***
定期公演当日。部室に吊るしたてるてる坊主の効果もむなしく。しとしとと雨が降り注いでいる。
今日の公演は十三時開場、十四時開演。午前中は大忙しで、ゲネプロと最終調整が終わったのは十二時だ。慌てて軽く食事をとった。
十三時になれば会場がざわつき始め、お客さんが入ってきたことが伝わってくる。学校の人、地域の人、そしてお母さんと陽葵も観に来ると言っていた。
あれから、陽葵とはまた普通に過ごしている。お互い謝って、一緒に登校し、学校で過ごして、下校する。でも、どこかぎこちない、居心地の悪さに気づきながら、私は何もできないまま今日を迎えてしまった。
「緊張してる?」
前髪を整えていると、鏡越しに部長と目が合う。
「緊張します。思っていたよりも、たくさんの人がいて……」
「そうだね。観客は意識しないで、いつも通りやれば大丈夫だよ」
喝を入れるように背中を強く叩かれる。その衝撃でうるさかった鼓動が落ち着いてきたように感じる。
開演十分前、客席に流れる音楽が小さくなり一ベルが鳴る。緞帳の向こう側、感じられる人の気配に緊張感が増す。
五分前、にベルが鳴り「ご着席ください」とアナウンスが入る。ここからは見えない音響卓や照明卓も、きっと緊張感が高まっているのだろう。
ドクドクとうるさい胸に手を当てる。吐く息までもが震えている気がして、ますます落ち着かない。トントンと肩をつつかれ顔を向けると、高瀬先輩が口パクで「大丈夫」と伝えてくれる。そして、人差し指を自分の頬に持っていき全力の笑顔を作る。それにつられて、私も、他のキャストたちも気の抜けた笑みを零す。
いよいよ十四時になり本ベルが鳴り響く。客席の照明は完全に落ち、辺りは静まり返っている。
「只今より『校舎裏の水溜まり』を上演いたします」
アナウンスが終わると音楽がフェードインしながら緞帳が上がる。目の前に広がったのは、真っ暗なはずなのに確かに人が見える客席。
「なんかここ、秘密基地みたいだよな」
「秘密基地って何よ。こんな校舎裏、秘密でも基地でもないじゃない」
先輩たちのセリフで始まる物語。いつもと違う光景に意識が遠くなる感覚だったが、二人の普段と変わらない声が現実に引き戻してくれる。
「水溜まり、なくなりませんね」
「うん、今日も変わらない」
大きな動きがある演目ではない。だからこそ一言一言が重大な意味を持っている。
じっとしていられなくなった彼方が勢いよく立ち上がる。そして水溜まりのすぐ側まで行く。
「これ、飛び越えられると思う?」
いたずらっぽく笑いながら四人に聞く。中々乾かないほど大きな水溜まりだ。みんなが無理だろうと笑う中、ただ一人彼方本人だけは飛び越えられると信じている。
「いくぞ。せーのっ!」
自分でかけ声をし、大きく手を振って勢いよく飛ぶ。飛び越えられた――と思った瞬間、彼方はバランスを崩して水溜まりに浸かってしまう。
「やっぱりだめじゃないですか」
太智は笑いながら彼方のそばに駆け寄る。太智が差し伸べた手を掴んだ彼方は、思い切り自分の方へ引き寄せる。二人して汚れてしまったというのに、楽しそうに笑っている。それから優斗が手を差し伸べて汚れ、さらに千夏が手を差し伸べて汚れる。みんなが小学生のようにはしゃぐ中、由梨だけがきれいなままだった。
みんなが何かを抱えている。そんなことわかっているが、言葉にしないのがこの校舎裏の集まりだった。
物語中盤、一人一人とその抱える悩みや心の傷を明かしていく。
そして、最初に来なくなったのは彼方だった。次に千夏、その次に太智と、あっという間に三人は来なくなった。
元々、約束をしてた訳でも無い。偶然の出会いから、なぜか決まった時間に集まるようになっていただけ。来なくなった人たちは自分の悩みや心の傷と向き合い、前に進んで行っただけなのだ。
優斗と由梨の二人だけになってしまった校舎裏。
