花怜が、再び社交界に姿を現した。
薄紅の振袖に、控えめな白金の刺繍。
以前のような華美な装いではないが、それでも彼女が歩くだけで、人々の目が自然と集まった。
「まさか……あの“悪女”が戻ってくるとはね」
「もう失脚したと思っていたのに」
「怖いもの見たさ、というやつ?」
ささやきが飛び交う。
好奇の視線と嘲りが混ざる空気の中を、花怜は凛と歩いた。
背筋を伸ばし、視線は決して伏せず。
かつてなら逃げ出していただろうその場所に、彼女は今、自らの足で立っていた。
その場には、当然、紗耶もいた。
水色のドレスに身を包んだ“社交界の天使”。
その無垢な笑顔の下には、誰にも見せない毒が潜んでいる。
「お姉さま、お久しぶりです。あら……今日のお召し物、とても落ち着いていらして」
「あなたも変わらず、皆に囲まれていらっしゃるのね」
「ええ、ありがたいことに。……でも、わたくし、本当は人を傷つけたり、悪く思われたりするのがとっても怖いんですの。お姉さまみたいには、なりたくないわ」
微笑とともに刺してくる言葉。
それが紗耶の武器だった。
花怜は唇を噛む。
過去の自分が、まさにそうやって潰されてきたことを思い出す。
けれど今は、逃げない。
「そうね。貴女には似合わないでしょう。
“誰かの悪意”という役は、もうわたくしが引き受けたものだから」
紗耶の瞳が一瞬だけ揺れる。
それはまるで、自分の演技が初めて崩されたことへの驚き。
「……ふふっ。やっぱり、お姉さまはこわいわ」
微笑は続くが、その奥にある冷ややかさは、澪人の目には隠せなかった。
彼は少し離れた場所で花怜を見守っていた。
肩を張り、言葉を選びながら戦うその姿が、たまらなく愛おしかった。
この女は、いま確かに前へ進んでいる。
けれど。
その姿を見て、無性に、腹の奥がざわついた。
花怜が他人にどう思われようと、立ち直ろうとするのは良い。
だが――あの“妹”だけには、もう二度と傷つけさせたくない。
花怜が会場を抜けたのは、それからしばらく経った後のことだった。
人気のない中庭に出たところで、澪人が静かに声をかけた。
「よく耐えたな」
「……怖かった。でも、あの場を逃げたら、またあの頃に戻ってしまいそうで」
「お前はもう、あの頃の花怜じゃない」
そう言って近づいた澪人の声が、ふと低くなる。
「それなのに……どうして、あんな目で俺以外の男に微笑む」
――え?
花怜は、息を呑んだ。
いまの言葉は、嫉妬……?
「わたくし、誰にも微笑んでなんて……」
「してた。見た」
距離が近い。
指先が、髪に触れそうなほど。
そのまま額に触れられそうな、吐息が重なる距離。
「……俺には、微笑んでくれないのにな」
その声音に、胸が焼けつく。
彼の目は真っ直ぐに花怜を捉え、すこし寂しげに細められていた。
こんな男だっただろうか――
静かで理知的な彼が、こんなにも脆く、求めるような目をするなんて。
「……わたくし、怖いのです。あなたのような人に、微笑まれることが」
「なぜ」
「あなたに笑いかけてしまったら、もう、他の誰にも向けられなくなる気がするから」
沈黙。
それは、長く張り詰めた糸のような間。
そして次の瞬間、澪人の手が、彼女の頬に触れた。
冷たくも熱くもない、ただとても静かな指。
それでも――
そこには、あまりにもたくさんの想いが詰まっていた。
「……そんな顔をされると、キスしたくなる」
耳元で囁かれた言葉に、花怜の体がピクリと震えた。
でも、目を逸らさない。
むしろ、自分から一歩、寄った。
「……しても、いいのですか?」
澪人の瞳が、ぎらりと揺れる。
けれど次の瞬間、彼はふっと顔を逸らした。
「今はまだ、我慢する」
「……なぜ」
「お前に“本当に”愛してもらえる日まで、待つ。
ただ奪うだけのキスなら、もう二度としたくないから」
花怜の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
この人は、どこまでも誠実なのだ。
欲望に流されず、花怜の心ごと、丸ごと欲している。
だからこそ、焦れるほど、愛しい。



