赤い花が咲いている。
一輪ではない。風もないのに揺れるその細長い花びらが誘っているのか、気づけば二輪、三輪と増え、その花びら同士が触れ合うことで生まれた無数の花びらによって、景色は瞬く間に赤く染まっていった。
あやめは花で作られた赤い褥に横たわっている。睫毛を震わせて目を開ければ、ほのかに光る赤い花がくすくすと笑うように揺れてあやめを上から覗き込んでいた。
丸まった花びら同士が擦れてしゃらしゃらと乾いた音を立てる。その響きの中に自分の名前を感じ取って、あやめは満足げに唇をほころばせた。
あやめさま、あやめさま。
おうつくしい、ただひとりのヨルの巫女さま。
「ふふ、悪くないわね。あなた、名前はなんて言うの?」
名前はいくつもございます。
あやめさまはご存知のはず。
「意地悪しないで。ずっと一緒にいたじゃない」
そう呟いてから、あやめはどうしてそんなことを言ったのかとふと思う。
けれど、あやめはずっと前からこの赤を知っていた。
考えを巡らせるために腕を上げる。かざした指先が同じ色に彩られていた。
「そうか。ココさまに頂いた爪紅。これと同じ色をしているからそんな風に思ったんだわ」
さすがあやめさま、ご聡明。
左様です。わたくしたちはあやめさまとずっと共におりました。
あやめさまに憑りつく穢れをまとって、同じ色。
「なんですって?」
あやめははっと身を起こす。
途端に花は静かになった。
彼女の周りは真紅の花で満ちている。
花々がぶわりと舞い上がり、そして舞い落ちる。
改めてあやめは己を取り巻く花畑を見た。
縮こまるようにくるりと反った細長い花びら。その合間を縫うようにぴんと張った細い髭が四方八方に突き出ている様は花火を思わせる。
あやめはこの花を知っている。
名前は知らないが、これは始まりのあの夜から、ずっとあやめの胸に宿っていた運命の花だ。
「これは名前の多い花です。よく人間が呼ぶのは曼珠沙華でしょうか」
ココがそこにいた。
一輪を摘み取って、かざす。
「美しい赤です。あやめさまに憑りついた穢れを吸って艶やかに咲く。やはり優秀な憑るの巫女だ」
「待って。ココさま。ヨルって……」
「憑坐とは、この世ならざるものを下ろすための器。それはこの地に溢れる穢れを吸い、飲み込み、穢れそのものとなるために選ばれた、憑るの巫女。この花をこれ以上ないほどの真紅に染めることのできるただひとり」
「穢れ、そのもの?」
「ええ。そして穢れは狐蠱に使われ、千年の眠りにつく。浄化が終わる頃にはこの花畑は一面銀世界になっていることでしょう」
「こ……こ? あなたの、ココさまのお名前でしょう? そんな、道具みたいに言わないで」
ココは口元をほころばせた。それはいつか見たあやめの心を蕩けさせる笑顔ではない。
「それはこの肉体の名前ではありません。いつか誰かがそう呼んだ名を皆が勘違いしているだけです」
「そんな、ココさま」
あやめは幾度も口にしてきた単語をオウム返しに呟く。しかし、もうそれはひとの名前ではないことを知ってしまった。目の前に佇む美しい雄狐を、この響きで引き止めることは叶わないのだ。
「狐に穢れを集めて喰わせる呪術を狐蠱といいます。だからそう呼ばれている。それだけのこと。犬を使えば犬蠱でしょうね」
いつも通り、現実味のない口調で説明したココは摘んだ花の茎をこよりのようにねじる。くるくると回転する花から赤い光がこぼれ落ちて、落ちた先からまた新しい花が生まれた。
「ここは穢れに満ちている。見事なものだ。あやめさまのおかげです。ここはあなたに憑りつかせた穢れの終着点にして浄化の始まり。穢れを祓う憑るの巫女が穢れそのものに固まるように、その穢れを喰らった私が眠ることで次に繋がる種が芽吹く。そしてそれを継ぐのがあなたの妹です」
妹。
戸惑うばかりだったあやめの内に燃え盛る火が着いた。花のように力無く、とめどなく広がるばかりだった意識が一気に収束する。火種はなずな、ただひとつ。
ごうごうと燃えるその炎の形が、周りに咲く花と同じ形をしていることにあやめは気がつかない。
