「ヨルの巫女さまにおかれましてはますますお力が増したようで」
「美しさにまで磨きがかかって」
「ココさまもさぞお喜びであろうよ」
「……と、皆が話しているのを、聞きました」
「そう。人の口に戸は立てられないというけど、本当ね。祓いの力はともかく、普段は扇で隠している容姿まで当然のように噂になるのだから……ねえ?」
あやめは思わせぶりに語尾を上げて反応を待つ。
視線の先では、あやめの爪紅を塗り直しているなずなが、それ以上口を利くことを許可されているのか判断するためおずおずと上目遣いに様子を窺っていた。
「なあに?」
「い……いえ」
あやめが声をかければなずなはびくりと肩を跳ねさせて頭を垂れる。卑屈な態度が気に障ったが、今動いては爪紅がはみ出るので我慢をした。
不器用で気が利かないなずなだが、同じことを何度も繰り返し練習させればそれなりの出来にはなるようだ。
失敗するたびに幾度あやめは手を上げたかわからないが、その甲斐あってあやめの爪となずなの腫れ上がった頬は比例して赤赤と血色が鮮やかである。
そっと筆を引いたなずなを追いやり、あやめは美しく彩られた赤い爪をかざして口元を緩めた。
「綺麗よ」
「あ……りがとう、ございます」
「お前を褒めたわけじゃないわ。ココさまから頂いた貴重な爪紅だもの。わたしに似合って当たり前」
なずなは唇を噛み締めて道具を片付け始めた。
あやめは扇をとんとんと叩く。顔を上げろ、の合図だ。
なずなの視線があやめを捉える。
傷ついた、軽んじられた、酷い目に遭わされた――そんな思いの籠ったまなざしが、あやめにまっすぐ注がれる。
「……ふふっ」
腹の中で赤い花が花開くのを感じる。
始まりの夜と同じ、くるりと巻かれた細い花びらにぴんと伸びた細い髭。
思わず笑みがこぼれた。
なずながあやめに向ける負の感情。これがヨルの巫女の力の糧となるとわかった時、あやめはけらけらとはしたなくも大口を開けて笑ったものだ。
なずなはあやめの踏み台になるために存在している。
昔からあやめは自分の意思でなずなを虐げ続けてきたけれど、こうして純然たる事実として証明されると気持ちがいいものである。
優越感という言葉を知る前からそれを教えてくれていたなずな。あやめが優れた存在であると知らしめるためだけに妹として生まれてくれたとしか思えない。
すべてが劣った存在なのに、あやめの糧としてだけは有能だなんて、どこまでも姉思いの素晴らしい妹だ。
その事実を噛み締めながら眺める爪紅は格別の美しさである。
あやめの美しい指の向こう側では、なずなが無言で紅筆を片付けている。特筆すべきはその色だ。紅色を塗ったはずなのに、なずなが手にしている筆に紅色は残っていない。
これはココがあやめのためにどこからか取り寄せた品物だ。
蛤に蒔絵を施した華やかな容れ物を満たすのは透明な染料。しかし、これはあやめの爪に触れるとたちまち赤く色づきだすのだ。おそらく霊力に反応して発色するのだとあやめは推測している。
ヨルの巫女に施す化粧として代々使われてきたものと聞いた。
あの日から、あやめの力は目に見えて強くなった。
かざした指先からは軽やかに穢れを祓い、ひとさし舞えばその爪先から地中深くに潜んでいた厄災の種すら儚く散らす。
厄災に怯える庶民はあやめの姿をひと目でも見ようと屋敷へ足を運ぶが、ココにより強固に守られた敷地内に入ることは誰も適わなかった。
「あやめさま、ご機嫌麗しゅう」
「まあ、ココさま」
爪紅を塗り終えたのを見計らったかのように訪れたのはココだ。
「差し上げた爪紅、お気に召しましたか」
「それはもう! お気遣いに感謝しますわ」
しなを作るあやめに、静かに頷いて寄り添うココ。ふたりを隔てるものは何も無い。
あやめは控えているなずなの様子を見るが、もうココへの想いは失せたのか、打ちひしがれた様子は見てとれなかった。
(残念。悔しがる顔が見たいのに)
ココはそっとあやめの手を取った。無言で爪紅を見つめている。
「美しい」
「そう?」
「ええ。これ以上ないほどに」
そう語るココの口調は今までになく熱っぽい。何かに浮かされているような声色は蜂蜜のように蕩けてあやめの心を侵食していく。
「じきに、器が満ちるな」
深みのある男の声が響く。ココの声ではなかった。
「ひ……っ」
狐だ。
なずなが連れてきた狐。
あの日、力の昂りのまま穢れを祓ったあの狐が、窓辺から軽やかに部屋へ侵入してきた。
「いや! なんでお前がここにいるの!」
「ウカちゃん、出てきちゃダメ!」
