八犬継承奇譚~封印の珠と復活の怨霊~

時は夕刻、朱に染まる空の下。
千龍が住む家の縁側には、ふたつの影がゆらゆらと揺れていた。

遠くで蝉が鳴き、石畳をなでる風が通り過ぎる。
夏の名残を運ぶその風の中で、千龍はふと隣に座る美咲に目をやった。

「美咲殿、君はどうして相模国に?」

それは、飾り気のない問いだった。
けれど千龍の声には、ずっと胸の内にあった疑念と関心が滲んでいた。
その問いに、美咲はわずかに視線を伏せ、やがてまっすぐ千龍を見返す。

「玉梓と言う女の怨霊が復活したと聞いたの」

その名が口にされた瞬間、空気が凍りついたように感じた。
風が一瞬止まり、木々のざわめきすらも遠ざかる。
どこかで鳥が飛び立つ音がした気がした。

「玉梓だと? あれは俺の爺様、犬塚信乃が討ち果たしたはずだ!」

千龍の声が強く震えた。
信乃の名を口にした瞬間、体の奥に眠る血が騒ぎ出す。
だが、美咲は静かに首を横に振る。

「玉梓は退けられただけよ。彼女の怨念は人々の心に巣食う“怨”を養分にして、再び現世に姿を現したの」

「っ……!」

衝撃に目を見開く千龍。
驚愕、怒り、困惑、すべてが胸の内で渦を巻いた。

「だから私は来たの、玉梓を封じるために。けれど、私ひとりの力では無理」

そう言って、美咲は懐から一枚の巻物を取り出す。
布の端は破れて、かすれた文字が風に揺れていた。

「玉梓は八犬士たちを恨んでいる、犬の名を継ぐ者たちを狙ってるの。彼女の怨霊は血を媒介にして力を増すのよ、あなたも危ない」

その言葉に、千龍はぎゅっと拳を握った。

(俺たちの血が……狙われてる……?)

唇を噛み、ほんのわずかにうつむく。

「ふざけるな……俺は、ただの子孫なんかじゃない……。犬塚信乃の血を継ぐ者だ、そう簡単にやられはしない」

その眼には炎のような意志が宿っていた。
美咲は、そんな千龍の瞳をじっと見つめ、ふっと微笑む。

「だからこそ、私はあなたに会いに来たのよ」

美咲の声は、まるで運命を語る預言のように静かで確かだった。

「再び、八犬士の血が集う時が来た。今度こそ、あなたたちの代で玉梓の怨念を完全に断ち切らなければならない」

「分かった、俺は里を守るために戦う。美咲殿、これからよろしく頼む」

カァ……と、空に黒い鴉が一声鳴いた。

それはまるで、これから始まる戦いの幕開けを告げる合図のようだった。

西の空に、夜の帳がじわりと広がりはじめていた。
千龍と美咲、ふたりの決意を夕闇がそっと見守っていた。