朝が来た。
 それは、ただ空が明るくなるというだけの現象だった。

 かつての花怜にとって、朝は舞台の幕が上がるような感覚だった。
 家令が揃えた着物に袖を通し、女官たちが髪を結い、下座に控えた侍女が茶を差し出す――それが彼女の日常だった。

 だが今は、ただ薄い布団の中で、息を殺すように静かに目を開けるだけ。

 誰も、起こしには来ない。
 誰も、朝の挨拶などしない。
 むしろ、誰かに「生きている」と気づかれぬままでいたかった。

 身じろぎするたびに、肩や背中が軋んだ。
 固い板張りの床が、まるで自分の過去の罪を押し返してくるようだった。

 ――私は、悪女だったのでしょうか。

 そんな問いが、ふいに心に浮かぶ。

 誰かに言われたわけではない。
 けれど、まるで自分の中にもう一人の“声”があるかのように、何度も何度も同じ疑問が頭の中で繰り返された。

 

 「あなたって、怖いわよね」と笑った紗耶の顔。

 「お姉さまのその口のきき方、まるで他人を見下しているようです」と涙ぐんだ女中の言葉。

 「これでは婚約は続けられません」と告げた典孝の冷たい横顔。

 

 すべてが、花怜の心に深く刻まれていた。

 それなのに、花怜は自分の“過ち”を明確に語ることができなかった。

 ――わたくしは、本当に悪だったの?

 それとも、「悪」と定義されたから、皆がそれに倣っただけ?

 ……もしわたくしが妹のように、最初から“可愛らしい立場”であったなら?

 誰もが味方になってくれていたのでは?

 

 花怜は布団を押しのけ、身を起こす。
 肌寒い空気が肌を刺し、寝間着の袖が揺れた。
 鏡台のない部屋では、自分の顔すら確認できない。
 けれど、今の自分の表情など、知りたくもなかった。

 

 屋敷の裏手にある炊事場へ向かう途中、雑草の生い茂った中庭に足を取られた。
 かつては丁寧に整えられていたであろう苔むす石畳も、今では誰も気に留めていない。

 ――まるで、わたくしみたいね。

 そんなことをふと思い、苦く笑った。

 そして、それすらすぐに消えた。

 笑うという行為が、あまりに久しぶりで、どの筋肉を使えばよかったのかさえ忘れてしまっていたから。

 

 炊事場に入ると、昨日の澪人の言葉が頭をよぎった。

 「お前の涙は、泣く価値があると俺は思う」

 花怜は、いまだにその言葉をどう受け取ればよいのか分からなかった。

 “泣く価値がある”――それは、本当にわたくしに向けられた言葉だったのだろうか。

 優しさを信じて、裏切られた記憶ばかりが脳裏をかすめる。

 もう、誰の言葉も信じてはいけない。
 そんなふうに思っていたのに――あの時だけは、澪人の声が、胸にすとんと落ちた。

 あの人だけは、わたくしを“正義の被害者”にも、“絶対的な加害者”にも仕立て上げようとしなかった。

 

 花怜は、ぼろぼろの芋を手に取り、包丁を握った。
 震える指先。冷たい芋の肌が、かつての白くなめらかな掌には馴染まない。

 ――きれいなものを持っていたころは、どうしてあんなにも奢ってしまったのだろう。

 いや、違う。奢ったのではない。
 必死にしがみついていたのだ。

 “藤見家の長女”であることを。

 “優秀であれ”と命じられた存在であることを。

 “正しくあらねば、意味がない”と――そう信じ込まされた娘であったことを。

 

「私は、ずっと、愛されたかっただけなの」

 

 その一言が喉から漏れたとき、指先に鋭い痛みが走った。
 包丁の刃が、皮だけでなく、自分の皮膚までも切っていた。

「……」

 血がじんわりと滲む。
 痛みは一瞬で、その後に残ったのは、むしろ懐かしさに似た“感覚”だった。

 そうだ――これが、わたくし。
 痛みを知ることで、ようやく“生きている”と実感できる、自分。

 きっとこれまでも、そうだった。

 父の冷たい目。

 妹の純粋な声。

 他人の嘲りと軽蔑。

 それらを感じることで、ようやく“自分がまだ存在している”と確認していたのだ。

 ――けれど、それはもう終わりにしなければ。

 自分が「誰かに罰せられたい」と望んでいたことにも、今日、ようやく気づいた。

 だからこそ、自らも妹を罰してしまった。
 笑顔を、泣かせてやろうとした。
 清廉を、汚してやろうとした。

 それが、自分がした“罪”。

 

 「……気づくのが、遅すぎたわね」

 

 手にした布で傷口を拭った。

 その瞬間、背後で声がした。

「それでも気づけたのなら、何よりだ」

 

 花怜ははっとして振り向いた。

 そこには、いつものように静かに立つ男の姿――烏丸澪人がいた。

 

