あやめが花を奪ったあの夜から、十年が経った。
薄曇りと呼ぶには色を濃くした雲の下、太陽を引きずり下ろした輝きを放つ輿が一基、都の大路を進んで行く。
「ヨルの巫女さまだ!」
「ヨルの巫女さまがいらっしゃったぞ!」
雑踏が歓喜に湧く。
しゃらんと響く心地よい鈴の音を耳にした途端、民衆が一斉に頭を垂れた。
「ごきげんよう」
四方に狐を模した飾りが特徴的な輿から艶やかな声がした。歩みを止めた担ぎ手達の前に、慌てた様子で駆け寄ってくる侍女らしき娘がいる。
それはなずなだった。豪奢な輿と比べては見劣りがするものの、それなりに整った見なりをしている。
なずなは幕を少しだけ持ち上げて中にいる人物と会話を交わす。その後、頷いては控えている担ぎ手達に目配せをした。
「ヨルの巫女さまが、祓いをされます」
おおっとどよめきが上がる。その間にゆっくりと降ろされた輿から美しい娘が顔をのぞかせた。
あやめである。
しっとりとした重たい黒髪は豪奢な髪留めで結い上げられて、満天の星空もかくやというほどの光を放っている。
たおやかな色白のかんばせを扇で隠した彼女だが、垣間見える目元に引かれた朱がなんともいえず艶めかしい。
はらりと額に下がる髪のひとすじでさえもが目を惹いて、居合わせた者から言葉を奪うようだった。
「ヨルの巫女さま、お願いします。倅の背中に妙なアザが」
「何を! おれのほうが先だ。ヨルの巫女さま、どうかおれの足を見てください。穢れにあたったらしくてしくしく痛むんだ」
口火を切った男たちを皮切りに、押し合いへし合い、群衆が口々に己や身内の体の不調を主張しては引きも切らない。
「あ、あの! みなさん落ち着いて……! ヨルの巫女さまのご加護には限りがありますので……っきゃあ!」
輿へとなだれ込まんばかりの勢いを止めようとしたなずなだが、か細い声など彼らの耳には入らぬようだ。
案の定、数の勢いに負けて押し潰されたなずなを心配したり助け起こそうとするものなど誰もいなかった。せっかく侍女にふさわしく整えられた着物は踏まれたり引きずられたりして、見るも無残な有様である。
「なァに言ってんだ! ヨルの巫女さまは何でも治しちまえる御方たぞ。適当なこと言いやがって」
「そんなことよりヨルの巫女さま! どうかこちらに……!」
無数の手があやめに伸ばされる。
無数の目があやめだけを見ている。
無数の思いがあやめだけに向けられる。
(もっと、もっと。私を見なさい。私だけを崇めなさい! 私に与えられるものなら全部欲しい!)
扇の下であやめは舌なめずりをする。
そしてゆっくりと立ち上がると、右手でとある女を――女が抱えている赤ん坊を指さした。
「その子、苦しそうね」
わっと女の周りの人間が散る。自分のために開けられた道を悠々と歩き、呆然と口を開けている女の前に立った。
「あ……ヨルの巫女、さま」
かたかたと震えながらも赤ん坊を抱きしめて離さない母親に、あやめは妙な満足感と苛立ちで胸がいっぱいになる。
母親の腕の中で赤ん坊は浅い呼吸を繰り返していた。泣く元気もないようだ。
「かわいそうに」
どこか他人事のように虚ろな目で言い放ったあやめは、人さし指を赤ん坊の額に向ける。発熱でもしているのか薄い前髪が額に張りついて見苦しい。
毒々しい赤色の花びらが幼い額から滲みでて、あやめの爪を彩ったかと思うと消え去った。
「ふえ……?」
赤ん坊の汗が引く。呼吸が深くなる。
赤ん坊は何かに許されたようにぽっかりと瞳を開けた。
「ああ……! 良かった! もう苦しくない? 大丈夫よ」
はらはらと泣き崩れながら赤ん坊をあやす母親の周りに人が戻ってくる。おっかなびっくり赤ん坊を覗き込んだり母親の背を揺らして元気づけたりしているようだが、その光景はあやめの興味を引くものではなかった。
(治ったんだからもういいじゃない。それよりお礼のひとつも言えないの?)
苛立ちながら髪を揺らす。しゃらんと髪飾りが鳴ったことで女はあやめに視線を引き戻された。
「あ……ありがとうございます! ヨルの巫女さまが選んでくださらなければ、坊やは、坊やは……!」
地面に頭を擦り付けんばかりに頭を下げる女をあやめは制した。
「お顔を見せて」
「あ……」
涙でぐしゃぐしゃになった女の顔を見つめる。鼻の頭に泥がついていて汚らしい。ぼさぼさの髪は見苦しい。粗末な着物など見るに堪えない。
けれど――この女は今、あやめを見ている。あやめだけに意識を向けている。その一点だけは褒めてやってもいい。
満足したあやめはもう女などどうでも良かった。彼女の意識は耳に移る。
「さすがヨルの巫女さまはお優しい」
「真っ先に赤ん坊を救おうとしてくださるとは慈悲深きこと」
「やはりただびとではないのだなあ」
「ココさまに選ばれる御方はやはり違う」
口々にあやめを誉めそやす。その言葉の羅列はどんな濁声だろうと甘美な響きであやめの耳をくすぐる。
ああ、なんて気持ちいいんだろう!
