そんななずなをうっとりと見つめていた少年たちがいた。
「巫女様、おきれいだなあ」
「この間、弟が転んだ時に助け起こしてくれて、布を当ててくださったんだ」
「にーちゃんたらその時、巫女様からいい匂いするってずっと言ってたんだよ」
「ばっかお前、内緒にしとけって言ったろ!」
年頃の少年らしく色気づいた会話が交わされるが、それを後ろから背中を小突いて止めたのは彼らの姉貴分である。
「こーらあんたたち、鼻の下伸ばしてないの!」
「うげ。出たな」
鼻の頭に皺を寄せた弟分たちをにらみつけた彼女だが、得意げに人差し指を左右に振った。
「そんな目で見てたって巫女さまにはお相手がいらっしゃるのよ。分不相応な夢を見るのは止めて手を動かしなさいっ」
「わかってるよー」
「萌しの巫女さまは豊穣のご加護を持つ天狐様のお嫁様になるんだろ?」
「そうよ。あっ、ほら! ちょうどいらしてる……!」
華やいだ声を上げる彼女に、自分のことは棚に上げてるじゃないかと白けつつも、彼らは揃って失礼のないよう居住まいを正した。
「なずな。熱心なのは結構だが、体を厭うことも忘れてくれるなよ」
陽の光がそのまま形となったような眩しい金色の毛並みが揺れる。なずなの上に袖でひさしを作るようにして囲いこんだその美丈夫は、狐ではなく人間の男だった。
「あ」
男はなずなが抱えていた柄杓や桶もまとめて片手で奪い去り、控えていた男に手渡す。手持ち無沙汰になったなずなは、頬を膨れさせて抗議した。
「もう! ウカ様の意地悪。わたしのお役目を取らないでっ」
「今日の分は済んだろう。水を遣りすぎても却って毒だ」
淡々と巫女をいなすその姿はかつてこの地で見かけた黒髪の雄狐とよく似ているが、巫女に向けるまなざしの甘さはまるで別物だ。
ウカと呼ばれたこの男は、かつてあやめからなずなを守っていた狐だ。あやめが穢れごと狐蠱によって消え失せたことで、豊穣の力を遺憾無く発揮できるようになった霊妙なる狐――天狐である。
とろけるような金色の瞳に、あやかしを超えた存在たる天狐に相応しい麗しさを纏ったかんばせ。そして溢れ出る気品と己の見初めた番に向ける尽きぬ愛情は、なずなにだけ注がれている。
「……もう、ウカ様ったら子どもっぽいんだから」
「ああそうだ。なずなのこととなれば子どもにでもなるさ。それとも愛しい妻を前に分別がつかぬ愚かな夫となじるかい?」
「そんなこと……ウカ様にするはず、ない、けれど」
途端に勝気を失くし、しどろもどろになるなずなの肩口に鼻を埋めたウカはふふと吐息だけで笑った。
「う、ウカ様、くすぐったい」
「なずな。植物に過ぎた水遣りは毒だが、いくら遣っても尽きぬ器ならここに在るぞ」
「……えっと、それは……」
なずなは助けを求めてきょろきょろと辺りを見渡す。
ことの成り行きを見守っていた野次馬たちは、これ大変と弁えたようにさっと背を向けてそれぞれの仕事に勤しみだした。
「おふたりとも、とってもお幸せそう」
「いいなあ。私もいつかあんな旦那様が……なーんてっ」
頬を染めてお喋りに花を咲かせる少女たちの後ろから、ぬっと影がさす。
「残念だが、当分次の巫女は現れんよ。その辺の男で妥協するんだね」
それはかの老婆だった。霊狐に仕える血筋を引く彼女のひと言は重く、現実を突きつけられた少女たちは目に見えて肩を落とす。
「そりゃあ、あんなに睦まじいんじゃそこに割って入れませんよ」
「あーあ、天狐様がもっとたくさんいらっしゃれば、私も……」
「萌しの巫女が加護を蒔けるのは穢れのない土地になったからさね。その前はどうしておった?」
「その前?」
少女たちは揃って首を傾げる。
「穢れは萌しの巫女様が消してくださったんでしょ?」
「え、確か違うひとがやったんじゃなかった?」
「そうなの? それならそのひとは何処に行ったの?」
「さあ……ま、今は萌しの巫女様がいらっしゃるから、それでいいんじゃない?」
「そうだね」
少女たちはとりとめのないお喋りを続けるべく、老婆にぺこりとお辞儀をして駆けて行った。
ひとり残された老婆の口元に、皺に紛れた笑みが浮かぶ。
「穢れと一体化したヨルの巫女は、穢れが消えれば共に人の記憶からも消えゆく。今代も例に漏れず、さ」
老婆は手近な石に腰掛けると、指で土に何かを描く。
「なあに、心配することはないさ。幾百年かそこらでまた土地は穢れだす。その頃にはまた誰かが、伝承の中からヨルの巫女を探し当てるだろうよ」
老婆が描いたのは、くるりと反った細長い花びらとぴんと張った髭を持つ曼珠沙華だ。
「おお、こんなものを描いては穢れを呼ぶかもしれないね。いけないいけない」
老婆は慌てて手のひらで絵を消す。
花の名残に懐かしむまなざしひとつを手向けにして、老婆はよいしょと腰を上げた。
穢れは去れども、失せるわけではない。
いつか必ず、憑るべき器に花が降る。
傍らの狐は腹を空かせて尾を揺らす。
