンを置き、小さなスピーカーに接続を始めたようだ。その隣にもう一人女子部員が座り、手元の紙を見て話をしている。

「よし、準備オーケー」

 いつの間にか稽古部屋に来ていた部長がパネルの裏から言う。他の部員も別れてパネルの裏にいるようだ。

「――を上演いたします」

 パソコンを繋げていた部員の横に座る彼女の言葉、それをきっかけに音楽が鳴り響く。その音楽がフェードアウトし始めるとパネルの裏から一人、中世ヨーロッパの貴族のような姿をした高瀬先輩が勢い良く登場した。その後登場するのは通常の制服を着た男女三人。
 おかしな転校生を中心に繰り広げられる演劇部の日常をコメディチックに描いた二十分の演劇。私は二十分間ずっと、高瀬先輩から目が離せなかった。この空間に不釣り合いで異質な格好をしているからではない。きっと彼に、彼の演じる姿に見惚れてしまっていた。四人が掛け合いをするその舞台で、彼だけにスポットライトが当たっているように感じた。先ほど受けた彼の印象からかけ離れた、新しい彼を演じているようだった。自分じゃない誰かになって、誰かの目を惹く。その姿がまぶしくて、羨ましくて――まるで魔法にかけられたようだった。
 ずっと思っていた、陽葵のようになりたいと。私もなりたい。私じゃない、誰かに――

「少しでも気になったら、いつでも見に来てね」

 終演後の部員と新入生の交流タイム、それも終われば家に帰るだけ。名残惜しいような気持ちを胸に残して玄関で靴を履いていると、背後から声をかけられる。振り返ると元の制服に着替えた高瀬先輩がいる。

「はい。面白かったです」
「よかった。誘っといて退屈させたらどうしようかと思ってたよ」

 まただ。安心したのを全面に出した、柔らかい表情。出会って一時間ほどしか経っていないのに、一日で何度も新しい印象を受けている。地面をつま先でコンコンと叩き、「それでは……」と歩き出す。

「あっ、ねえ君!名前教えてよ」

 玄関を出る直前、慌てたような声に振り返る。

「浅野です、浅川芽依です」
「芽依ね。俺は高瀬千隼。よろしくね」
「よろしくお願いします、高瀬先輩」

 帰り道、電車を降りていつも通り代り映えのない道を歩く。曇っていた空は次第に雨空へと変わっていく。家が見えてきたころ、すっかり雨は強くなっていた。傘を持たない私は駆け足で残りの道を進む。降り注ぐ雨が桜の花びらを散らして一枚、私の肩に張り付く。すっかりびしょ濡れ
だというのに、心は今日一番に晴れていた。