海と2人で遊びに行ったことは何度もある。
でも今回は今までとは違い、泊りで海に行くことになった。
「…暑いな」
「そりゃ夏だもん」
電車を乗り継いで着いたのは、泳ぐような観光向けの海ではなくどちらかというと靴を脱いで軽く遊ぶことがメインの海だった。
海がここがいいと希望を出してくれたため行き先を決めるのが楽だった。それにしてもこの海は想像以上に人がいない。
「海なんて久しぶりに来た」
「なかなか来ることないもんな」
「じゃあ早く入ろうよ!」
「おい待て!先に旅館に行って荷物置いてからな」
海に飛び込もうとしていた海の肩を掴み、何とか引き留める。海は不満そうな顔で振り返った。
「いいじゃん、ちょっとぐらい」
「濡れたままチェックインするの嫌なんだけど」
「えー……じゃあそうしようか」
海は渋々といった様子で了承してくれた。
そのまま旅館まで歩き、チェックインを済ます。高校生は同意書が必要らしいが、代表者の俺の書類だけで良かったようだ。
「では、ごゆっくりお寛ぎください」
仲居さんに部屋まで案内してもらえば、畳の良い香りが鼻腔をくすぐる。
海も気に入ったのか、ニコニコしながら部屋の中を見て回っている。
「じゃあ荷物解いたら海行くか」
「うん!」
海は嬉しそうに鼻歌を歌いながら荷物を軽くしていた。俺もある程度荷物を解いて、貴重品だけ持って海に向かった。
海に着く頃には日差しが強くなっており、日焼け止めを塗っていない肌がジリジリと焼かれているのを感じた。
サンダルを脱いで、海に足を浸けた海は目を輝かせている。海水は思っていたより冷たく、熱を冷ましてくれた。
「海好きなんだよね~」
「海って名前だからだっけ」
「うん、なんか親近感があって。ほら、僕のこと受け止めてくれそうな感じしない?」
海はそう言いながら両手を広げて俺の方を見る。海の後ろに広がる青空さえも海に手を伸ばしているように錯覚してしまうほどその景色は美しかった。
バシャッという音がして、水飛沫が舞う。
気づいたときには海の全身は海面下に沈んでいた。
「海!!」
急いで起こそうと手を伸ばすと、逆に海に腕を引っ張られた。突然のことにバランスを崩し、海に覆いかぶさるように倒れてしまう。
「おい!何すんだよ!」
「あはは、ずぶ濡れだ~」
「誰のせいだと思ってんだ?」
ケラケラと楽しそうに笑う海を見れば、怒っているこっちの方が馬鹿らしくなってくる。
海は立ち上がると、今度は俺の手を引いた。
そのまま勢いよく引っ張られて立ち上がれば、目の前には青い空が広がっていた。
「どこからが海でどこからが空か分からなくなりそうだね」
「そうだな…」
海がそう言うから、思わず見入ってしまう。どこまでいっても青くて、境界線なんて見当たらない。
「そこの兄ちゃん」
振り返ると1人の老人が手招きをしていた。
不思議に思いながら近づくと、杖を突いた老人は俺の濡れた服を見て眉を顰める。
「この辺りは潮の満ち引きが激しいから気を付けるんだよ。最近だとそれを利用した自殺も多いからね」
「ご心配ありがとうございます」
老人はそれだけ言うと去って行った。
海は遠くから俺たちの様子を伺っていたようで、戻るなり心配そうに何かあったのか聞いてきた。
「大丈夫だった?」
「うん、この辺りは潮の満ち引きが激しいから気をつけろってさ」
「そうなんだ。じゃあそろそろ旅館に戻ろ」
タオルで体を拭きながら旅館に戻った。
部屋に戻るなり、すぐに湯舟に湯を張る。
旅館的には温泉を売りにしているらしいが、どうにも大浴場は苦手だった。
「海、風邪ひかないように暖かくしておけよ」
「分かってるよ~」
俺は部屋に備え付けてあるお茶を飲みながら、適当にテレビを見ていた。
そこまで広い浴槽ではないし、すぐに湯は張られた。
「お湯張ったから先入っていいよ」
「え、ほんと?ありがと~」
パタパタと風呂場に向かった海を見送り外を見ると、すでに日は沈んでおり海が黒くなって見えた。
しばらくすると、海は予想よりも早く髪を乾かしながら戻って来た。
「あれ、早くないか?」
「だってご飯もうすぐでしょ?仲居さん来ちゃうと思って」
「そういえばそうだな。じゃあ俺も入ってくるわ」
「はーい」
何となく海水でべたべたする体を早く流したくて、早足で風呂場に向かう。
少し熱いくらいの湯船に浸かり、手足を伸ばした。
「はぁ~……」
つい声が出てしまう。