「この水溜りはきれいなのに、みんなが浸かって濁ったあの日の水溜まりのほうがきれいに感じちゃいます」
「そうだね」
由梨の呟きに優斗が答える。
「みんな、自分勝手ですね。何も言わずに来なくなるんですから」
「俺は、いなくならないよ。ここが俺の居場所だから」
優斗は穏やかに答える。いつもよりも達観したように言うその姿が、由梨には鼻についた。
「なんなんですか! なんで取り残されているのに……そんな顔しないでください!」
由梨は何に怒っているのかも曖昧で、めちゃくちゃなことを言っている。それでも一度感情的になってしまえば落ち着くことができなかった。
「いいんだよ。みんな、ここが好きだったはずだから」
「そんな、勝手に美談にしないでください! 置いていかれる方の気持ちなんて、どうでもいいんですか?」
泣いているわけではないのに、由梨は声を震わせている。
「みんな、勝手に集まって、勝手に帰って行っただけなんだよ」
優斗の言葉に、由梨は何も言わずに立ち去った。放課後の校舎裏、次に来なくなったのは由梨だった。
誰も来なくなっても、優斗は一人校舎裏に通い続けた。
三年生最後の放課後、いつもの時間。変わらず校舎裏には優斗ただ一人。
未だに残り続ける水溜まりは、もう二十センチほどしかない。
「もう、俺も帰ろうか」
優斗が校舎裏を後にしようとすると、四人が集まってくる。約束したわけではない、また自然と集まっていた。
「もう、今日で最後だね」
「うん、もう来ることはないよ」
優斗と千夏が言う。
「俺、ここが逃げ場だったけど、居場所になって良かった」
「俺も、ここに来れて良かったです」
彼方と太智は曇りのない笑顔を見せる。
「水溜まり、小さくなりましたね」
由梨の視線を落とすと、みんなも同じところを見つめる。
「私、みんなに置いていかれるのが嫌で、あの日動けないでいたんです」
由梨のセリフが自分自身と共鳴する。由梨は置いていかれたくなくて、何もできないままでいる私自身なのではないかという感覚になる。
「これ、飛び越えられると思う?」
あの日のように彼方が言った。
「今なら、乗り越えられる気がする」
五人で横に並ぶ。試さなくてもわかるだなんて野暮なことを言う人はいない。
「いくぞ。せーのっ!」
掛け声に合わせて全力で飛ぶ。大きな音を立てて着地した五人は全く汚れていない。
次第に後ろで流れていた音楽が大きくなる。校舎裏から彼方、千夏、太智、由梨の順で去っていく。一人残った優斗もしばらくして立ち去る。
音楽に重なるように雨の音が流れ出す。緞帳が降り始めるのにあわせて、照明がふわりと落ちるの。そして少し余韻を残して雨の音もフェードアウトする。
完全に降りた緞帳を舞台袖から見つめる。ただ拍手だけが響いていて、それだけで終わったのだと実感する。
「行くよ」
部長に付いて行き、降ろされた緞帳前に一列に並ぶ。全員が並び終えると、息を合わせたかのように拍手の音が小さくなり、やがて止む。
「本日はご来場いただき、ありがとうございました!」
部長がマイクを使い簡単に挨拶をしたあと、マイクの電源を落とし声を届ける。それに続いてみんなで「ありがとうございました」と言い、深く頭を下げると再び拍手が響き出す。
舞台裏に戻ると終演のアナウンスが流れ始めた。音だけで人が動いているのが認識できる。
いつの間にか緊張なんて感じなくなり、気がつけば終わっていた。ただ、今はほっとしたの一言だ。
お客さんを見送ったあと会場の片付けを始めれば、解散時間は十八時になっていた。
降り止む気配のない雨空を見上げ、少しでも落ち着くのを待つ。親が迎えに来た他の部員たちは既に帰っており、残っているのは私と高瀬先輩だけだ。「送ろうか?」と気にかける声を断ったものの、これほどまでに弱まらないのならばその言葉に甘えるべきだっただろうか。