「なずなが……? なんだっていうの。ココさままでなずなの馬鹿げた妄想を本気になさってるわけ!?」
「妄想ではありません。あの娘は豊穣の天狐が選んだ萌しの巫女。ふたりの婚姻は生命あるものを芽生えさせ、掬い取り救い上げる約束の契りです」
「豊穣……?」
「ええ。穢れを集めるあなたと対極にある存在。だからあの娘は爪紅の色を弾いたのです。あの爪紅は身に溜まる穢れに応じて色が咲く……あなたの爪のように、赤々と」
あやめは己の爪を凝視し、鮮やかに指先を彩る毒々しい赤に戦慄した。
ごしごしと手のひらで擦るも色は滲む気配ひとつない。
ヨルの巫女に代々伝わる化粧道具だ、といつか聞かされたことを思い出す。これはそういうことだったのか。
「騙したの!?」
「騙す?」
ココは訝しげに首を傾げた。
「始めから嘘などついておりません」
「だけど……っ」
そう淡々と語るココの様子は嘘をついているように見えない。
「人間の女は……とりわけ憑るの巫女は特別扱いを好むでしょう。なので聞き覚えた睦言や接吻で穢れが憑りやすくなるように調整はしましたよ。あやめさまもご機嫌でしたね」
良く言えば淡々と。
悪く言えば上滑りした。
ココがあやめに施したすべては愛のないものだと白状してなお、ココは罪悪感など微塵も見せない。
当然だ。
ココは人間ではないのだから。
あやめは初めから、そう見なして心のどこかで見下していた。
その慢心が穢れの花となり、あやめ自身を養分として檻となる。それを今になって思い知っただけのことだ。
ココという名前。
ヨルの巫女の由来。
爪紅の秘密。
確かにココは何ひとつ嘘をついていない。
すべてはあやめが勝手に解釈したり、問いたださなかったがゆえに生じた誤解だ。
しかしあやめは己の無知や迂闊さを恥じるどころか、その悔しさをすべてなずなへ向けるばかりだ。
なずなが。
あの何も出来ないなずなが。
自分と同じように霊狐に選ばれた。
しかも穢れの受け皿となった自分とは逆に、命を与える清らかな存在として称えられる。
自分から何ひとつ動かず、降ってきた花びらを奪われてもわからなかったあのなずなが。
あやめは唇をきつく噛み締めた。
するとココの指が唇をなぞる。
「いけません、傷ができます」
大切なものを愛おしむような柔らかな手つきに、あやめの心は掻き乱される。
「どうして……」
「言ったはずです。あやめさまに傷をつけることは何人たりとも許し難い。たとえそれがあなた自身であったとしても」
ココはあやめをそっと花の褥に横たえる。覆いかぶさってくる男を見上げ、あやめはときめけばいいのか拒むべきなのかわからなくなる。
「あなたは今、血のひとしずくまでもが穢れに満ちている。下手に怪我などされてはこの器に封じ込めていた穢れが漏れ出てしまいますからね」
その言葉にあやめは頬を打たれたような、冷水を浴びせ掛けられたような心持ちになった。
「な……によ、それ」
「事実を述べたまでのこと。……ああ、憑りつく穢れが純度を増しましたね。これだけ憑り集まれば萌しの巫女も仕事が楽なことでしょう。何せ妬み恨み嫉み……作物の豊穣を阻む穢れが好む糧は、すべてここにあるのですから」
「なずなのことを言わないで!」
一瞬にして頭に血が上ったあやめはココの下でもがくが彼は動じる気配など微塵も見せないまま、顔を寄せた。
「さて。ここまで優秀な働きをしてくれた憑るの巫女に敬意を表し、此度の狐蠱はこのなりのまま致しましょうか」
ココの細いまなこが薄らと開く。瞼から覗くその色は爪紅と同じ真紅だ。
「あ……」
あやめの腕から、足から力が抜けていく。
肋の下で生きようともがいているのは心臓だ。
しかし、目に見えぬ臓腑の遙か奥、もっと深く潜った先では咲き誇った赤い花が摘み取られる時を今か今かと待ち侘びていた。
あやめは目を閉じることも忘れてココの瞳に魅入られている。
そこに映るのは赤い、大輪の花。
己を守るように丸まる花びら。
そして憑りつくすべてをとりこもうと伸ばされる細い髭。
狐だ。
その声が音になる前に、花は役割を終えて狐の腹に収まった。