いつもより少し熱めな気がするが、それが心地よかった。
できるだけ早く風呂を上がり浴衣に着替えると、すでに仲居さんが食事の準備をしてくれていた。
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそごゆっくりしていただいて。お料理はテーブルの上に用意しておりますので」
仲居さんはそう言って部屋を出て行った。
テーブルの上に置かれた食事を見れば、それは豪勢なものでとても美味しそうに見える。
海も待ちきれないのか既に席に座ってそわそわしている。
「じゃあ食べようか」
「うん!」
「「いただきまーす」」
目の前の料理はとても豪華で、どれも手が込んでいて見た目も美しいものだった。それに、何を食べても本当に美味しい。
「これ美味しい!」
「こっちの魚もなかなかいけるぞ」
「本当だ!」
2人で楽しく話しながら箸を進めれば、あっという間に皿は空になっていた。
食後のデザートまでしっかり完食して、2人揃って息を吐く。
「ふぅ~、食べた」
「もう入らないね」
海は満足そうに布団に寝転ぶ。俺もその隣に腰を下ろした。
それからしばらくはお互い何も言わずにぼーっとしていた。
「寝るか」
「えー、もう?」
「眠いし、また明日も遊べばいいだろ」
「分かった、おやすみ」
電気を消せば、真っ暗になった部屋に月明かりだけが差し込む。
まだ目が慣れていないため、海の顔はよく見えない。
「ねぇ、起きてる?」
「あぁ、どうした」
どれぐらい経ったのか分からない。
何の前触れもなく、急に海が話しかけてきた。
「僕、幸せだな~って思って」
「いきなりどうしたんだよ」
「いや、改めてそう思っただけ」
俺は何も言えなかった。それでも海は続ける。
「翼は僕のことどう思ってる?」
男にも女にも見えないのに、男にも女にも見える顔。中性的であり無性的な海の表情は消した電気のせいでよく見えなかった。
「僕ね、海に受け止めてもらえて嬉しかった」
いつもの少し高めな声とは違って低く落ち着いており、海の声のはずなのに全くの別人の声に聞こえる。
その声音からは感情を読み取ることはできない。だけど、どこか寂しさを感じるのは何故だろう。
「翼」
いつの間にか寝返りを打った海が俺を見つめているような気がしたが、生憎暗闇に紛れていて何も見ることはできなかった。
そのまま海は言葉を続ける。まるで俺がそこにいないかのように。俺の返事なんて期待していないように。
「僕のことを可哀想だと思わないで」
「……分かった」
そう答えれば、少し間が空いたあとに「ありがとう」と小さく呟いたのが聞こえた。そして、その後は規則正しい呼吸音が響くだけだった。
でも俺はこのまま寝られる気がしなくて、カーディガンを羽織って旅館を出た。
「あんなの、海じゃない」
過呼吸に似たような症状に陥りながらも、必死に酸素を取り込もうともがく。
それが苦しい上に思考を振り払いたくて思い切り走った。今が何時なのかなんてどうでも良かった。
ただ、これが現実だと思いたくなかった。
「こ、こって」
走って息が切れる中、ふと顔を上げるとそこは昼間に訪れた海だった。
しかし潮が満ちているせいで昼間と同じ海には見えなかった。
波打ち際まで近づき、海を眺める。夜の砂浜は昼間よりも冷たい空気が流れており、俺の体温を容赦なく奪っていく。
「なんで、こんなことになったんだろう」
思わずそう口に出した。足元を見ても、もう昼間に訪れた時に付けた沢山の足跡は1つも見当たらなかった。
まるで初めから足跡なんてそこに存在しなかったかのような海の様子に段々と恐怖が積もっていく。
「海」
返事をするように波が押し寄せては引いていく。それが生き物のように見えて仕方ない。
「…海」
どれだけ手を伸ばしても届かない。だから足を進めた。
いつか海に受け入れてもらえると信じていたから。
「海!!」
気が付いたら俺は大声で叫んでいた。それは悲鳴に近いかもしれない。
自分でも何の意味があるのか分からないまま叫び続けた。すると突然後ろから誰かに抱きしめられた。
「おい!何をしているんだ!!」
俺を後ろから抱きしめたのは昼に会った老人だった。
「お前、どうしてここにいるんだ!?」
「……」
「とにかくこっちへ来い」
老人は俺の腕を引き、半ば強引に海から引き上げられる。
