イロナさんの祖父、アルクド・リーゲットは自分の部屋で過ごしていた。場所は家の西側に設けられた工房としての区画。住居部分と比べると頑丈かつ無骨に作られたそこは、老いた魔術師の人生の結晶とも言える場所だ。
 
 魔術師が私室を工房内に設けるのは普通だが、家族との住居もしっかりしているのは珍しい。アルクド氏が魔術師にしては珍しく、家族愛に満ちていたということだろう。これは大変素晴らしいことだ。魔術師と普通の生活を両立していたなんて、尊敬に値する。
 
 レンガ造りの上に魔術的な素材を塗り込んで強化した土壁の廊下を進む。扉は全て鉄製の上、魔術陣で強化されている。一目見ただけで、相当な練度の魔術師であることがわかる程のものだ。
 同時に、これらの魔術は現在休止状態でもあった。魔術師が管理して魔力を流していない。
 これほどの人が、自分の体に施した魔術で命の危機にあるとは、一体何をしたのだろう。
 疑問を持ちつつ、イロナさんの案内で工房内を進んでいく。
 
「こちらです。お爺ちゃん、イロナです。ちょっと、お話を聞いてほしいの」
「……入りなさい」

 扉の向こうから、疲れを帯びたしゃがれた声が聞こえてきた。

「失礼します」

 中に入り、イロナさんがランタン型の魔術機を操作すると、室内が昼のように明るくなる。
 そこにはベッドの上で起き上がる老人がいた。
 室内は想像よりも綺麗で片付いている。ただ、アルクド氏が仕事をしていたであろう机とその周辺や、一部の棚だけが手つかずだ。これは恐らく、イロナさんが触れていい部分だけ掃除をしていたということだろう。

「そちらの方はどなたかな?」
「マナールと申します。……旅の魔術師です」
「ほう……さてはイロナが無理を言いましたな。申し訳ありませぬ、孫娘が心配して無茶なお願いをして」

 俺をひと目見て、孫の狙いに気づいたアルクド氏はゆっくりと頭を下げた。弱ってはいるが、頭脳ははっきりとしているようだ。ただ、全身からよくない魔力の流れを感じる。これは、本当に良くないな。体に刻んだ魔術印が、日常的にありえない強さで発動しているんじゃないだろうか?

「お爺ちゃん。マナールさんは、多分凄い魔術師だと思うの。初めて見た抽出機の魔術陣を簡単に解析して、修理しちゃったくらいなの」
「それは本当ですかな? しかし、抽出機自体は珍しいものではありません。どこかで目にしたとか?」
「本当です。私は訳ありでしてね。魔術機というものを初めて見たのですよ」

 ただ、あれをひと目で解析したのはそれほど凄いことではない。洗練された末、簡略化されているが、ある程度の魔術師なら少し見ればわかるはずだ。少なくとも、私の時代では。

「イロナよ。お前の心配は嬉しいが、これは我が一門の宿命。魔術師とはこういうものだ」
「そんな……」

 アルクド氏はそう言って孫を諌めようとしていた。
 参ったな。治療の前に見ることすらできないんでは、私がここで暮らす上のあれこれを手伝って貰えない。普通の生活が遠のくのは問題だ。
 
「一つ、提案なのですが。まずは私に見させてもらえないでしょうか。そこで私が無理だと判断すれば、イロナさんも納得するのでは?」

 そういって二人を見ると、まずはイロナさんが頷いた。
 
「マナールさんが無理だといったら、諦めて次の人を探します」
「失礼なことを言うでない。わかりました、イロナを納得させるためならば」

 諦め気味にアルクド氏も首を縦に振ってくれた。

「では、失礼して。服を脱いでもらっても良いですか?」
「あ、わたしがやります!」

 イロナさんに手伝ってもらい、アルクド氏の上半身をむき出しにする。
 それを見て驚いた。
 アルクド氏の上半身、ほぼ全てに渡って複雑な魔術印が刻まれていた。異常なのは、複数の年にまたがって施された術式であることだ。古い魔術印と新しい魔術印を繋げ、別の魔術として再構築している。職人技だ。魔術印により徹底的に強化された魔術師の姿がここにある。
 ただし、気になることがいくつもあった。

「……これは、貴方一人でやったものではありませんね?」
「さすがですな。これは師が施したものでして。我が一門は師から「課題」として魔術印を与えられ、これを解析することで腕を磨くのです」
「お爺ちゃんには悪いけれど、お師匠様はやりすぎだよ。命に関わるような魔術をかけるなんて」
「それは儂が未熟だからだ。儂がもっと優秀ならば、このようなザマにはならぬ」
「…………」