雨音がうるさい空間で、スマホの通知が鳴る音が何度か聞こえてくる。高瀬先輩の方を見れば、彼はその通知を確認するだけでまたポケットに戻してしまう。
「芽依は、雨好き?」
ゆっくりと過ぎていく時間の中、高瀬先輩に問われる。
「……雨は嫌いじゃないです。前に進めない理由にちょうどいいですから。太陽は眩しすぎて、影ばかりが目立ってしまうんです」
「そっか。俺は……嫌いかな。ほら、今だって、止むことを期待しちゃうでしょ?」
言葉とは裏腹に、その顔は笑っていた。
「それに、雨は自分をもっと隠してしまう気がするんだ」
隣に立つ高瀬先輩は、どこか遠くを見つめている。雨音に溶けるように呟かれた彼の言葉。はっきりと聞こえたのに、聞こえなかったふりをしなければならない気がした。
結局雨が弱まることはなく、傘を差しても濡れる雨の中駅まで歩いた。時刻はもうすぐ十九時になる。改札を抜ける前、また少しだけ話をしていると、反対側から駆け寄ってきた足音に目を向ける。
「しゅん! こんな時間まで何してるの!」
雫の滴る傘を持ちながら乱れた様子の高瀬先輩のお母さんは、彼に縋るように強く腕を握っている。その異様な姿に、何事かとこちら盗み見る人もいるくらいだ。
「お母さん、落ち着いて」
高瀬先輩はそんな姿に動揺することもなく、慣れた様子でお母さんの背中をさすっている。それでもお母さんは落ち着く様子がない
「あなたはもっと受験勉強に集中しなさい! 亡くなった千隼だって、しゅんがこんな風にしてたら心配するでしょう」
その言葉に高瀬先輩が固まる。私もこの状況に理解が追いつかず、時間が止まったような感覚だった。
お母さんを支えて去っていく高瀬先輩の背中を見送ってから改札を抜ける。いつもは振り返れば手を振る姿が、今日はない。先ほどよりも激しくなった雨音が、胸の奥のざわめきを洗い流すように鳴っていた。
定期公演当日。部室に吊るしたてるてる坊主の効果もむなしく。しとしとと雨が降り注いでいる。
今日の公演は十三時開場、十四時開演。午前中は大忙しで、ゲネプロと最終調整が終わったのは十二時だ。慌てて軽く食事をとった。
十三時になれば会場がざわつき始め、お客さんが入ってきたことが伝わってくる。学校の人、地域の人、そしてお母さんと陽葵も観に来ると言っていた。
あれから、陽葵とはまた普通に過ごしている。お互い謝って、一緒に登校し、学校で過ごして、下校する。でも、どこかぎこちない、居心地の悪さに気づきながら、私は何もできないまま今日を迎えてしまった。
「緊張してる?」
前髪を整えていると、鏡越しに部長と目が合う。
「緊張します。思っていたよりも、たくさんの人がいて……」
「そうだね。観客は意識しないで、いつも通りやれば大丈夫だよ」
喝を入れるように背中を強く叩かれる。その衝撃でうるさかった鼓動が落ち着いてきたように感じる。
開演十分前、客席に流れる音楽が小さくなり一ベルが鳴る。緞帳の向こう側、感じられる人の気配に緊張感が増す。
五分前、にベルが鳴り「ご着席ください」とアナウンスが入る。ここからは見えない音響卓や照明卓も、きっと緊張感が高まっているのだろう。
ドクドクとうるさい胸に手を当てる。吐く息までもが震えている気がして、ますます落ち着かない。トントンと肩をつつかれ顔を向けると、高瀬先輩が口パクで「大丈夫」と伝えてくれる。そして、人差し指を自分の頬に持っていき全力の笑顔を作る。それにつられて、私も、他のキャストたちも気の抜けた笑みを零す。
いよいよ十四時になり本ベルが鳴り響く。客席の照明は完全に落ち、辺りは静まり返っている。
「只今より『校舎裏の水溜まり』を上演いたします」
アナウンスが終わると音楽がフェードインしながら緞帳が上がる。目の前に広がったのは、真っ暗なはずなのに確かに人が見える客席。
