「いやさ、確かに何かあったら電話してくれとは言ったけれど普通呼び出すか?」
夏休みも後半に差し掛かった8月の中頃。俺は担任と職員室前で待ち合わせていた。
「だって電話番号教えてもらいましたし」
「まぁそうだけど、まさか本当に連絡してくるとは思わなかったよ」
そう言って先生は苦笑いを浮かべた。
あの老人と別れた後、俺は先生に電話をかけて夏休みの間に学校に来てくれないかとお願いをした。すると、今日会って話をしてくれるとのことだったのでこうして集合したというわけだ。
「で、話ってなんだ?」
「…海のクラスに行きたいです」
そういうと先生は驚いたように目を見開いた。俺は先生のその様子を見て、唇を噛んだ。
「今まで、気を使わせてすみませんでした」
「…そうか。気づいたのか」
頷く俺を見て、先生は優しく頭を撫でてくれた。
それからすぐに本校舎への扉を開錠してくれて、俺達は本校舎へと入った。教室に着くまでの間、俺達は何も喋らなかった。
「…ここだな」
3-Bと書かれたプレートが下がっている扉の前で立ち止まる。ゆっくりと深呼吸をして、扉に手をかけた。
教室に入ると、この教室だけ別世界のように静かだった。
「水谷の席は分かるか?」
「窓側の1番後ろ…席が変わっていなければここのはずです」
恐る恐る近づき、机の上に手を置く。
指先から伝わる冷たさが嫌な現実味を帯びている。
涙が零れ落ち、机に水溜まりを作る。
1番聞きたくなかったことを今、聞かないといけなかった。
「……海は、いつ亡くなったんですか」
「5月の初め頃に病院で息を引き取った」
「…そう、だったんですね」
先生の言葉は思いの他、簡単に受け入れることができた。本当は薄々気づいていた。でもずっと見ない振りをしていただけだ。
__海はもう亡くなっている。
それが今、痛いほど証明された。
「先生、ずっと話を合わせてくださりありがとうございました」
先生に向き直り頭を下げる。そう、先生は海の幻覚を見ている俺が狂わないようにずっと話を合わせてくれていた。
俺が海の死に気づいて受け入れられるまで待っていてくれたんだ。
「気にすんな。生徒の面倒を見るのは教師として当然のことだ」
「……」
「それに、水谷の話を聞けて楽しかったぞ」
先生はそう言って笑ってくれた。
駐輪場でアイスを食べたのも、一緒に帰ったのも全部俺の幻覚だった。
ずっと不眠気味だったのは、寝たら必ず悪夢を見てしまうから。
急に泣いてしまったのは、心のどこかで海がもういないことを理解していたからだ。
「…ちゃんとお別れできたか?」
「はい。2人で海に行ってきたんです」
「あ、遠くに行くなって言ったのに」
「でも海が行き先決めたんですよ」
「まったく」
先生は呆れたようにため息をつく。でもどこか嬉しそうだった。
「所々イメージが崩れるせいか夜に変なことを言っていましたが、海は海でしたよ」
「水谷は元々変わった性格だったから多少変でも誤差の範囲内だろ」
そう言って2人で笑う。
海が聞いたら怒るかもしれないが、海の性格は個性的で俺は大好きだった。
「…実はこの教室に探し物があるんです」
「探し物?」
「はい、多分海なら机の奥にくしゃくしゃ丸めて押し込んでいるはずです」
椅子を引いて机の中を覗き込む。机の中の物は回収されていないのか、まだ教科書などが入っていた。
机の中の教科書を隣の机の上に出しながら奥に手を伸ばすと紙のようなものに触れた。
それを引っ張り出すと、ぐちゃぐちゃになった書類が出てきた。
それを丁寧に広げていくと、予想通りの文字が見えた。
「『進路希望調査書』?」
書類を覗き込んだ先生は不思議そうに首を傾げた。そう、俺が探していたのはこれだった。
「これを探していたのか?」
「…どうせ海は面倒だからという理由で遺書なんて遺しません。だから俺は海の進路希望調査を探しに来たんです」
「なるほどな」
紙は書かれた部分が見られないように半分に折られてから丸められたようだ。「ごめん」と断ってから紙を広げる。
「……そっか」
散々流したはずの涙がまた溢れてくる。
この文字を見ただけで、海がどれだけ真剣に将来を考えていたのかが分かった。
