「いい目だ。“ヨル”にふさわしい」
「…………え?」
狐を凝視するあまり乾ききったあやめの瞳は、やっと瞬きすることを許された。ココがあやめを守るように立ちはだかるが、狐はゆっくりと首を横に振ると、渋々ながらも半身を引いた。
「私にお前を害するつもりはない。ただ、時が近いと確かめにきたのだ」
「時? 何を言っているの」
「知る必要はない。お前はもう立派なヨルの巫女だ」
「勝手なこと言わないで。わたしの事をわたしが知りたいと言って何が悪いの」
「知らずともわかる。お前はもう満ちている」
どこまでも平行線なやりとりは会話などと呼べる代物ではない。痺れをきらしたあやめが手近にあった筆を投げつけると、狐はひょいと宙返りしてなずなの足元へと移動した。
「ウカちゃん……!」
なずなは膝を着いて狐に抱きつく。狐が首を伸ばしてなずなに擦り寄る仕草は、番を愛おしむふるまいに似ていた。
「気味が悪い。変な名前。なずな、喋る狐なんて飼ってるの?」
「飼ってるんじゃない! ウカちゃんはただの狐じゃないのよ。失礼なこと言わないで」
「な……んですって!」
失礼なのはどちらだ。今までになかったなずなの物言いにあやめの頭に血が上る。
ぎりりと拳を握りしめたあやめのまなざしが、また何か投げつけるものを探していると悟った狐は、なずなを守るように立ちはだかった。
「ヨルの巫女よ。これ以上我が妻を痛めつけることは止めてもらおう」
「妻?」
あやめの思考が鈍る。どこに雌の狐がいるのかと探しかけて、目の前にある答えに気づくのに時間がかかった。
ぴたりと狐に寄り添うなずながあやめを見上げた。
「あやめちゃん、わたしウカちゃんと……この狐さんと一緒になるの。もう決めたの」
「は……?」
「ウカちゃんは、ずっとわたしのこと見てたんだって。助けてあげたいって思ってくれてたの。あやめちゃんがヨルの巫女として完成するまでの辛抱だ、そうしたらわたしはあやめちゃんから解放されるって教えてくれたのよ」
「なに……言ってるの?」
あやめの狼狽を意に介さず、なずなはきっと前を向く。どこまでもまっすぐなまなざしは眩しい。
「わたしはヨルの巫女と対になる存在なの。だからあやめちゃんが穢れを祓う役割を終えたら、跡継ぎのわたしがこの都を繁栄させる役割を担うんだって」
「はあ? 継ぐって、あんたが? なにがどうしてそうなるの?」
「巫女はヨルだけじゃないの。あやめちゃんはもう巫女として完成してる。だからわたしがいないと次に続かないの」
「待ちなさいよ、意味がわからない。対の存在? なにそれ、わたしそんなの聞いてないわ」
立て板に水の如く語るなずなは、いつものあやめの顔色を窺う話し方ではなく理路整然とした自信に溢れる口調だった。それはいつか、あやめを庇ってみせた時の姿を思い起こさせる。
あやめの混乱も露知らず、なずなの凛とした佇まいと突然押し寄せる情報の奔流に、あやめは視界がぐにゃりと歪み、悪心で口を押さえた。
対の存在。
完成したあやめと不完全ななずな。
ヨルの巫女を継ぐもの。
理解が追いつかない中でもこれだけはあやめの中ではっきりしていた。
なずなが自分より先んじていることだけは、我慢ならない!
