今宵、社交界で最大規模の舞踏会が開かれる。
花怜にとって、それは「最後の清算」となる場だった。
かつて自分が傷つけた人々も、見下されたと感じた令嬢たちも、そこに集う。
そして、誰よりも妹・紗耶もまた、その中心に立っていた。
だが、花怜は恐れていなかった。
怯えていたのは、“自分を偽ること”だった。
今の自分のまま、この場所に立てるなら――それでいい。
入場の扉が開かれたとき、空気が張り詰める。
誰もが息を呑んだ。
花怜は、黒と深紅を基調とした艶やかなドレスに身を包んでいた。
それは、かつての“華やかで高慢な令嬢”を彷彿とさせながらも、まったく異なる。
凛とした美しさ。
目を逸らさせない威厳と誇り。
「藤見花怜……!」
「まさか、本当に戻ってくるとは」
視線が突き刺さる。
だが花怜は、まっすぐ中央へ進み出た。
そして、自ら言った。
「皆さま。かつてわたくしが、どれほど多くの方を傷つけたか……今日この場で、その責を受け止めたく、まいりました」
ざわめきが広がる。
「謝罪をするというの? 今更」
「許されるとでも?」
「偽善よ。きっとまた自分の地位が欲しいのよ」
それでも花怜は揺るがない。
「許されたいとは、思っておりません。
ただ、わたくしが奪ったもの――信頼や、尊厳、静けさ――それを“無かったこと”にはしたくないのです。
逃げずに、正面から向き合いたい。それが、わたくしの選んだ道です」
静まり返る会場。
そこに、紗耶が現れた。
「お姉さま。潔いわね」
微笑みながら、彼女は言う。
「でも……今更、何を言っても遅いのよ? わたくしはずっとあなたに苦しめられてきたの。
“被害者”のわたくしが、赦すとも言わない限り、あなたの言葉は何の意味もないわ」
それは、真実のようで、どこか歪んでいた。
花怜は、ゆっくりと彼女を見つめる。
「そうね。あなたは確かに傷ついたでしょう。
でも、わたしが崩れていくのを、どこかで楽しんでいたこと……あなた自身、気づいているのではなくて?」
――ピシリ、と空気に罅が走った。
「あなたは、“哀れな妹”という仮面のまま、周囲の同情と優越を受け取ってきた。
その間に、どれほど人を傷つけていたか。
わたしだけではなく、あなたの傍にいた令嬢たちも、気づいているはずよ」
会場の空気が、一変する。
紗耶の後ろにいた一人の令嬢が、ためらいながら口を開いた。
「……わたくしも……以前、紗耶様に嘲笑われました。“あなたみたいな子は、お姉さまのように落ちぶれたらいいのに”って……」
さらなるさざ波が広がる。
紗耶の表情から、仮面の笑みが消える。
「……っ、違うわ。わたしはただ、正義を――」
「その“正義”が人を傷つけるなら、それはもう正義ではありません」
花怜の声が、静かに響いた。
「わたしは、悪女でした。でも、だからこそ分かるのです。
“正しさ”だけを武器にしたとき、人は簡単に、誰かを踏みにじってしまう。
もう、そうしたくない。誰よりも強くそう願っているから、今日ここに立ちました」
紗耶の唇が震える。
「……わたしは……ずっと、愛されたかっただけなのに……」
その言葉に、花怜の瞳がかすかに揺れた。
「それは、わたしも同じよ。
でも、その愛を人から奪おうとしたとき、わたしたちは同じになってしまったの」
――それが、花怜の“正義論”だった。
誰かの正義が、他人の尊厳を踏みつけにすることがある。
だからこそ、自分の罪も、他人の傷も見つめ続ける覚悟が必要だ。
その夜、花怜は会場を後にし、屋敷に戻った。
澪人が、玄関で待っていた。
「……やりきったか?」
「……ええ。怖かったけれど、でも、行ってよかった」
花怜の目は、どこまでも澄んでいた。
澪人は、彼女の両肩に手を置き、真正面から見つめる。
「なら、次は俺から」
「……え?」
そのまま、片膝をついた。
風が、二人の間を通り抜ける。
月明かりの下、澪人の声が低く、真っ直ぐに響いた。
「藤見花怜。
これからの人生を、俺と共に歩んでほしい。
罪や過去も、全部知っている。
それでも、お前を愛している。
だから、――俺と結婚してくれ」
花怜の瞳が、見開かれる。
そして、ゆっくりと涙がこぼれた。
「……はい。こんなわたしでよければ、喜んで」
その瞬間、澪人が立ち上がり、そっと彼女を抱き締めた。
「俺は“わがまま”なんだ。
お前に誰の名前も、もう呼んでほしくない。
誰の涙も見せてほしくない。
……だから、もう俺だけを見てろ」
その夜、花怜は澪人の腕の中で、何度も名前を呼ばれ、何度も額にキスを受けた。
ただ「欲しい」ではなく、ただ「赦して」でもなく。
互いに“選び合った”ふたりの、優しく熱い夜が始まった。
***
藤見花怜は、社交界に二度と戻らなかった。
けれど彼女の名前は、あの日の夜を最後に“悪女”ではなくなった。
澪人の隣に立つ彼女は、もう誰にも怯えていなかった。
過去を背負いながらも、自分の人生を堂々と歩き出す。
それは、どこにでもある物語ではない。
けれど、確かに一つの“シンデレラ・ストーリー”だった。
――悪役令嬢が、自らの正義を捨てて、本物の愛を手にする物語。
『悪役令嬢の正義論』――完。



