澪人は、花怜の背を見ていた。

 白く繊細な指先、慎ましやかな所作、
 それでいてどこか、常に心を張り詰めているような――
 そんな女性だった。

 いや、ただの「令嬢」ではない。

 彼女は、自らの“罪”と“弱さ”を真正面から見つめている。

 それは、誰よりも強い証だ。

 けれどその強さは、ときに彼女自身を殺す。

 

 「……何度も思ったんだ」

 独り言のように、澪人は呟く。

 「この女が“ただ甘える”ことを覚えたら、きっと……手放せなくなる」

 

 花怜はまだ気づいていないのだろう。

 人に頼ることを、怯えるように避けている。
 それがどれほど、見ていてもどかしいか。

 

 澪人は彼女の手を取るとき、いつも呼吸を整える。

 それは手当のための触れ合いであり、必要最低限の行為であるはずなのに――
 指先がかすかに震えるのを、彼は誤魔化せなかった。

 彼女の体温が、心の奥まで染み込んでくるようで。
 そしてそれを、ひどく欲している自分がいた。

 

 ――焦らすように、無自覚で、けれど真っ直ぐに。
 まったく、この女はどうしてこうも人の心を乱すのか。

 

 澪人が台所の戸を開けると、湯気とともに花怜の香が鼻先をくすぐった。

「お前、また無理して料理を?」

「……はい。朝餉の支度をしておかないとと思いまして」

「誰のためにだ?」

「……あなたと、わたしの」

 

 小さく、けれど確かな言葉に、澪人は不意を突かれた。

 今まで花怜の言葉にはどこか「贖罪」の色があった。

 だが今は違う。

 確かに彼女は“共に生きようとしている”。

 

 それだけのことが、澪人の胸を苦しくさせた。

 

 それほどまでに、彼は彼女に――惹かれていた。

 

「……余計なことをすると、また指を切るぞ」

「ええ、でも。今朝は、痛くないんです。不思議と」

 そう言って微笑む彼女の横顔に、息を呑んだ。

 ああ、危うい。
 この女の笑顔が、こんなにも眩しいとは。

 

 その笑みに、澪人は思わず手を伸ばしかけて、指を止めた。

 

 ――駄目だ。今はまだ。

 その一線を越えれば、きっと彼女は“戻れなくなる”。

 彼女が自らの足で立とうとし始めたばかりの今、男の情などで惑わせてはいけない。

 

 だが、その夜。

 予期せぬ“再会”が訪れる。

 

 翌日。都からの使者が、澪人の屋敷を訪れた。

 彼らは花怜の滞在を“確認”しに来たのだった。

「ご令嬢がここに身を隠していると、都で噂が立っております。
 そろそろお戻りいただかねば、周囲が騒がしくなりましょう」

 

 それは、警告だった。

 噂――いや、きっと誰かが「焚きつけた」のだ。

 

 そしてその日の午後。

 屋敷の門に姿を現したのは、白無垢のような衣を纏った、ひとりの美しい少女。

 ――藤見紗耶。

 

「お姉さま……お久しぶりです」

 その声に、花怜の背が震えた。

「どうして、あなたがここに……」

 

 紗耶の目は、穏やかな微笑をたたえていた。
 けれどその奥に潜むものを、澪人は見逃さなかった。

 ――静かなる“勝者の自信”。

 自分は、赦された者。
 そして、貶められた側。
 何もかもを手にした妹の、澄んだ瞳の奥に、それはあった。

 

 「お姉さま。戻ってきてくださいませんか?」

 

 その申し出が、罠であると分かっていながら、花怜の目は揺れた。

 “家”に戻れるかもしれない。

 “家族”に赦されるかもしれない。

 

 だがそのとき、澪人が一歩前に出た。

「花怜は、まだ帰るべき時ではない。
 過去の清算は、誰かの都合ではなく、自らの選択によって成されるべきだ」

 

 その言葉に、花怜ははっと息をのんだ。

 

 そして、紗耶の目がかすかに動いた。

 そのほんの一瞬に、澪人は気づいた。

 ――この妹は、計算している。
 人の感情を。世間の同情を。
 まるで“あの頃”のように、無垢を纏って。

 

 「お姉さま、まさか、男の人とご一緒に……?」

 

 その声は驚きを含んでいたが、わずかに含み笑いを含んでいた。

 

 花怜の顔が赤くなる。

「違います、そういうのでは……!」

 

 否定しながらも、言葉が引っかかった。

 本当に違うのか?
 澪人をどう思っているのか――自分でも、分からなくなっていた。

 

 だがそのとき、澪人が小さく笑って言った。

「……惜しいな。俺は、そうなってもいいと思っているが?」

 

 ――え?

 花怜は目を見開いた。

 澪人の目は冗談めいていたが、けれど確かに“本音”があった。

 

 ドクン、と心臓が跳ねた。

 どうしようもないほど――嬉しかった。

 けれどすぐに、花怜は顔を背ける。

「……そういうの、今は困ります」

 けれど、声はほんの少し震えていた。

 

 澪人は、それ以上は何も言わなかった。
 ただ、微笑んだだけだった。

 けれど、彼の胸の内で、確かな想いが芽を張っていた。

 彼女を守りたい。
 彼女に手を伸ばされたい。
 そして、彼女の選ぶ未来に、己がいたい――。