地獄通り、徒花楼。
ぎしぎしと不安定な木の板が張られた床を、両手を拘束された縄を引かれるがままに歩を進める。あの頃に比べたら大分マシになったけれど、様々な花の香水がぐちゃぐちゃに混ざり合ったような独特の臭気は牢にこびり付いたように取れない。

「澄華様、ここが貴女の牢です」

はらりと目を覆う布が解かれ、私はおそるおそる目を開けた。
私は、木製の柵の中に閉じ込められていた。

「僕は案内役の半妖の天狐です。……どうぞ、これが貴女の罪状です」

白い狐耳に尻尾を靡かせながら、あどけない容姿の守衛が牢の隙間から紙を差し出す。
私は拘束された腕を伸ばす。腕を縛る荒縄の繊維は、腕を動かす度に私の肌を擦り切ってゆく。
苦心しながら開いた書状には、太い墨字でこう記されていた。

――澄華ヲ百人刑トス。

「ヒッ……!」

思わず書状を取り落とした。動揺で頭がクラクラして、意図せずに呼吸が浅くなる。

「いっ、いやっ!嫌よ!私は認めないわ!!」
「貴女様は以前、このような罪人の娼館、徒花楼にも目を配って頂き感謝しております。……ですが、斉明寺家の当主様のお言葉が第一ですので」

天狐の守衛の言葉に動悸が激しくなる。
当主?
それは誰?お父様?それとも……あの女?

『おバカな女狐お義姉様♪』

「――あの女ァ……っ!!」

百華の勝ち誇ったような顔を思い出して血が沸騰する。許せない。この私をあそこまでコケにするなんて……っ!

「初めはなるべく気性の穏やかな者を寄越します。……早々に壊れては困りますので」
「……ッ」

天狐の守衛の言葉に一瞬で血の気が引いて青ざめる。木の柵に手を掛け、守衛を凝視する。

「待ちなさい!……待って……!!」
「では、それまで少々お待ちください」
「私は、いつまでここに居なければいけないの!?」

たまらず、踵を返す守衛を呼び止める。

「お待ちください。……ご指名がかかるまで」

天狐の守衛は肩ごしに私を一瞥すると、白い尻尾を揺らしながら牢獄を後にした。

「……うそよ」

私は力なく地面にへたり込む。
何なのこの仕打ちは?なぜこの私がこんな所にいるの?

「…………」

喉が渇いて言葉が出てこない。
私は恐怖に顔を歪めながら、頼りなく揺れる廊下の鬼火を見つめるしかなかった。

それから、徒花楼で数日が過ぎた。
指名は掛からず、配給される些末な食事と水を無理やり喉に流し込んで、人と妖が混ざり合う気配と漂う臭気に吐き気を覚えながら過ごした。
私の肌はすっかり生気を失い、艶やかで豊かだった黒髪は艶を失って荒れた。
ああ、毎日ユヅルが梳いてくれたのに。これでは台無しだわ。

『俺が、絶対に貴女を徒花楼から救い出します!!』

「……ユヅル」

パーティー会場で捕らえられた彼は、今どうしているかしら。私同様、破門されてしまったかしら。
荒縄が掛けられた自身の手を見る。手の平は煤け、爪はひび割れ、かつての華族の令嬢たる私の姿はもう見る影もない。

「……がう」

掠れた声が口を吐く。

「違う、違う……っ!こんなものは、私では無い!!」

目に映る光景が信じられない。こんなものが私の姿だなんて認められない。
艶の失せた自身の髪を掴んで頭を振る。

「私は当主に、斉明寺の当主になるのよ!その為に生きてきたの!私は……私、は……っ!!」

「うるさいっ!」

「っ……!」

隣の牢獄から力任せに壁を叩かれる音と共に罵声が響く。
ビクリと肩を震わせ、二の句が継げなくなる。

「澄華様」

バッと弾かれた様に顔を上げる。
天狐の守衛が音も無く私の牢の前に現れ、そのままスッと一礼をした。

「澄華様、お一人目のお客様です」
「……っ」

元々色を失っていたのに、私の肌は海水のように青く染まった。

「直にこちらに参ります。身なりを整えてお待ち下さいませ」

それだけ言うと、天狐の守衛はくるりと踵を返した。

「……そう、なのね……」

ああ、これはもう、観念するしかないわ。
骨ばった震える手で、毒々しい色合いの粗末な着物の襟元を直す。
備え付けのひび割れた鏡を見ると、そこには精気のない虚ろな紫水の瞳が映っていた。

