灰色の雲が千葉の空を低く覆い、稲毛の海から吹き付ける湿った風が、古いビルの隙間を頼りなく呻きながら通り過ぎていく。季節は梅雨へ向かう中途半端な時期。あらゆるものがじっとりと重く、人々の足取りも心なしか鈍い。
雑居ビルの三階、その一番奥に「探偵事務所アーガスリサーチ千葉」のプレートはあった。磨かれることのない真鍮のそれは、くすんで黒ずみ、辛うじて文字が読める程度だ。ドアを開けると、カラン、と乾いたベルの音が鳴る。所長の相賀壮一郎(あいが そういちろう)が、唯一こだわって取り付けたアンティークのドアベルだった。
所内は、世の探偵事務所のイメージに違わず雑然としていた。しかし、それは無秩序な乱雑さではない。千葉県全域の巨大な地図が貼られた壁、分野ごとに整理されたファイルが詰まったスチール棚、そして部屋の主である相賀が座るデスクの上だけは、まるで聖域のように片付いている。そこにあるのは、一杯のコーヒーと、読み古されたギリシャ神話の本だけだ。
相賀は、そのデスクで肘をつき、窓の外を流れる雲を眺めていた。四十代半ば。無精髭に、深い皺が刻まれた目元。かつて千葉県警捜査一課で「百の目の相賀」と密かに呼ばれた鋭い眼光は、今は少しばかりの疲労と皮肉を宿して翳っている。警察という巨大な組織の論理に背を向け、この小さな城を築いて五年が経つ。浮気調査、ペット探し、素行調査。潮風と共に舞い込む依頼は、人の心の弱さや愚かさを煮詰めたようなものばかりだった。
「……退屈、か」
誰に言うでもなく呟き、冷めかけたコーヒーをすする。神話の巨人アルゴスは、百の目ですべてを見通したという。だが、今の自分が見通せるのは、依頼人の見え透いた嘘と、月末の口座残高くらいのものだ。そんな自嘲に浸っていた、その時だった。
カラン。
来客を告げるベルの音が、やけに場違いに響いた。相賀が顔を上げると、そこに立っていたのは、上質なシルクのスーツに身を包んだ老人だった。白髪を綺麗に撫でつけ、その手には黒檀のステッキが握られている。だが、その完璧な装いとは裏腹に、老人の顔には隠しきれない焦燥と、深い疲労の色が浮かんでいた。靴についた僅かな泥が、慌ててここまで来たことを物語っている。
「ここが、アーガスリサーチか」
しゃがれた、しかし威厳のある声だった。
「そうですが」
相賀は椅子に座ったまま、値踏みするように老人を見つめた。
老人は、犬吠埼源五郎(いぬぼうさき げんごろう)と名乗った。県内にその名を知らぬ者はいない、大手ゼネコン「犬吠埼建設」の会長だ。政財界にも強い影響力を持つ、千葉の支配者の一人と言ってもいい。
そんな大物が、なぜこんな場末の探偵事務所に。
「孫娘を探してほしい」
源五郎は単刀直入に切り出した。
「家出だ。警察に届ければ、事が大きくなる。あの子は少々、多感な時期でな……。内密に、穏便に連れ戻していただきたい」
よくある話だ、と相賀は思った。金持ちの家の、甘やかされた子供の気まぐれ。だが、相賀の目は、源五郎の語る言葉の裏側にあるものを見逃さなかった。孫を心配する祖父の憂いではない。その目の奥に揺らめいているのは、もっと暗く、粘り気のある感情。それはーー恐怖に近かった。
「家出の原因に、心当たりは?」
相賀の問いに、源五郎は一瞬、言葉を詰まらせた。
「……さあな。最近、少し妙なことに興味を持っていたようだが……。房総に伝わる、古い言い伝えのようなものだ。つまらんことだ」
口では「つまらんこと」と言いながら、老人の指先がステッキの上で微かに震えている。嘘だ。その「つまらんこと」こそが、本質だ。相賀の探偵としての勘が、警鐘を鳴らす。この依頼は、ただの家出人捜索ではない。その先には、この千葉という土地に根を張る、深く、どす黒い何かが口を開けて待っている。
相賀はゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外は、いつの間にか霧のような雨が降り始めていた。
「……引き受けましょう。ただし、私のやり方でやらせていただきます。どんな些細なことでも、嘘や隠し事はなしだ。それが条件です、犬吠埼会長」
源五郎は、相賀の背中に向かって、こくりと頷いた。
契約を終えた老人が去ると、事務所には再び静寂が戻った。だが、先程までの退屈な静けさとは質が違っていた。湿った潮風に、微かに血の匂いが混じったような、不穏な気配。
相賀はデスクに戻り、新しいファイルに「犬吠埼家・令嬢失踪事件」と書き込んだ。
そして、呟く。
「さて、百の目でも見通せない泥沼でなければいいがな」
雨脚は、少しずつ強まっていた。まるで、これから始まる悲劇の舞台を清めるかのように。