その一心で、なずなの前で崩れ落ちる醜態を晒すことだけは踏みとどまる。固く握った拳の中で、爪が手のひらに食い込む感触があやめを奮い立たせた。
「あやめさま」
その拳が、隣からそっと包み込まれる。
ココの手だ。あやめはその手に縋って詰め寄った。
「ココさま、なずなはデタラメを言っているのですよね? なずなごときが厚かましい妄言を」
「落ち着きなさい。あなたらしくない」
「すべてなずなの妄想よ。ココさまに振り向いてもらえなかったから、どこからか喋る狐を捕まえてたらしこむなんて、ふしだらにも程があるわ」
「あやめさま、お気を確かに」
「気は確かよ!」
あやめは金切り声を上げてぴしゃりとココの手をはねつけた。ふらりと雲を掴むような足取りで何処へともなく歩き出す。
「そうよ、わたしはなにもおかしくない。だからこそ分不相応な妹にはお灸を据えてやるのよ。だってこんなの可笑しいでしょう。何もかもわたしの後をついて歩くしか能がないなずなが、わたしの、対? ありえない。だってわたしはヨルの巫女として選ばれたのよ。いえ、わたしがヨルの巫女になったの。そうよ、あの夜、降ってきた花を掴んだのはわたしなの。なずなみたいに口を開けて寝こけてたわけじゃない。そうよ、自分の手で、なずなの布団に積もってたあの花を――」
「あの花……って?」
なずなが問いかける。
あやめの独白が止まった。
一拍遅れてあやめの足も止まる。
あやめを中心として時の流れがぬかるみにはまっていく。
その流れに足を取られずに、なずなは勇気を振り絞ってもう一度問いかけた。
「あやめちゃん。あの夜っていつのこと? まさかこのお屋敷で初めて眠った日? もしかして、あの日選ばれてたのはあやめちゃんじゃなくてわたし……」
「うるさい!」
あやめの金切り声に、なずなの声が掻き消された。
「ヨルの巫女はわたし。持てはやされるのはわたし。ココ様に愛されるのもわたし。祓いの力でみんなから崇められるのも、傅かれるのも、跪かれるのも、わたしよ!」
あやめはなずなが片付けていた化粧道具を引っ掴む 。手近にあった爪紅入れの蛤をなずなに投げつけると、割れて中身が飛び散った。
「きゃあ!」
咄嗟に顔を覆ったなずなの手に染料がつく。しかしそれは透明なままだ。あやめが身につけた時のように赤く染まりはしていない。
「なあんだ……やっぱりあんたじゃこの爪紅の色は出ないのね。そうよね。やっぱりそう。わたしだけなのよ。ふふっ、良かった……う、ふふ、ふ……あははっ」
心底安心したあやめは、心穏やかに笑い続ける。次第にその笑い声は大きくなり、肩を揺らす程度だった仕草もいつしか両腕を広げてくるくると回りだした。
「もう憑るのも限界のようだな」
なずなに寄り添い、爪紅がぶつかったところを舐めていた狐がココを見上げる。
「ええ、もう充分でしょう」
頷いたココはくるくる回るあやめを抱きとめる。
ココの腕にしなだれかかったあやめはくちづけをねだる――が、ココは応じなかった。
「あやめさま。時間です」
「時間? なんの?」
「狐蠱を始めるといたしましょう」
「…………え?」
狐を凝視するあまり乾ききったあやめの瞳は、やっと瞬きすることを許された。ココがあやめを守るように立ちはだかるが、狐はゆっくりと首を横に振ると、渋々ながらも半身を引いた。
「私にお前を害するつもりはない。ただ、時が近いと確かめにきたのだ」
「時? 何を言っているの」
「知る必要はない。お前はもう立派なヨルの巫女だ」
「勝手なこと言わないで。わたしの事をわたしが知りたいと言って何が悪いの」
「知らずともわかる。お前はもう満ちている」
どこまでも平行線なやりとりは会話などと呼べる代物ではない。痺れをきらしたあやめが手近にあった筆を投げつけると、狐はひょいと宙返りしてなずなの足元へと移動した。
「ウカちゃん……!」
なずなは膝を着いて狐に抱きつく。狐が首を伸ばしてなずなに擦り寄る仕草は、番を愛おしむふるまいに似ていた。
「気味が悪い。変な名前。なずな、喋る狐なんて飼ってるの?」
「飼ってるんじゃない! ウカちゃんはただの狐じゃないのよ。失礼なこと言わないで」
「な……んですって!」
失礼なのはどちらだ。今までになかったなずなの物言いにあやめの頭に血が上る。
ぎりりと拳を握りしめたあやめのまなざしが、また何か投げつけるものを探していると悟った狐は、なずなを守るように立ちはだかった。
「ヨルの巫女よ。これ以上我が妻を痛めつけることは止めてもらおう」
「妻?」
あやめの思考が鈍る。どこに雌の狐がいるのかと探しかけて、目の前にある答えに気づくのに時間がかかった。
ぴたりと狐に寄り添うなずながあやめを見上げた。
「あやめちゃん、わたしウカちゃんと……この狐さんと一緒になるの。もう決めたの」
「は……?」
「ウカちゃんは、ずっとわたしのこと見てたんだって。助けてあげたいって思ってくれてたの。あやめちゃんがヨルの巫女として完成するまでの辛抱だ、そうしたらわたしはあやめちゃんから解放されるって教えてくれたのよ」
「なに……言ってるの?」
あやめの狼狽を意に介さず、なずなはきっと前を向く。どこまでもまっすぐなまなざしは眩しい。
「わたしはヨルの巫女と対になる存在なの。だからあやめちゃんが穢れを祓う役割を終えたら、跡継ぎのわたしがこの都を繁栄させる役割を担うんだって」
「はあ? 継ぐって、あんたが? なにがどうしてそうなるの?」
「巫女はヨルだけじゃないの。あやめちゃんはもう巫女として完成してる。だからわたしがいないと次に続かないの」
「待ちなさいよ、意味がわからない。対の存在? なにそれ、わたしそんなの聞いてないわ」
立て板に水の如く語るなずなは、いつものあやめの顔色を窺う話し方ではなく理路整然とした自信に溢れる口調だった。それはいつか、あやめを庇ってみせた時の姿を思い起こさせる。
あやめの混乱も露知らず、なずなの凛とした佇まいと突然押し寄せる情報の奔流に、あやめは視界がぐにゃりと歪み、悪心で口を押さえた。
対の存在。
完成したあやめと不完全ななずな。
ヨルの巫女を継ぐもの。
理解が追いつかない中でもこれだけはあやめの中ではっきりしていた。
なずなが自分より先んじていることだけは、我慢ならない!
