「……ああ、親子仲良しだねえ」
 
 かつんかつんと杖の音が響く。そのしわがれ声にあやめはぱっと顔を上げた。
 
「おばばさま、ご機嫌麗しゅう」
「はいどうも。あやめさま、あまりお父上を苛めなさるな。こんな成りでも親は親。己を軽んじることに繋がっては事さね」
「はい。ご忠告、ありがとうございます」
 
 しおらしく頭を下げるあやめだが、口元の笑みを隠しきれていない。
 老婆の杖先が床ではなく母親となずなを(はじ)いているのを見ているからだ。
 なずなは痛みに堪えるような呻き声を漏らして床に頭を擦り付けると、両親を促して下がろうとした。
 
 赤い花を手にしたあの夜から、あやめは実の両親よりこの老婆を頼りにしている。
 何も出来ないなずなに両親が手を伸ばすのを遮ったあの時から、老婆はことある事にあやめを持ち上げ、なずなを虐げた。
 
 偉大なるヨルの巫女様、尊ぶべき御方、あやめさまがいるから穢れが祓える、我々はあやめさまを蔑ろにしてはならない……
 
 影響力のある老婆がそう触れ回ることで、周囲の人間は皆それに倣う。
 ここを起点としてあやめはヨルの巫女として担ぎ上げられ、一歩外へ出るだけで周りが平伏す日々が始まったのだ。
 老婆は代々、ヨルの巫女に仕えている家系の者だという。本名は知らない。
 しかし、巫女や穢れについて何も知らぬあやめを導いてくれたことへの恩義はある。それになんと言っても、老婆はあやめにとびっきりの出会いを齎してくれたのだ。
 
「あやめさま、ご機嫌はいかがですか」
 
 涼やかな低音がそよ風のごとくその場を浚う。
 その声色を耳にするだけで、下賎の者と同じ空気を吸っている事実が薄められていくようだ。
 両親を先に下がらせ、とぼとぼと歩いていたなずながぴくりと反応する。ぼさぼさになった髪から覗く耳が赤く染まっているのを横目に、あやめは声をころりと高く跳ね上げ、その者の名を呼んだ。
 
「ココさま!」
 
 あやめに劣らず艶やかな黒髪がしなやかに風に遊ぶ。足音もなくその者はあやめ達の前に姿を現した。
 眠っているようにも見える細いまなじり。抜けるような白い肌。
 女人のような美しさに、確かな雄を感じさせる立派な体躯は人外の有り様に似ている。
 否、似ているのではない。彼は文字通り、人ではない。
 人間ならば耳のある位置には何も無く、漆黒の毛並みに包まれた耳はこめかみの上あたりから獣の形のものが生えている。
 そして腰からはしなやかな尾が筆のように優美な曲線を描いて、足元まで垂れ下がっている。
 
 美しい雄狐が人間の形を取っている。この都に蔓延る穢れを、災いを、厄災を封じる霊力を持つ狐。
 
 それがココと呼ばれる男だ。
 
 どういう字を当てるのか、あやめは知らない。初めて紹介された時、老婆は説明しなかったしあやめも尋ねる気はなかった。
 狐のなりをしているのだから「狐々(ここ)」かもしれない。そうぼんやりとした推測をするだけである。
 あの運命の日に、老婆から言われた言葉。
 
「ココさまに選ばれた」
 
 ヨルの巫女と共にこの地を救う役割を背負う、類まれなる美しき霊狐。
 この男があやめを選んだのだ。
 あの夜、なずなから奪い取った赤い花はこの男からの祝福だった。
 ただびととは違う、(たえ)なる魅力を持つ男。彼が選ぶただ一人――それが己であるという事実。
 それはあやめをひどく陶酔させた。
 
「ココさま、今日はどうなさったのですか?」
 
 あやめはわざとココに身を寄せる。年頃の娘にしては蓮っ葉なふるまいだと苦言を呈される距離だが、ここではあやめに意見するものはいない。
 父親が苦い顔をするだろうがどうでも良い。あやめはなずなの顔を見ていた。
 
 ひどく傷ついた顔をしている。
 恋破れた女の顔だ。
 
 それだけであやめは胸がすっとする。
 しかし与えられたおもちゃは遊ばねば損だ。なずなの反応がもっと見たい。
 
「なずな、ココさまがいらしているのです。中座は許されませんよ」
「っは……はい」
 
 そうあやめが窘めると、老婆が杖で押さえつけてなずなを床に落とすように座らせた。あやめを愉しませることに関して、老婆は本当に行き届いている。
 
(馬鹿な子。身の程も知らずココさまに懸想して)
 
「今日も都の祓いをされたと聞きました。お加減は如何でしょう」
 
 ココはあやめを邪険にすることなく、むしろその肩を抱くように身を寄せる。その仕草に満足しつつ、あやめは回された腕に手を添えた。
 
「ご心配くださるのね。嬉しゅうございますわ。でも大丈夫。わたし、こう見えて強うございますのよ」
「それは重畳。しかし過信は禁物です。あなたは傷ついてはならぬ娘。その身は何よりも大切になさらねばなりません」
「まあ……ココさまったら、お優しい。そして頼もしい御方」
 
 あやめはココの胸板に頭を押し付けるようにして甘える。豊かな黒髪が男の腕に絡まってはしっとりと肌を滑る。
 
「あなたのためならいくらでも頼もしくなりましょうとも。何せあなたはヨルの巫女」
 
(そうよ、この美しいひとはわたしのもの。ココ様はわたしを選ばれたの)
 
 男の冷たい指があやめの頬を撫でる。
 顔を上げてねだるように首に腕を回せば、ココは戸惑うことなくそれに応えた。
 やはり冷たい唇があやめのふっくらした唇を塞ぐ。その感触よりもあやめの心を甘美にときめかせていたのは、横目で見下ろしたなずなの震える肩と、隠しきれない嗚咽だった。