ヴェオース大樹境。大陸北東部を覆う、巨大な人跡未踏の地。名前に樹と入ってはいるけれど、実態は山あり谷あり丘あり樹海あり。そして何より、数々の魔術師の遺跡が眠るという非常に危険な場所だ。

 そして、危険に見合うだけの報酬がある場所でもある。特に、魔術師にとっては。
 ヴェオース大樹境は大地の底から吹き出る膨大な魔力によって、ある種の異界と化しており、大魔術を行使するのに最適なのである。
 私が工房を構え、新生の魔術を使ったのもそれが理由だ。また、多くの魔術師がそれぞれの理由で何らかの施設を建造している。まあ、大半、遺跡になってしまっているけれど。

「……これが、百年眠るということか」

 工房の外に出た私は呆然としていた。
 道がない。当たり前だ、誰も来ない場所に建設した工房なんだから。建設の関係者は皆、この世を去っているだろうから、場所を知る者だっていない。

 そんなわけで、私の目の前にはとんでもない密林が広がっていた。
 気候は過ごしやすいけど、注ぐ日光の量は多くはなく、木々の無い工房入口付近以外は薄暗い。見える範囲にある木は頂上が見えないくらいまで育っており、幹の太さも人間の身長くらいある。まさに異界。これではどこに魔獣が潜んでいてもおかしくない。

「き、北はどっちかな……?」

 誰もいない森の中での呟きは、木々のさざめきにかき消された。……こういう場所で一人はちょっと嫌だな。

 呆然としていても意味が無い。夜が来る前にこの密林を脱出しなければならない。幸い、作り直したこの体は特別製だ。進むべき方角さえ決まれば問題は解決する。普通の生活に至る道筋は、なかなか険しいな。

「…………」

 心を集中し、体内の魔力制御を始める。魔力は、体内を巡るもうひとつの血液だ。内臓では無く、魂から生み出される万能にして不可思議な力。あらゆる生き物の中で巡り、なにかしらの形で自然と使われている。
 この魔力を魔獣や獣は肉体強化くらいに使うことしかできない。だが、人を始めとした知恵ある種族は、魔力を操る術を見出している。それが魔術だ。

 心の中で呪文を唱える。通常なら声を頼りに魔力を編み上げ、魔術と成すが、今の私にはそれすら必要ない。
 魔力から再構築されたこの肉体は、思うだけで魔力を自在に操れる。

 ……よし足場を作ってみよう、そうだな、螺旋階段がいい。

 僅かに見える空に向かって視線を走らせる。
 それに合わせて、魔術が成立する。
 無音と光、一瞬で生み出されるのは、光の螺旋階段だ。光と地と風の魔術の応用である。
 何度か一段目を踏みしめて、強度を確認してから、ゆっくりと階段を登る。
 大きめの城程度の高さはある階段で、木々の間を徐々に登っていく。葉の間から幹の上を走る小動物が目に入った。
 少し時間をかけて、私は木々よりも上にある、光の螺旋階段の頂上に着いた。

 これ、普通に浮かび上がった方が楽だったな……

 肉体的な疲労も、魔力的な消耗も殆どなかったけど、あまり効率的でも無かった。思いつきで作ってみたけれど、これは複数人で行動している時用の魔術だな。
 反省しつつ、気を取り直して周囲を見渡す。高いところから見れば、行き先はすぐに決まるだろう。とりあえずは、ヴェオース大樹境を抜けて、人里を目指さねば。

「……なんだ、これは」

 木々の上から見えた光景は、目を疑うものだった。

 城壁である。
 私の工房は大樹境の中央に位置していた。森を抜けるまで五日、その向こうは草原で、更に数日歩いてようやく人里に辿り着く。草原自体は豊かな場所だったが、大樹境と隣接しているため人が住んでいなかった。
 
 しかし、今、私の目に映っているのは巨大な城壁である。
 樹境が終わり、草原になって少しの距離に堅固な石壁が築かれている。それもかなり高い。今周囲に見える木々よりも高さがある。横幅もかなりのものだ。途中で曲がって見えなくなっているが、円形になっていると思われた。

 一般的に、城壁の向こうに何があるのか。
 言うまでも無い、都市だ。
 この百年の間に世の中の常識が変わっていなければ、あの城壁の向こうには人里がある。それもかなりの規模の。あれだけの設備を維持するならば、相応の人数が常駐する必要がある。

「ああ……面白いなぁ……」

 自然と、そんな言葉が出て、笑っている自分に気づいた。
 人間が住めないはずの場所に人間が住んでいる。
 工房から出て、ちょっと高いところに出ただけで、そんな事実を突きつけてくる未来の世界。
 あの壁の向こうに何があるのか。どんな人々が住んでいるのか。どんな生活をしているのか。弟子達の生み出した魔術の産物はどう変わっているのか。
 そこに自分は居場所を見つけ、加わることができるのか。魔術師でありながら、普通の暮らしが送れるのか。

 石壁一つ見ただけで、頭の中で想像が迸る。

 未来に来て良かった。
 どれだけ時間がたったかわからないけど、確実にここは私が生きていた時代ではない。
 未知の世界がすぐ側に広がっている。

 そんな好奇心に満たされながら、私は静かに螺旋階段を降りて、魔術を終えた。
 
 密林を進む足取りは、新しい肉体が優秀なことを差し引いても、とても軽かった。