一輪ではない。風もないのに揺れるその細長い花びらが誘っているのか、気づけば二輪、三輪と増え、その花びら同士が触れ合うことで生まれた無数の花びらによって、景色は瞬く間に赤く染まっていった。
あやめは花で作られた赤い褥に横たわっている。睫毛を震わせて目を開ければ、ほのかに光る赤い花がくすくすと笑うように揺れてあやめを上から覗き込んでいた。
丸まった花びら同士が擦れてしゃらしゃらと乾いた音を立てる。その響きの中に自分の名前を感じ取って、あやめは満足げに唇をほころばせた。
あやめさま、あやめさま。
おうつくしい、ただひとりのヨルの巫女さま。
「ふふ、悪くないわね。あなた、名前はなんて言うの?」
名前はいくつもございます。
あやめさまはご存知のはず。
「意地悪しないで。ずっと一緒にいたじゃない」
そう呟いてから、あやめはどうしてそんなことを言ったのかとふと思う。
けれど、あやめはずっと前からこの赤を知っていた。
考えを巡らせるために腕を上げる。かざした指先が同じ色に彩られていた。
「そうか。ココさまに頂いた爪紅。これと同じ色をしているからそんな風に思ったんだわ」
さすがあやめさま、ご聡明。
左様です。わたくしたちはあやめさまとずっと共におりました。
あやめさまに憑りつく穢れをまとって、同じ色。
「なんですって?」
あやめははっと身を起こす。
途端に花は静かになった。
彼女の周りは真紅の花で満ちている。
花々がぶわりと舞い上がり、そして舞い落ちる。
改めてあやめは己を取り巻く花畑を見た。
縮こまるようにくるりと反った細長い花びら。その合間を縫うようにぴんと張った細い髭が四方八方に突き出ている様は花火を思わせる。
あやめはこの花を知っている。
名前は知らないが、これは始まりのあの夜から、ずっとあやめの胸に宿っていた運命の花だ。
「これは名前の多い花です。よく人間が呼ぶのは曼珠沙華でしょうか」
ココがそこにいた。
一輪を摘み取って、かざす。
「美しい赤です。あやめさまに憑りついた穢れを吸って艶やかに咲く。やはり優秀な憑るの巫女だ」
「待って。ココさま。ヨルって……」
「憑坐とは、この世ならざるものを下ろすための器。それはこの地に溢れる穢れを吸い、飲み込み、穢れそのものとなるために選ばれた、憑るの巫女。この花をこれ以上ないほどの真紅に染めることのできるただひとり」
「穢れ、そのもの?」
「ええ。そして穢れは狐蠱に使われ、千年の眠りにつく。浄化が終わる頃にはこの花畑は一面銀世界になっていることでしょう」
「こ……こ? あなたの、ココさまのお名前でしょう? そんな、道具みたいに言わないで」
ココは口元をほころばせた。それはいつか見たあやめの心を蕩けさせる笑顔ではない。
「それはこの肉体の名前ではありません。いつか誰かがそう呼んだ名を皆が勘違いしているだけです」
「そんな、ココさま」
あやめは幾度も口にしてきた単語をオウム返しに呟く。しかし、もうそれはひとの名前ではないことを知ってしまった。目の前に佇む美しい雄狐を、この響きで引き止めることは叶わないのだ。
「狐に穢れを集めて喰わせる呪術を狐蠱といいます。だからそう呼ばれている。それだけのこと。犬を使えば犬蠱でしょうね」
いつも通り、現実味のない口調で説明したココは摘んだ花の茎をこよりのようにねじる。くるくると回転する花から赤い光がこぼれ落ちて、落ちた先からまた新しい花が生まれた。
「ここは穢れに満ちている。見事なものだ。あやめさまのおかげです。ここはあなたに憑りつかせた穢れの終着点にして浄化の始まり。穢れを祓う憑るの巫女が穢れそのものに固まるように、その穢れを喰らった私が眠ることで次に繋がる種が芽吹く。そしてそれを継ぐのがあなたの妹です」
妹。
戸惑うばかりだったあやめの内に燃え盛る火が着いた。花のように力無く、とめどなく広がるばかりだった意識が一気に収束する。火種はなずな、ただひとつ。
ごうごうと燃えるその炎の形が、周りに咲く花と同じ形をしていることにあやめは気がつかない。