「なんかここ、秘密基地みたいだよな」
「秘密基地って何よ。こんな校舎裏、秘密でも基地でもないじゃない」
先輩たちのセリフで始まる物語。いつもと違う光景に意識が遠くなる感覚だったが、二人の普段と変わらない声が現実に引き戻してくれる。
「水溜まり、なくなりませんね」
「うん、今日も変わらない」
大きな動きがある演目ではない。だからこそ一言一言が重大な意味を持っている。
じっとしていられなくなった彼方が勢いよく立ち上がる。そして水溜まりのすぐ側まで行く。
「これ、飛び越えられると思う?」
いたずらっぽく笑いながら四人に聞く。中々乾かないほど大きな水溜まりだ。みんなが無理だろうと笑う中、ただ一人彼方本人だけは飛び越えられると信じている。
「いくぞ。せーのっ!」
自分でかけ声をし、大きく手を振って勢いよく飛ぶ。飛び越えられた――と思った瞬間、彼方はバランスを崩して水溜まりに浸かってしまう。
「やっぱりだめじゃないですか」
太智は笑いながら彼方のそばに駆け寄る。太智が差し伸べた手を掴んだ彼方は、思い切り自分の方へ引き寄せる。二人して汚れてしまったというのに、楽しそうに笑っている。それから優斗が手を差し伸べて汚れ、さらに千夏が手を差し伸べて汚れる。みんなが小学生のようにはしゃぐ中、由梨だけがきれいなままだった。
みんなが何かを抱えている。そんなことわかっているが、言葉にしないのがこの校舎裏の集まりだった。
物語中盤、一人一人とその抱える悩みや心の傷を明かしていく。
そして、最初に来なくなったのは彼方だった。次に千夏、その次に太智と、あっという間に三人は来なくなった。
元々、約束をしてた訳でも無い。偶然の出会いから、なぜか決まった時間に集まるようになっていただけ。来なくなった人たちは自分の悩みや心の傷と向き合い、前に進んで行っただけなのだ。
優斗と由梨の二人だけになってしまった校舎裏。
「この水溜りはきれいなのに、みんなが浸かって濁ったあの日の水溜まりのほうがきれいに感じちゃいます」
「そうだね」
由梨の呟きに優斗が答える。
「みんな、自分勝手ですね。何も言わずに来なくなるんですから」
「俺は、いなくならないよ。ここが俺の居場所だから」
優斗は穏やかに答える。いつもよりも達観したように言うその姿が、由梨には鼻についた。
「なんなんですか! なんで取り残されているのに……そんな顔しないでください!」
由梨は何に怒っているのかも曖昧で、めちゃくちゃなことを言っている。それでも一度感情的になってしまえば落ち着くことができなかった。
「いいんだよ。みんな、ここが好きだったはずだから」
「そんな、勝手に美談にしないでください! 置いていかれる方の気持ちなんて、どうでもいいんですか?」
泣いているわけではないのに、由梨は声を震わせている。
「みんな、勝手に集まって、勝手に帰って行っただけなんだよ」
優斗の言葉に、由梨は何も言わずに立ち去った。放課後の校舎裏、次に来なくなったのは由梨だった。
誰も来なくなっても、優斗は一人校舎裏に通い続けた。
三年生最後の放課後、いつもの時間。変わらず校舎裏には優斗ただ一人。
未だに残り続ける水溜まりは、もう二十センチほどしかない。
「もう、俺も帰ろうか」
優斗が校舎裏を後にしようとすると、四人が集まってくる。約束したわけではない、また自然と集まっていた。
「もう、今日で最後だね」
「うん、もう来ることはないよ」
優斗と千夏が言う。
「俺、ここが逃げ場だったけど、居場所になって良かった」
「俺も、ここに来れて良かったです」
彼方と太智は曇りのない笑顔を見せる。
「水溜まり、小さくなりましたね」
由梨の視線を落とすと、みんなも同じところを見つめる。
「私、みんなに置いていかれるのが嫌で、あの日動けないでいたんです」