「…………ぁ」

その顔を見て、私は目を見開いた。

ああ、私は一体何をしているの。こんなか弱いだけの姿は私では無いわ。
荒れた唇を、ぐっと血が滲むほど噛み締める。自分自身への戒めの為に。

みすぼらしくとも誇りは捨てるな。
か弱いだけの女に成り下がるな。

「……私は”澄華”よ」

血の味のする唇から言葉を紡ぐ。

「斉明寺の名が無くとも、私は私であるだけ充分尊いわ」

この尊厳だけは譲れない。これこそが、私を私たらしめるものだ。

フッと息を吐いて強く瞬きをする。
震えの止まった手で身なりを整え、柵の正面に正座する。背筋を伸ばして、木の柵をしっかりと見つめた。
震える手は、着物の袖に隠した。
コツコツと歩み寄る靴音に、一度顔を伏せる。

「お待たせいたしました」
「……ええ、通して頂戴」

人間でも半妖でも妖でも、誰でも相手にしてやろうじゃない。
この私に堕ちない者などいないわ。
扉が解錠されると共に顔を上げると、目に映った男に私は目を見開いた。

そこに立っていたのは――上質な浅葱色の着物に身を包んだユヅルだった。

「……ユヅル?」
「はい、お嬢様」

普段と寸分変わらない凛とした声で、ユヅルが応えた。

「……どうして、貴方が」
「約束通り、お迎えに上がりました」

ユヅルが私の牢に足を踏み入れる。
背後にいる天狐の守衛の持つ漆台には、紙幣と金貨が溢れんばかりに置かれていた。

「お嬢様、俺が貴女を身請けします」

ユヅルの言葉と柵の外の大金に、私は目を限界まで見開いた。

「私の、身請け……?ゆ、ユヅル。こんな大金、どこから……」
「今まで斉明寺家より頂いだ賃金の全てと、俺自身の金です」
「そんな……」

その大金は、私がユヅルを身請けした時よりも額が多い。

「お嬢様、俺も先日斉明寺家を破門されました。ですので……俺と、東に行っては頂けませんか?」

私の元に跪いて、真剣な目で見つめるユヅルに困惑する。

「東……?それは、貴方の出生地?」
「左様でございます。今まで言えずに申し訳ありません。……俺の本名は東雲 弓琉(しののめ ゆづる)。東の士族の出です」
「な……っ!」

東雲家と言えば、東の士族指折りの名家じゃない。
ユヅルが、あの東雲家の直系だったの?

「貴女が俺をこの徒花楼から救い出して下さったその瞬間から……俺の心は、生涯貴女様だけのものです」

ユヅルが私の荒れた手を取って、真摯な眼差しで私を見つめる。
彼の真っすぐな言葉に胸が詰まって、熱い思いが込み上げてくる。
震える声で、私は言葉を紡いだ。

「……私はもう、由緒ある斉明寺の女では無いわ」

破門され、私の苗字は無くなった。
眦に熱い涙が滲む。目の前のユヅルの姿が、ぼやけて歪む。

「ただの”澄華”となった私でも……仕えて、下さるの?」

「勿論でございます」

応えたユヅルの声はこの上なく澄み渡っていた。
頭を上げたユヅルが震える私の手を取って……ふっと、温かく滲むような微笑みを向けた。

「この場所で俺に、生涯お仕えせよと命じられたではありませんか。――澄華様」

「……っ……!」

もう限界だった。
堪えきれなくなった私の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
この私が涙を流すだなんて、生まれた時以来よ。

「……ええ。ええそうよ。貴方の生涯は、全て私のものよ」

人差し指でピッと眦を拭って、目に溜まる涙を振り払う。
鮮明な視界でユヅルをしっかりと見つめると、はっきりと告げた。

「貴方の出生地へ行ってあげるわ。案内なさい」

またせり上がる涙を堪えながら、私は主らしく毅然と微笑んだ。

「――仰せのままに」

私の言葉を受けて微笑んだユヅルは、この世のなによりも美しいと思った。

「身請けが成立した事により、澄華様は出獄となります」

大金を受け取った守衛の天狐が牢の扉を開いた。
牢から出た私に出獄の木札を差し出す。それを受け取ると守衛の天狐は無表情を崩して、ぎこちなくも温かい笑みを向けた。

「どうか、ご健勝で」
「ええ、ありがとう」

優雅な微笑みで返すと、私はユヅルと並び立って徒花楼を後にした。