「なずなが……? なんだっていうの。ココさままでなずなの馬鹿げた妄想を本気になさってるわけ!?」
「妄想ではありません。あの娘は豊穣の天狐が選んだ萌しの巫女。ふたりの婚姻は生命あるものを芽生えさせ、掬い取り救い上げる約束の契りです」
「豊穣……?」
「ええ。穢れを集めるあなたと対極にある存在。だからあの娘は爪紅の色を弾いたのです。あの爪紅は身に溜まる穢れに応じて色が咲く……あなたの爪のように、赤々と」
あやめは己の爪を凝視し、鮮やかに指先を彩る毒々しい赤に戦慄した。
ごしごしと手のひらで擦るも色は滲む気配ひとつない。
ヨルの巫女に代々伝わる化粧道具だ、といつか聞かされたことを思い出す。これはそういうことだったのか。
「騙したの!?」
「騙す?」
ココは訝しげに首を傾げた。
「始めから嘘などついておりません」
「だけど……っ」
そう淡々と語るココの様子は嘘をついているように見えない。
「人間の女は……とりわけ憑るの巫女は特別扱いを好むでしょう。なので聞き覚えた睦言や接吻で穢れが憑りやすくなるように調整はしましたよ。あやめさまもご機嫌でしたね」
良く言えば淡々と。
悪く言えば上滑りした。
ココがあやめに施したすべては愛のないものだと白状してなお、ココは罪悪感など微塵も見せない。
当然だ。
ココは人間ではないのだから。
あやめは初めから、そう見なして心のどこかで見下していた。
その慢心が穢れの花となり、あやめ自身を養分として檻となる。それを今になって思い知っただけのことだ。
ココという名前。
ヨルの巫女の由来。
爪紅の秘密。
確かにココは何ひとつ嘘をついていない。
すべてはあやめが勝手に解釈したり、問いたださなかったがゆえに生じた誤解だ。
しかしあやめは己の無知や迂闊さを恥じるどころか、その悔しさをすべてなずなへ向けるばかりだ。
なずなが。
あの何も出来ないなずなが。
自分と同じように霊狐に選ばれた。
しかも穢れの受け皿となった自分とは逆に、命を与える清らかな存在として称えられる。
自分から何ひとつ動かず、降ってきた花びらを奪われてもわからなかったあのなずなが。
あやめは唇をきつく噛み締めた。
するとココの指が唇をなぞる。
「いけません、傷ができます」
大切なものを愛おしむような柔らかな手つきに、あやめの心は掻き乱される。
「どうして……」
「言ったはずです。あやめさまに傷をつけることは何人たりとも許し難い。たとえそれがあなた自身であったとしても」
ココはあやめをそっと花の褥に横たえる。覆いかぶさってくる男を見上げ、あやめはときめけばいいのか拒むべきなのかわからなくなる。
「あなたは今、血のひとしずくまでもが穢れに満ちている。下手に怪我などされてはこの器に封じ込めていた穢れが漏れ出てしまいますからね」
その言葉にあやめは頬を打たれたような、冷水を浴びせ掛けられたような心持ちになった。
「な……によ、それ」
「事実を述べたまでのこと。……ああ、憑りつく穢れが純度を増しましたね。これだけ憑り集まれば萌しの巫女も仕事が楽なことでしょう。何せ妬み恨み嫉み……作物の豊穣を阻む穢れが好む糧は、すべてここにあるのですから」
「なずなのことを言わないで!」
一瞬にして頭に血が上ったあやめはココの下でもがくが彼は動じる気配など微塵も見せないまま、顔を寄せた。
「さて。ここまで優秀な働きをしてくれた憑るの巫女に敬意を表し、此度の狐蠱はこのなりのまま致しましょうか」
ココの細いまなこが薄らと開く。瞼から覗くその色は爪紅と同じ真紅だ。
「あ……」
あやめの腕から、足から力が抜けていく。
肋の下で生きようともがいているのは心臓だ。
しかし、目に見えぬ臓腑の遙か奥、もっと深く潜った先では咲き誇った赤い花が摘み取られる時を今か今かと待ち侘びていた。
あやめは目を閉じることも忘れてココの瞳に魅入られている。
そこに映るのは赤い、大輪の花。
己を守るように丸まる花びら。
そして憑りつくすべてをとりこもうと伸ばされる細い髭。
狐だ。
その声が音になる前に、花は役割を終えて狐の腹に収まった。