ヨルは、満ちる時を待っている。
了
「巫女様、おきれいだなあ」
「この間、弟が転んだ時に助け起こしてくれて、布を当ててくださったんだ」
「にーちゃんたらその時、巫女様からいい匂いするってずっと言ってたんだよ」
「ばっかお前、内緒にしとけって言ったろ!」
年頃の少年らしく色気づいた会話が交わされるが、それを後ろから背中を小突いて止めたのは彼らの姉貴分である。
「こーらあんたたち、鼻の下伸ばしてないの!」
「うげ。出たな」
鼻の頭に皺を寄せた弟分たちをにらみつけた彼女だが、得意げに人差し指を左右に振った。
「そんな目で見てたって巫女さまにはお相手がいらっしゃるのよ。分不相応な夢を見るのは止めて手を動かしなさいっ」
「わかってるよー」
「萌しの巫女さまは豊穣のご加護を持つ天狐様のお嫁様になるんだろ?」
「そうよ。あっ、ほら! ちょうどいらしてる……!」
華やいだ声を上げる彼女に、自分のことは棚に上げてるじゃないかと白けつつも、彼らは揃って失礼のないよう居住まいを正した。
「なずな。熱心なのは結構だが、体を厭うことも忘れてくれるなよ」
陽の光がそのまま形となったような眩しい金色の毛並みが揺れる。なずなの上に袖でひさしを作るようにして囲いこんだその美丈夫は、狐ではなく人間の男だった。
「あ」
男はなずなが抱えていた柄杓や桶もまとめて片手で奪い去り、控えていた男に手渡す。手持ち無沙汰になったなずなは、頬を膨れさせて抗議した。
「もう! ウカ様の意地悪。わたしのお役目を取らないでっ」
「今日の分は済んだろう。水を遣りすぎても却って毒だ」
淡々と巫女をいなすその姿はかつてこの地で見かけた黒髪の雄狐とよく似ているが、巫女に向けるまなざしの甘さはまるで別物だ。
ウカと呼ばれたこの男は、かつてあやめからなずなを守っていた狐だ。あやめが穢れごと狐蠱によって消え失せたことで、豊穣の力を遺憾無く発揮できるようになった霊妙なる狐――天狐である。
とろけるような金色の瞳に、あやかしを超えた存在たる天狐に相応しい麗しさを纏ったかんばせ。そして溢れ出る気品と己の見初めた番に向ける尽きぬ愛情は、なずなにだけ注がれている。
「……もう、ウカ様ったら子どもっぽいんだから」
「ああそうだ。なずなのこととなれば子どもにでもなるさ。それとも愛しい妻を前に分別がつかぬ愚かな夫となじるかい?」
「そんなこと……ウカ様にするはず、ない、けれど」
途端に勝気を失くし、しどろもどろになるなずなの肩口に鼻を埋めたウカはふふと吐息だけで笑った。
「う、ウカ様、くすぐったい」
「なずな。植物に過ぎた水遣りは毒だが、いくら遣っても尽きぬ器ならここに在るぞ」
「……えっと、それは……」
なずなは助けを求めてきょろきょろと辺りを見渡す。
ことの成り行きを見守っていた野次馬たちは、これ大変と弁えたようにさっと背を向けてそれぞれの仕事に勤しみだした。
「おふたりとも、とってもお幸せそう」
「いいなあ。私もいつかあんな旦那様が……なーんてっ」
頬を染めてお喋りに花を咲かせる少女たちの後ろから、ぬっと影がさす。
「残念だが、当分次の巫女は現れんよ。その辺の男で妥協するんだね」
それはかの老婆だった。霊狐に仕える血筋を引く彼女のひと言は重く、現実を突きつけられた少女たちは目に見えて肩を落とす。
「そりゃあ、あんなに睦まじいんじゃそこに割って入れませんよ」
「あーあ、天狐様がもっとたくさんいらっしゃれば、私も……」
「萌しの巫女が加護を蒔けるのは穢れのない土地になったからさね。その前はどうしておった?」
「その前?」
少女たちは揃って首を傾げる。
「穢れは萌しの巫女様が消してくださったんでしょ?」
「え、確か違うひとがやったんじゃなかった?」
「そうなの? それならそのひとは何処に行ったの?」
「さあ……ま、今は萌しの巫女様がいらっしゃるから、それでいいんじゃない?」
「そうだね」
少女たちはとりとめのないお喋りを続けるべく、老婆にぺこりとお辞儀をして駆けて行った。
ひとり残された老婆の口元に、皺に紛れた笑みが浮かぶ。
「穢れと一体化したヨルの巫女は、穢れが消えれば共に人の記憶からも消えゆく。今代も例に漏れず、さ」
老婆は手近な石に腰掛けると、指で土に何かを描く。
「なあに、心配することはないさ。幾百年かそこらでまた土地は穢れだす。その頃にはまた誰かが、伝承の中からヨルの巫女を探し当てるだろうよ」
老婆が描いたのは、くるりと反った細長い花びらとぴんと張った髭を持つ曼珠沙華だ。
「おお、こんなものを描いては穢れを呼ぶかもしれないね。いけないいけない」
老婆は慌てて手のひらで絵を消す。
花の名残に懐かしむまなざしひとつを手向けにして、老婆はよいしょと腰を上げた。
穢れは去れども、失せるわけではない。
いつか必ず、憑るべき器に花が降る。
傍らの狐は腹を空かせて尾を揺らす。
ヨルは、満ちる時を待っている。
了