その一心で、なずなの前で崩れ落ちる醜態を晒すことだけは踏みとどまる。固く握った拳の中で、爪が手のひらに食い込む感触があやめを奮い立たせた。
「あやめさま」
その拳が、隣からそっと包み込まれる。
ココの手だ。あやめはその手に縋って詰め寄った。
「ココさま、なずなはデタラメを言っているのですよね? なずなごときが厚かましい妄言を」
「落ち着きなさい。あなたらしくない」
「すべてなずなの妄想よ。ココさまに振り向いてもらえなかったから、どこからか喋る狐を捕まえてたらしこむなんて、ふしだらにも程があるわ」
「あやめさま、お気を確かに」
「気は確かよ!」
あやめは金切り声を上げてぴしゃりとココの手をはねつけた。ふらりと雲を掴むような足取りで何処へともなく歩き出す。
「そうよ、わたしはなにもおかしくない。だからこそ分不相応な妹にはお灸を据えてやるのよ。だってこんなの可笑しいでしょう。何もかもわたしの後をついて歩くしか能がないなずなが、わたしの、対? ありえない。だってわたしはヨルの巫女として選ばれたのよ。いえ、わたしがヨルの巫女になったの。そうよ、あの夜、降ってきた花を掴んだのはわたしなの。なずなみたいに口を開けて寝こけてたわけじゃない。そうよ、自分の手で、なずなの布団に積もってたあの花を――」
「あの花……って?」
なずなが問いかける。
あやめの独白が止まった。
一拍遅れてあやめの足も止まる。
あやめを中心として時の流れがぬかるみにはまっていく。
その流れに足を取られずに、なずなは勇気を振り絞ってもう一度問いかけた。
「あやめちゃん。あの夜っていつのこと? まさかこのお屋敷で初めて眠った日? もしかして、あの日選ばれてたのはあやめちゃんじゃなくてわたし……」
「うるさい!」
あやめの金切り声に、なずなの声が掻き消された。
「ヨルの巫女はわたし。持てはやされるのはわたし。ココ様に愛されるのもわたし。祓いの力でみんなから崇められるのも、傅かれるのも、跪かれるのも、わたしよ!」
あやめはなずなが片付けていた化粧道具を引っ掴む 。手近にあった爪紅入れの蛤をなずなに投げつけると、割れて中身が飛び散った。
「きゃあ!」
咄嗟に顔を覆ったなずなの手に染料がつく。しかしそれは透明なままだ。あやめが身につけた時のように赤く染まりはしていない。
「なあんだ……やっぱりあんたじゃこの爪紅の色は出ないのね。そうよね。やっぱりそう。わたしだけなのよ。ふふっ、良かった……う、ふふ、ふ……あははっ」
心底安心したあやめは、心穏やかに笑い続ける。次第にその笑い声は大きくなり、肩を揺らす程度だった仕草もいつしか両腕を広げてくるくると回りだした。
「もう憑るのも限界のようだな」
なずなに寄り添い、爪紅がぶつかったところを舐めていた狐がココを見上げる。
「ええ、もう充分でしょう」
頷いたココはくるくる回るあやめを抱きとめる。
ココの腕にしなだれかかったあやめはくちづけをねだる――が、ココは応じなかった。
「あやめさま。時間です」
「時間? なんの?」
「狐蠱を始めるといたしましょう」



