春の気配が、静かに山荘を包み込む。

 社交界から離れて数ヶ月。
 花怜は、あの喧騒がまるで前世のもののように思えるほど、穏やかな暮らしの中にいた。

 もう誰の視線に怯えることもない。
 澪人の屋敷――というよりは、今や“ふたりの家”となったこの場所で、花怜はゆっくりと生きる術を学んでいた。

 

 そして、ふたりの婚礼が間近に迫っていた。

 

「……やはり、わたくしには“花嫁修業”など、無理だったのでは……?」

 湯気の立ち上る鍋を見下ろしながら、花怜は呟く。

 味噌の分量を間違えてしょっぱくなり、澪人に毒見させたのは三日前。
 昨夜は焦がしたお茶菓子に「これが“炭焼きの美”か」と彼が苦笑した。

 

 花怜はもともと何もできなかったわけではない。
 ただ、貴族令嬢として「やる必要がなかった」だけだった。

 自分の手で何かを作り、誰かの役に立つ。
 それは、初めての幸福だった。

 

「焦ることはない」

 背後から、優しい声が届いた。

 澪人だ。

 そっと腕が花怜の腰にまわされる。

「少しずつ覚えていけばいい。……それに、お前が作ったものなら、俺は何でも喜ぶ」

「……甘すぎますわ」

「そうか? じゃあ、今度は“甘くない”お前が見たい」

「……澪人さま!」

 振り向くと、唇がそっと重ねられた。

 

 こうして、何気ないやりとりを交わしながら、二人の日々は進んでいく。

 

 

 婚礼に必要な細々した準備――衣装合わせ、花冠の選定、書状のやりとり。
 貴族の婚礼に比べれば、質素かもしれない。

 だが、澪人は言った。

「派手さはいらない。必要なのは、お前がそこにいてくれることだけだ」

 

 花怜は、まるで少女に戻ったように赤面して、うつむいた。

 「愛されていいのか」と思い詰めていたあの日の自分が、今の自分を見たら何と言うだろう。
 こんなに穏やかな幸せを、自分が手にする日が来るなんて――と、信じられない気持ちだろう。

 

 ある日の夕暮れ。

 ふたりは、丘の上に立っていた。

 ここは澪人が小さな礼拝堂を建てようとしている土地。
 ふたりの“式”は、ここで簡素に挙げられる予定だった。

「花怜」

 彼が名を呼ぶと、風が頬を撫でた。

「お前を迎えてから、俺の世界は変わった」

「……わたくしのほうこそ。あなたがいなければ、今も過去に縛られたままでした」

「だからこれからは、未来をくれ。過去なんてもう見なくていい。
 お前が笑ってくれる、それだけで、十分なんだ」

 

 澪人の手が、花怜の指を握った。

 指輪などまだない。
 けれど、肌に触れるその体温が、どんな宝石よりも大切だった。

 

「あなたの花嫁として、恥ずかしくないようになりたいのです」

「お前が“お前”であることが、すでに誇りだ」

「……そうおっしゃるから、わたくしはまた惚れてしまうのです」

「じゃあ、惚れさせ続ける覚悟を持たないとな」

 

 彼の言葉は、冗談のようでいて、本気だった。

 この人は、決して“自分だけの正しさ”で花怜を縛らない。
 ただ隣にいて、花怜の手を握り、共に生きてくれる。

 

 ――この人に、嫁ぐのだ。

 

 初めての“愛される実感”が、涙になる。

 けれどそれは、決して哀しみではなかった。

 

 夜、ふたりは寄り添って眠る。

 そっと、澪人の胸に頭を預けたとき、彼がささやいた。

 

「花怜。……今日も綺麗だ」

「眠る前にそんなことを言うと、眠れなくなりますわ」

「じゃあ……眠れなくなるまで、抱き締めていてもいいか?」

「……もう、好きにして下さいまし」

 

 ふたりの婚礼は、もうすぐ。
 その日が来るのを、心から待ちわびながら――
 “愛される覚悟”を、花怜はようやく手に入れようとしていた。