 二人の会話を聞きながら、私は観察を続ける。魔術印のいくつかには後から改良を施した跡がある。アルクド氏が解析し、自在に操れるようになった部分だろう。術式を追加されて、複雑になるにつれて手出しできなくなってしまったというわけだ。

 そもそも、魔術印がわかりやすく見える形になっているのが既におかしい。本来これは、魔術を発動させるときだけに、浮かび上がるものだ。この魔術は、相当前から機能不全を起こしているはずだ。アルクド氏はどうにかそれを抑え込んでいた、というのが私の見立てである。

「わかりました。この魔術印は複雑すぎて、安全な状態に戻すことはできません」
「……そんな」
「でしょうな」

 落胆と諦念、二人からそんな反応が返ってきた。
 
「マナール殿、孫が無茶をいって申し訳なかった。迷惑の詫びに……」
「しかし、別の方法ならあります」
「え?」
「それは?」

 何十年にもわたって改築された魔術印に手を加えるのは私でも難しい。時間をかければできるだろうけど、その前にアルクド氏の命が尽きる。
 だから、私は別の手法を取ることにした。

「貴方に施された魔術印を全て解除します。抽出機の魔術文字が不具合で消えるように、その体の魔術印を全て消し去ります」
「そんなこと、できるんですか?」
「解除魔術(ディスペル)……話には聞いたことがあるが、使い手が実在するなど……」

 イロナさんは表情を明るくし、正反対にアルクド氏はこちらを値踏みするような不信の目で見る。
 私は魔力を自在に操ることができる。あの工房で、そういう体に組み直した。
 故に現在常時発動状態にあるアルクド氏の魔術印を解除、というか分解して、自然の状態に戻すことが可能だ。魔術を解析できればだけれど。幸い、魔術印そのものは複雑だけど、手に負えそうなものではある。

「こればかりは、信じてもらえないとなんとも言えません。また、代償として、アルクド氏の魔術印は失われます」

 この決断は、彼の魔術師としての能力を大きく落とすだけでなく、人生をかけて組み上げてきたものを無に帰すことになる。
 魔術のために生きてきた老人にとっては、人生を捨てろと言っているのに等しい。

「…………お爺ちゃん、お願い。わたし、もっと長く生きていてほしい」
「むぅ…………」

 老人は悩んでいた。気持ちとしては即座に断りたかったろう。だが、孫から注がれる親愛の心がこもった視線が、それを逡巡させた。

「魔術印は消えても、魔術の知識は残ります。それは、無駄ではないと思いますよ。お孫さんにとっても」
「……わかりました。やってみてください」

 更に長考したあと、アルクド氏は首を縦に振った。
 
「では……」

 私はすぐに、老人の胸に右手を置いた。そこに小さな魔術印がある。小さいが、彼の全身を覆う魔術印の中枢だ。ここを起点に解除のための魔術を使う。

「あの、マナールさん、そういえば安全性は?」
「何事も起きないはずだよ。多分」
「多分……っ!」
「魔術とはそういうものだ。落ち着け、イロナよ」

 覚悟を決めたアルクド氏は堂々としたものだった。私は彼の全身を流れる魔力に接し、体に作用している魔術印の存在を知覚していく。ゆで卵の殻をむくように、彼に張り付いた魔術を、私の魔力が少しずつ、ゆっくりとはがしていく。
 
「わぁ……お爺ちゃん、痛くないの?」
「うむ。むしろ温かく感じる」

 アルクド氏の魔術印が白く発光する。解除が始まるのは、体の末端からだ。魔術印が白く光るたび、印は消え去っていく。
 時間にして数分で、アルクド氏の全身にあった魔術印は綺麗さっぱり消え去った。
 
「終わりました。今の貴方は、魔術印を持たない普通の魔術師です」
「おぉ……信じられん。マナール殿、貴方は一体……」
「良かった! お爺ちゃん!」

 私のことを信じていなかったのだろう。驚いた様子のアルクド氏。そこにイロナさんが抱きついた。その瞳には光るものが見える。

「体の調子は? どこか痛くない?」
「うむ。大丈夫だ。疲れはあるが、体の維持に魔力を使わなくても良くなったのでむしろ良い。うむ、魔力も使える……うむ」

 信じられないという様子で体の確認をするアルクド氏。魔術師として優秀であればあるほど、これがあり得ない現象だとわかってしまうからね。

「マナールさん、ありがとうございます。お礼を……」
「いや、その前に一つお願いがあります」
「はい?」
「アルクド氏、貴方の師に会わせて頂きたい。この魔術印について、聞きたいことがあります」

 ひと目見てわかった。アルクド氏に施された魔術印の数々。そして、その狙い。
 
 これは、人体実験だ。