初夏の風が、御簾の向こうに揺れる紫陽花を撫でていた。
風雅な庭の景色は、まるで絵巻の一場面のようだったが、その座敷に座す令嬢の心は、静かな水面とはほど遠かった。
「……あら。お姉さま、また人を叱っていらしたの?」
その声は、まるで鈴を転がしたように柔らかく――だが、花怜の耳には棘のように刺さった。
「紗耶。何の話をしているの?」
藤見家の本家。五百年続く貴族の家柄において、長女として生を受けた藤見花怜(ふじみ かれん)は、誰よりも厳格に育てられた。
すべてにおいて一流でなければならぬ、と。
容姿も、教養も、礼儀も。
そして――心さえも。
けれど。
「やはりお姉さまって、怖いわよね。わたくし、また女中さんから相談を受けたの。泣いていて……」
藤見紗耶(さや)。
花怜の義妹。父の再婚によって家に迎え入れられた、血の繋がらぬ“天使”と称される少女。
そのあどけなさと、儚げな風情。
そしてどこまでも他者を思いやるような立ち振る舞いで、彼女は瞬く間に社交界の寵児となった。
――すべてが、花怜とは対照的だった。
「言いたいことがあるなら、はっきり仰いなさい。回りくどい言い方は好きではないわ」
「まあ……。お姉さまは昔から、そうやって厳しくしてくれるものね。でも、それが人を傷つけているとしたら?」
まただ。
また“わたしを諫めるヒロイン”の構図。
まるで台本でもあるかのように、紗耶は常に花怜の「高慢さ」を諫め、傍らの者たちは皆、拍手喝采を送る。
花怜の言葉はいつも「冷たく」「きつく」「人を見下している」と解釈された。
本当は、そんなつもりではないのに。
「……紗耶。あなた、わたくしのことを――嫌っているのでしょう?」
静かに問えば、紗耶は目を見開いた。
「まあ、お姉さま。どうしてそんな酷いことを……わたくしは、ただ心配で……」
そんな紗耶の“涙”を、花怜は幾度も見てきた。
そう、それが彼女の“武器”だった。
だが誰も信じてはくれない。
いつだって花怜が“悪”だった。
破滅は、あまりに呆気なく訪れた。
婚約者だった公家の若君・朝霞典孝(あさか すけたか)の元に届いた一通の密書。
――「藤見花怜は、妹を虐げ、密かに薬を盛っている」
告発は匿名で、証拠も乏しかった。
けれど、誰もが「やっぱり」と思ってしまうほど、花怜の悪評は出来上がっていた。
「……僕には、もう君を信じることはできない」
そう告げた典孝の瞳には、迷いはなかった。
社交界では囁かれた。
「令嬢としての品位に欠ける」「妹を妬んでいる」「かつての彼女はもっと穏やかだった」……。
どれも真実ではなかったが、
誰も「真実」を確かめようとはしなかった。
花怜は追放された。
藤見家からも、社交界からも。
それから、数ヶ月。
都を離れた花怜は、寂れた屋敷の炊事場で、芋を剥いていた。
指先には火傷の痕。
爪は砥石で割れ、唇は乾いてひび割れている。
「……あのとき、わたくしが、もう少し可愛げのある言い方をしていれば……」
そんなことばかりを考える夜。
「人のせいにしてはならぬ。
自分にも至らぬところがあったから、こんなことになったのだ」
そう言い聞かせて、また芋を剥いた。
自分は、悪女だったのだ。
そう納得することでしか、心を保てなかった。
だがその夜、背後から声がした。
「……手つきが悪いな。
皮だけで、身がほとんど無くなってるじゃないか」
振り向くと、そこにいたのは黒髪の男。
冷たい眼差しと、無骨な風体。
それでもどこか理知的で、凛としていた。
「誰……?」
「ここの屋敷の主から頼まれて様子を見に来ただけだ。俺の名は烏丸澪人。お前のことを、見ていた」
「……わたくしを?」
「ああ。ずっと見ていたよ――『悪女』じゃない、お前のことをな」
その言葉に、花怜の手から芋が落ちた。
花怜は肩を震わせた。
その言葉は、まるで冷たい冬の風の中でふいに差し込んだ暖かな日差しのようだった。
「お前は――『悪女』じゃない、か」
烏丸澪人はゆっくりと近づき、花怜の目を覗き込む。
そこには嘘も虚飾もなく、ただ静かな共感と、揺るがぬ覚悟が宿っていた。
「なぜ、わたくしを?」
問いかける声は震え、ほんの少しだけ嗚咽が混じった。
「長いこと、誰にも心の内を見せられなかっただろう。だが俺は見た。お前の涙も、怒りも、孤独も――」
言葉は静かであるが重い。
花怜は俯いた。いまさら何を語っても、過去は変わらない。
けれど、その男の前ならば、少しだけ素直になれる気がした。
「わたくしは……ただ、愛されたかっただけなのに」
その言葉を漏らした途端、体中の力が抜け、膝から崩れ落ちる。
澪人は慌てて手を伸ばし、彼女を抱き止めた。
「泣け。どれだけ泣いてもいい」
それは許しでもあり、励ましでもあった。
花怜は涙を堰き止めることなく、男の胸で泣きじゃくった。
夜が更けても、二人の間に言葉は必要なかった。
澪人は黙って花怜の髪を撫で、穏やかな温もりを伝える。
心の奥底に閉じ込めていた痛みが、少しずつ解けていくようだった。
そのとき、花怜の心に、ひとつの決意が生まれた。
「わたくしは、このまま滅びたくはない」
澪人は静かに頷いた。
「ならば俺がいる。お前が己を取り戻すその日まで、共に歩もう」
――こうして、悪役令嬢の再生譚は静かに幕を開けた。



