あの日の再会から、数日が経った。

 花怜が再び社交界に姿を見せたことは、瞬く間に広がった。

「どういう風の吹き回しかしら」
「今更、何をしに出てきたの?」
「あの“天使”の妹に比べて……まだ懲りていないのね」

 陰口は、かつてと何も変わっていなかった。

 けれど、花怜の中にはもはや“怯え”も“虚勢”もなかった。

 澪人の傍で静かに過ごした日々のなかで、自分を取り戻したからだ。
 ――誰のためでもない、自分のために、生きたいと思えたからだ。

 

 そんな彼女の変化は、やがて父・藤見侯爵の耳にも届いた。

 

 「父が、会いたいと……?」

「本邸に、招かれている。お前の意志次第でいい」

 澪人の言葉に、花怜は目を伏せた。

 ――父に会うことは、怖い。
 けれど、それでも避けてはいけない。

 “逃げない”と決めたあの日の自分を、裏切りたくなかった。

 

 そして、再会の日。

 藤見侯爵は、老いていた。

 かつて厳格だった父の目は、どこか憔悴していた。

「……あのとき、わたしはおまえを守れなかった」

 

 それは、侯爵の生涯で初めて発せられた“謝罪”の言葉だった。

 花怜は、返せなかった。
 涙が喉を塞ぎ、何も言葉にできなかった。

 

 父と向き合った帰り道、花怜は澪人の屋敷に戻った。

 そして、夜。

 静かな月明かりのもと、澪人が花怜の髪にそっと触れた。

「……疲れただろう。お前の覚悟、立派だった」

「わたくし、怖かった。
 でも、わたくしの人生を生きたいと思ったんです。
 あなたに会って……そう思えるようになったから」

 

 澪人の腕が、ゆっくりと彼女の肩を引き寄せた。

 拒む理由は、もうなかった。

 

 静かな夜風の中。
 花怜の頬に、澪人の指先が触れる。

 そして――彼は、花怜の唇に、自分のそれを重ねた。

 

 それはとても、優しくて、泣きたくなるようなキスだった。

 ただ熱を奪うだけの口づけではない。
 花怜という“存在”を受け止め、愛おしんで、確かめるようなキス。

 

 身体の奥から、涙が込み上げる。

「……どうして、こんなに優しいのですか」

「お前がずっと、誰にも優しくされずに生きてきたから。
 だからせめて、俺が。お前に、優しくしたい」

 

 言葉よりも、指先よりも、唇よりも。
 その声音に、心の一番深い場所が震えた。

 

 ――愛されていいのだ、と。

 誰かに、こんなにも真っ直ぐに望まれていいのだ、と。

 

「わたくし、あなたに愛されることを……自分自身が、許せるようになってきました」

 

 その言葉に、澪人の腕が、少しだけ強く彼女を抱き締めた。

 

 ふたりの距離は、もう誰にも壊せない。
 そして花怜は、ようやく自分自身を抱き締めることができた。