鼻歌でも歌いそうなほどに気分がいい。祓いは体力を消耗するため一日に一度だけと決めているが、もう一度くらいなら祓いを授けても良かった。
(だって大盤振る舞いしたらこいつらは絶対図に乗るもの。どこまでいっても浅ましいんだから。わたしに救ってもらえる有り難さを身に染みてわからせないとね)
薄曇りと呼ぶには色を濃くした雲の下、太陽を引きずり下ろした輝きを放つ輿が一基、都の大路を進んで行く。
「ヨルの巫女さまだ!」
「ヨルの巫女さまがいらっしゃったぞ!」
雑踏が歓喜に湧く。
しゃらんと響く心地よい鈴の音を耳にした途端、民衆が一斉に頭を垂れた。
「ごきげんよう」
四方に狐を模した飾りが特徴的な輿から艶やかな声がした。歩みを止めた担ぎ手達の前に、慌てた様子で駆け寄ってくる侍女らしき娘がいる。
それはなずなだった。豪奢な輿と比べては見劣りがするものの、それなりに整った見なりをしている。
なずなは幕を少しだけ持ち上げて中にいる人物と会話を交わす。その後、頷いては控えている担ぎ手達に目配せをした。
「ヨルの巫女さまが、祓いをされます」
おおっとどよめきが上がる。その間にゆっくりと降ろされた輿から美しい娘が顔をのぞかせた。
あやめである。
しっとりとした重たい黒髪は豪奢な髪留めで結い上げられて、満天の星空もかくやというほどの光を放っている。
たおやかな色白のかんばせを扇で隠した彼女だが、垣間見える目元に引かれた朱がなんともいえず艶めかしい。
はらりと額に下がる髪のひとすじでさえもが目を惹いて、居合わせた者から言葉を奪うようだった。
「ヨルの巫女さま、お願いします。倅の背中に妙なアザが」
「何を! おれのほうが先だ。ヨルの巫女さま、どうかおれの足を見てください。穢れにあたったらしくてしくしく痛むんだ」
口火を切った男たちを皮切りに、押し合いへし合い、群衆が口々に己や身内の体の不調を主張しては引きも切らない。
「あ、あの! みなさん落ち着いて……! ヨルの巫女さまのご加護には限りがありますので……っきゃあ!」
輿へとなだれ込まんばかりの勢いを止めようとしたなずなだが、か細い声など彼らの耳には入らぬようだ。
案の定、数の勢いに負けて押し潰されたなずなを心配したり助け起こそうとするものなど誰もいなかった。せっかく侍女にふさわしく整えられた着物は踏まれたり引きずられたりして、見るも無残な有様である。
「なァに言ってんだ! ヨルの巫女さまは何でも治しちまえる御方たぞ。適当なこと言いやがって」
「そんなことよりヨルの巫女さま! どうかこちらに……!」
無数の手があやめに伸ばされる。
無数の目があやめだけを見ている。
無数の思いがあやめだけに向けられる。
(もっと、もっと。私を見なさい。私だけを崇めなさい! 私に与えられるものなら全部欲しい!)
扇の下であやめは舌なめずりをする。
そしてゆっくりと立ち上がると、右手でとある女を――女が抱えている赤ん坊を指さした。
「その子、苦しそうね」
わっと女の周りの人間が散る。自分のために開けられた道を悠々と歩き、呆然と口を開けている女の前に立った。
「あ……ヨルの巫女、さま」
かたかたと震えながらも赤ん坊を抱きしめて離さない母親に、あやめは妙な満足感と苛立ちで胸がいっぱいになる。
母親の腕の中で赤ん坊は浅い呼吸を繰り返していた。泣く元気もないようだ。
「かわいそうに」
どこか他人事のように虚ろな目で言い放ったあやめは、人さし指を赤ん坊の額に向ける。発熱でもしているのか薄い前髪が額に張りついて見苦しい。
毒々しい赤色の花びらが幼い額から滲みでて、あやめの爪を彩ったかと思うと消え去った。
「ふえ……?」
赤ん坊の汗が引く。呼吸が深くなる。
赤ん坊は何かに許されたようにぽっかりと瞳を開けた。
「ああ……! 良かった! もう苦しくない? 大丈夫よ」
はらはらと泣き崩れながら赤ん坊をあやす母親の周りに人が戻ってくる。おっかなびっくり赤ん坊を覗き込んだり母親の背を揺らして元気づけたりしているようだが、その光景はあやめの興味を引くものではなかった。
(治ったんだからもういいじゃない。それよりお礼のひとつも言えないの?)
苛立ちながら髪を揺らす。しゃらんと髪飾りが鳴ったことで女はあやめに視線を引き戻された。
「あ……ありがとうございます! ヨルの巫女さまが選んでくださらなければ、坊やは、坊やは……!」
地面に頭を擦り付けんばかりに頭を下げる女をあやめは制した。
「お顔を見せて」
「あ……」
涙でぐしゃぐしゃになった女の顔を見つめる。鼻の頭に泥がついていて汚らしい。ぼさぼさの髪は見苦しい。粗末な着物など見るに堪えない。
けれど――この女は今、あやめを見ている。あやめだけに意識を向けている。その一点だけは褒めてやってもいい。
満足したあやめはもう女などどうでも良かった。彼女の意識は耳に移る。
「さすがヨルの巫女さまはお優しい」
「真っ先に赤ん坊を救おうとしてくださるとは慈悲深きこと」
「やはりただびとではないのだなあ」
「ココさまに選ばれる御方はやはり違う」
口々にあやめを誉めそやす。その言葉の羅列はどんな濁声だろうと甘美な響きであやめの耳をくすぐる。
ああ、なんて気持ちいいんだろう!
鼻歌でも歌いそうなほどに気分がいい。祓いは体力を消耗するため一日に一度だけと決めているが、もう一度くらいなら祓いを授けても良かった。
(だって大盤振る舞いしたらこいつらは絶対図に乗るもの。どこまでいっても浅ましいんだから。わたしに救ってもらえる有り難さを身に染みてわからせないとね)