 彼は花怜の傷ついた指を取ると、丁寧に自分の懐から取り出した包帯で巻いた。

 何も言わず、ただその手当てだけに集中している姿に、花怜の胸がじんと熱くなる。

「……どうして、そこまでしてくれるの?」

「罪を償う者を見捨てるのは、正義じゃない」

 彼はそう答えた。

 それは、花怜がずっと聞きたかった言葉だった。

 誰かの“正義”によって裁かれた自分。

 けれど、裁いた側が必ずしも“正義”だったわけではない。

 今ようやく――本当の意味で、自分の物語が始まったのだと、そう思えた。

 包帯を巻かれた指先を、花怜はじっと見つめていた。
 白い布に滲む赤はもう止まりつつあるが、内心に残る疼きは、血が止まってもなお続いている。

「……それでも、わたくしのしたことは許されないことだったのです」
 花怜は絞り出すように言った。

 澪人は、すぐには返事をしなかった。

 ただ、少し離れた台の上にあった湯飲みに水を注ぎ、静かに彼女の前へ置く。

 そして、自らも一つ腰を下ろし、穏やかな声でこう言った。

「許されたいのか?」

 その問いは、あまりに真っ直ぐだった。

 だからこそ、花怜は答えに詰まった。

 “許されたい”――その思いは確かにある。
 けれど、それは誰に?
 父に?妹に?世間に?
 それとも――自分自身に?

「……わかりません」
 小さく息を吸って、花怜は口を開いた。

「わたくし、自分のしたことを言い訳したくはありません。
 けれど……あの頃、わたくしはずっと、どこにも居場所がなかった。
 誰の胸にも飛び込めなかった。
 だから、自分の立場だけを守ろうとしたんです」

 澪人は黙って、うなずいた。

 言葉を遮ることもせず、批判することもなく、ただ“聴いて”くれている。
 それが、どれほど花怜の心をほどいてくれるか、自分でも驚くほどだった。

「妹がわたくしよりも可愛がられていたのが、つらかった。
 優しくて、素直で、守ってあげたくなるような……そんな子だった。
 ……そんな妹に嫉妬してしまう自分が、誰よりも醜く思えたのです」

 そのとき、思い出したように花怜は小さく笑った。

「ええ、わたくし、“いいお姉さま”になろうとしていた時期もあったんですよ。
 ……でも、妹が泣くたびに、誰かが駆け寄るでしょう?
 “お姉さま、何をしたのですか”って。
 ……やがて、それが怖くなって。
 怖くて、悔しくて、歯を食いしばるくらいに、彼女の存在が――痛かった」

 澪人はそっと湯飲みを差し出した。

「飲め。声を出して話すと、喉が乾くだろう」

「……ありがとう、ございます」

 花怜は手を添え、静かに水を口に含む。
 喉を滑る冷たさが、感情の波を少しだけ落ち着かせた。

 それでも、心は震えていた。

 自分の中の“悪意”を言葉にすることが、こんなにも怖いとは思わなかった。

 けれど今、澪人の前でだけは、それを吐き出してもいいと思えた。

「……妹に向けた感情が、どんどん醜くなっていくのが分かったんです。
 だけど止められなかった。
 そうやって、“お姉さまは怖い”と言われるたびに、
 “ならそうなってやる”って……。
 本当は――そんなふうに、見られたくなかったのに」

 

 沈黙が落ちた。
 けれど、ただの“空白”ではなかった。

 それは、誰かが傷をさらけ出したあとに訪れる、静かで優しい時間だった。

 

 しばらくして、澪人が口を開いた。

「人間は、誰しも心に醜さを持つ。
 それを見つめるのは、誰にとっても痛いことだ」

 花怜は小さくうなずいた。

「……あなたは、わたくしを否定しないのですね」

「否定すれば、お前が自分の心を見つめようとした勇気ごと否定することになるからな」

 

 その言葉に、ふいに涙が込み上げてきた。

 それは、誰かに責められたからではない。
 誰かに見下されたからでもない。

 ただ、“そのままの自分”を肯定された――
 それだけのことで、花怜の胸は、どうしようもないほど熱くなった。

 

 きっと、欲しかったのはこれだった。

 正義を振りかざす者でも、綺麗事を並べる者でもなく、
 ただ、隣に立ってくれる誰か。

 

 「……わたくし、自分の過去を背負って生きていくことを、決めました。
 罰されたいとか、贖いたいとか……それもあります。
 でも一番は――もう、わたくしみたいな人間を二度と生みたくないんです」

 

 澪人は、その言葉に静かに頷いた。

「ならば、まずは自分を赦すことだ。
 それができれば、お前は誰よりも強くなれる」

 

 その夜、花怜は初めて、眠る前に少しだけ窓を開けた。

 冷たい夜風が頬を撫でる。
 遠くで虫の声が聞こえ、空には霞がかかっていた。

 

 闇に慣れた目には、ほんの少しだけ、空が明るく見えた。

 

 ――わたくしにも、もう一度、やり直せるのだろうか。

 

 そんな問いに、まだ答えはなかった。
 けれど、初めて“希望”と呼べる感情が、胸の奥に灯っていた。