自分の腰辺りまで海に入っていたことに今更ながら気づいた。
抵抗しようと思えばできたはずだが、何故か体が動かなかった。
半ば引きずられるように浜辺に戻ると、やっと腕が解放された。
「あの、ありがとうございます……」
「そんなことはいい。それよりも、ここで何をしていた?」
「えっと……」
言い淀んでいると、老人は何かを悟ったようで深いため息を吐く。
「とりあえず今日は宿に帰れ。自殺なら今日はやめておくんだな」
「えっ?俺、死のうとしてないですよ」
「は?」
老人は俺を海から引き上げる時に杖を浜辺に投げたようで、それを拾い上げているところだった。
「じゃあ、なんで潮が満ちている海に水着も着ずに入って行ったんだ?」
「…」
「安心しろ、わしには口外するような知人は居らん」
「……海に、受け止めてほしかった」
老人は何も言わなかった。ただ黙って俺の言葉を待っている。
「海は生きてるんです。だから俺もその一部に、」
「分かったからもう喋るな」
そう言って俺の話を止めさせると、俺の肩に手を置いた。
「何かあったのは分かった。でも、気が動転している時に海に入るのはよくない」
諭すような口調だったが、俺の耳は殆ど聞き取れていなかった。
「でも、俺は!」
「明日、またここに来るといい。それまでに心の整理をしておけ」
「……はい」
渋々返事をしたのを確認してから、老人は去って行った。
段々と地平線から日が昇ってくる。
まだ薄暗い空だが、少しずつ明るくなっていく景色が今の俺には眩しく見えた。
「帰ろう」
まだ眠たい目を擦り、欠伸をしながら旅館へ戻る。
部屋に入ると、海はまだ寝ていた。海が起きない内にシャワーで海水流して着替えておいた。
「海、そろそろ起きろ」
「ん~…おはよう翼」
「おはよう、寝起き良いんだな」
朝から機嫌が悪くなることなく起きた海に感心する。
それから2人で朝食を食べ、チェックアウトの時間になったので荷物をまとめてから外へ出る。
夏の日差しは強く、思わず目を細めてしまう。
「どこか行きたいところあるか?」
「海」
「また?」
「だって好きなんだもん」
2人並んで海に向かって歩いていく。昨日の夜の会話が夢だったかのように、いつも通りの海だ。
その様子が少し怖かった反面、安心していた。
少し歩き、海に着いた。夜の海とは違い、昨日の昼間に見た時のように穏やかに海面が揺れていた。
今日は海に入ることなく、砂浜から眺めることにした。
どうしても昨日から気になったことを海に聞きたい。これを聞く代償の覚悟はできていた。
「なぁ、海は後悔しているか?」
「ううん、全然。僕は幸せだよ」
「…そうか」
海が後悔していないなら良かった。
それがずっと気がかりだった。何を思ったのか、海がこちらを見ないまま口を開いた。
「翼はどう思った?」
「俺は…」
答えに詰まっていると、突然目の前の海が歪む。
目頭が熱くなり、視界がぼやける。いつの間にか泣いていた。泣く理由なんてどこにもないはずなのに。
「俺は、信じたくなかった。俺も一緒にいきたかった」
涙が止まらない。泣き止もうとしても次から次に溢れ出てくる。
「僕は幸せだよ。こんなにも僕のことを想ってくれる人がいてくれるんだもん。ありがとう」
「…」
「ねぇ、翼。約束して欲しいことがある」
海の表情は見えない。ただ声色は、さいごに聞いたものと同じ優しい声だった。
「僕の翼になって、どこまでも連れて行って」
「…当たり前だろ。任せろ」
海が笑ったその時、風が吹いた。強い風に思わず目を瞑る。
風が止んで目を開けると、もうそこには誰もいなかった。
足元を見るとここまで2人で砂浜を歩いたにも関わらず、俺1人の分の足跡しかなかった。
「兄ちゃん」
どれだけ時間が経ったのか分からない。
ボーっと海を眺めていたら、例の老人が話しかけてきた。
「あ、どうも」
「うん、冷静になったな」
「その節はすみません」
「別にいいさ」
老人は笑って夜のことを許してくれた。
「昨日、お前さんは『海は生きている』と言ったな」
「あ、いや、あれは…」
「…わしも海は生きていると思うぞ。海はいつでも、何でも、誰でも受け入れる。だからお前さんも何かあったらまた来るといい。次は誰かと一緒にな」
「…はい」
老人はそう言うと去って行った。
それを見送ってからスマホを取り出し、電話番号を打ち込んだ。
「もしもし先生。ちょっと頼みごとがあります」