そこには病気で長生きできないことを理解しつつも、歩みたかった進路が書かれていた。
「先生。俺、進路決めました」
「そうか」
先生は海がどんな進路を書いていたのか聞いてこなかった。
しばらく静かな時間が流れた。先生が窓を開けると運動部の声が遠くから聞こえた。
「…なぁ、本来教師はこういうことに首を突っ込んじゃいけないんだが1つ聞いてもいいか?」
「何ですか、そんなに予防線張って。いいですけど」
先生は俺の方を見ずに外を眺めていた。そして、何を考えているのか分からない表情で口を開いた。
「お前、水谷のこと恋愛感情で好きだったのか?」
その言葉を聞いて、俺は目を見開いた。先生はどこまで海のことを知っているのだろうか。
「先生には俺らはどんな関係性に見えますか?」
過去形ではなく、あえて現在形で聞いた。先生は俺の質問返しに少し黙った後、困った様子で答えた。
「正直に言えば、ただの親友ではないと思っていたよ。でも、恋愛感情かと言われると断言できない」
そう言って、先生は再び窓の外へと視線を移した。
「……そうですね。まぁ、自分でも海に甘いと思いますよ。海が病気の影響で運動するのが厳しいから俺も運動部に入らず帰宅部になっちゃうぐらいですし」
「頑なに部活に入らなかったのはそういう理由だったのか」
「運動するよりも海と話す時間の方が楽しかったので」
「……」
「この感情は恋でも愛でもありません。俺は、自由に生きる海のための翼なんだと思います」
思ったままのことをそのまま素直に話せば納得したように頷かれた。
それが俺なりの答えだった。
「以上をもって、第73回卒業証書授与式を終わります」
校長の長い話が終わり、卒業生は一斉に立ち上がった。体育館中に拍手が響き渡る。
あの夏休みから7カ月が経った。
結局、海がいなくなったことで俺の日常は大きく変わった。真人にも気を使わせてしまったことへの謝罪とお礼を伝え、夏休み明けからは真人と一緒にいることが増えた。夏休み明けからは進路に向けて努力し、何とか志望大学に合格できた。
泣くこともなく終わった卒業式。あとは最後のホームルームを残すのみだ。クラスに戻ると、卒業アルバムが渡された。
「一旦席に着け~」
卒業席のために珍しくスーツを着た先生が入ってきた。クラスのみんなは雑談を止めて自分の席に着く。
「式で疲れただろうし、ここで長々と話す気はないから簡単に話させてもらうな」
この後の先生の話は本当に短かった。担任として過ごしてきた日々のことやこれからについて鼓舞する内容だった。
話が終わり、先生へのサプライズも終わったところでこのクラスは本当に解散になった。
「戸田」
教室を出る直前、先生に呼び止められる。振り返ると、先生はいつも通りの優しい笑みを浮かべていた。
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます。本当に色んな面でお世話になりました」
「まさか教育学部に進学するとはな」
海の進路希望調査には第1希望に『教育学部への進学』と書かれていた。
5月の進路希望調査は大まかな進路を考えて提出するものだったため、具体的な大学名は書かれていなかったものの、海の歩みたかった未来を見てみたくなった。
「海が教師になりたかったなんて知りませんでした」
「でも無理して意思を引き継ぐ必要はないからな」
「分かってます。でもちょうど進路に迷っていたので、折角なら大学で海が見たかった景色を見てこようと思います」
そう言うと先生は安心したような表情を見せた。
「電話番号は渡してあるし、また何かあったら電話かけてくれていいからな」
「高校に呼び出してもいいんですか?」
「何で高校限定なんだよ。あと来るならちゃんと入校許可取ってこい」
「注意点そこなんですか?」
「そこだろ」
こんな軽口を叩けるのもこれで最後かと思うと寂しい。
「本当にありがとうございました」
「後悔しない道を選べよ」
「はい」
改めて先生にお礼を伝えて教室を出た。
海のいた3-Bに入ったのは、あの夏休みの1回だけだった。