由梨のセリフが自分自身と共鳴する。由梨は置いていかれたくなくて、何もできないままでいる私自身なのではないかという感覚になる。
「これ、飛び越えられると思う?」
あの日のように彼方が言った。
「今なら、乗り越えられる気がする」
五人で横に並ぶ。試さなくてもわかるだなんて野暮なことを言う人はいない。
「いくぞ。せーのっ!」
掛け声に合わせて全力で飛ぶ。大きな音を立てて着地した五人は全く汚れていない。
次第に後ろで流れていた音楽が大きくなる。校舎裏から彼方、千夏、太智、由梨の順で去っていく。一人残った優斗もしばらくして立ち去る。
音楽に重なるように雨の音が流れ出す。緞帳が降り始めるのにあわせて、照明がふわりと落ちるの。そして少し余韻を残して雨の音もフェードアウトする。
完全に降りた緞帳を舞台袖から見つめる。ただ拍手だけが響いていて、それだけで終わったのだと実感する。
「行くよ」
部長に付いて行き、降ろされた緞帳前に一列に並ぶ。全員が並び終えると、息を合わせたかのように拍手の音が小さくなり、やがて止む。
「本日はご来場いただき、ありがとうございました!」
部長がマイクを使い簡単に挨拶をしたあと、マイクの電源を落とし声を届ける。それに続いてみんなで「ありがとうございました」と言い、深く頭を下げると再び拍手が響き出す。
舞台裏に戻ると終演のアナウンスが流れ始めた。音だけで人が動いているのが認識できる。
いつの間にか緊張なんて感じなくなり、気がつけば終わっていた。ただ、今はほっとしたの一言だ。
お客さんを見送ったあと会場の片付けを始めれば、解散時間は十八時になっていた。
降り止む気配のない雨空を見上げ、少しでも落ち着くのを待つ。親が迎えに来た他の部員たちは既に帰っており、残っているのは私と高瀬先輩だけだ。「送ろうか?」と気にかける声を断ったものの、これほどまでに弱まらないのならばその言葉に甘えるべきだっただろうか。
雨音がうるさい空間で、スマホの通知が鳴る音が何度か聞こえてくる。高瀬先輩の方を見れば、彼はその通知を確認するだけでまたポケットに戻してしまう。
「芽依は、雨好き?」
ゆっくりと過ぎていく時間の中、高瀬先輩に問われる。
「……雨は嫌いじゃないです。前に進めない理由にちょうどいいですから。太陽は眩しすぎて、影ばかりが目立ってしまうんです」
「そっか。俺は……嫌いかな。ほら、今だって、止むことを期待しちゃうでしょ?」
言葉とは裏腹に、その顔は笑っていた。
「それに、雨は自分をもっと隠してしまう気がするんだ」
隣に立つ高瀬先輩は、どこか遠くを見つめている。雨音に溶けるように呟かれた彼の言葉。はっきりと聞こえたのに、聞こえなかったふりをしなければならない気がした。
結局雨が弱まることはなく、傘を差しても濡れる雨の中駅まで歩いた。時刻はもうすぐ十九時になる。改札を抜ける前、また少しだけ話をしていると、反対側から駆け寄ってきた足音に目を向ける。
「しゅん! こんな時間まで何してるの!」
雫の滴る傘を持ちながら乱れた様子の高瀬先輩のお母さんは、彼に縋るように強く腕を握っている。その異様な姿に、何事かとこちら盗み見る人もいるくらいだ。
「お母さん、落ち着いて」
高瀬先輩はそんな姿に動揺することもなく、慣れた様子でお母さんの背中をさすっている。それでもお母さんは落ち着く様子がない
「あなたはもっと受験勉強に集中しなさい! 亡くなった千隼だって、しゅんがこんな風にしてたら心配するでしょう」
その言葉に高瀬先輩が固まる。私もこの状況に理解が追いつかず、時間が止まったような感覚だった。
お母さんを支えて去っていく高瀬先輩の背中を見送ってから改札を抜ける。いつもは振り返れば手を振る姿が、今日はない。先ほどよりも激しくなった雨音が、胸の奥のざわめきを洗い流すように鳴っていた。