あやめとなずなが同時に叫ぶ。
ココと狐が同時に構える。
ココの制止を身を翻して躱した狐は、あやめの足元へと着地した。
硝子玉のような狐の目玉があやめを射抜く。
あやめは心臓が喉元で暴れ回っている錯覚に陥る。
あの時、殺めようとしたからその復讐に来たのか。
簪であやめがそうするつもりだったように、あやめの喉笛を掻き切りに来たのか。
なずなが仕組んだに違いない、だってあの子はあの狐を庇って怪我をして、そうだその時のなずなの目が――
「美しさにまで磨きがかかって」
「ココさまもさぞお喜びであろうよ」
「……と、皆が話しているのを、聞きました」
「そう。人の口に戸は立てられないというけど、本当ね。祓いの力はともかく、普段は扇で隠している容姿まで当然のように噂になるのだから……ねえ?」
あやめは思わせぶりに語尾を上げて反応を待つ。
視線の先では、あやめの爪紅を塗り直しているなずなが、それ以上口を利くことを許可されているのか判断するためおずおずと上目遣いに様子を窺っていた。
「なあに?」
「い……いえ」
あやめが声をかければなずなはびくりと肩を跳ねさせて頭を垂れる。卑屈な態度が気に障ったが、今動いては爪紅がはみ出るので我慢をした。
不器用で気が利かないなずなだが、同じことを何度も繰り返し練習させればそれなりの出来にはなるようだ。
失敗するたびに幾度あやめは手を上げたかわからないが、その甲斐あってあやめの爪となずなの腫れ上がった頬は比例して赤赤と血色が鮮やかである。
そっと筆を引いたなずなを追いやり、あやめは美しく彩られた赤い爪をかざして口元を緩めた。
「綺麗よ」
「あ……りがとう、ございます」
「お前を褒めたわけじゃないわ。ココさまから頂いた貴重な爪紅だもの。わたしに似合って当たり前」
なずなは唇を噛み締めて道具を片付け始めた。
あやめは扇をとんとんと叩く。顔を上げろ、の合図だ。
なずなの視線があやめを捉える。
傷ついた、軽んじられた、酷い目に遭わされた――そんな思いの籠ったまなざしが、あやめにまっすぐ注がれる。
「……ふふっ」
腹の中で赤い花が花開くのを感じる。
始まりの夜と同じ、くるりと巻かれた細い花びらにぴんと伸びた細い髭。
思わず笑みがこぼれた。
なずながあやめに向ける負の感情。これがヨルの巫女の力の糧となるとわかった時、あやめはけらけらとはしたなくも大口を開けて笑ったものだ。
なずなはあやめの踏み台になるために存在している。
昔からあやめは自分の意思でなずなを虐げ続けてきたけれど、こうして純然たる事実として証明されると気持ちがいいものである。
優越感という言葉を知る前からそれを教えてくれていたなずな。あやめが優れた存在であると知らしめるためだけに妹として生まれてくれたとしか思えない。
すべてが劣った存在なのに、あやめの糧としてだけは有能だなんて、どこまでも姉思いの素晴らしい妹だ。
その事実を噛み締めながら眺める爪紅は格別の美しさである。
あやめの美しい指の向こう側では、なずなが無言で紅筆を片付けている。特筆すべきはその色だ。紅色を塗ったはずなのに、なずなが手にしている筆に紅色は残っていない。
これはココがあやめのためにどこからか取り寄せた品物だ。
蛤に蒔絵を施した華やかな容れ物を満たすのは透明な染料。しかし、これはあやめの爪に触れるとたちまち赤く色づきだすのだ。おそらく霊力に反応して発色するのだとあやめは推測している。
ヨルの巫女に施す化粧として代々使われてきたものと聞いた。
あの日から、あやめの力は目に見えて強くなった。
かざした指先からは軽やかに穢れを祓い、ひとさし舞えばその爪先から地中深くに潜んでいた厄災の種すら儚く散らす。
厄災に怯える庶民はあやめの姿をひと目でも見ようと屋敷へ足を運ぶが、ココにより強固に守られた敷地内に入ることは誰も適わなかった。
「あやめさま、ご機嫌麗しゅう」
「まあ、ココさま」
爪紅を塗り終えたのを見計らったかのように訪れたのはココだ。
「差し上げた爪紅、お気に召しましたか」
「それはもう! お気遣いに感謝しますわ」
しなを作るあやめに、静かに頷いて寄り添うココ。ふたりを隔てるものは何も無い。
あやめは控えているなずなの様子を見るが、もうココへの想いは失せたのか、打ちひしがれた様子は見てとれなかった。
(残念。悔しがる顔が見たいのに)
ココはそっとあやめの手を取った。無言で爪紅を見つめている。
「美しい」
「そう?」
「ええ。これ以上ないほどに」
そう語るココの口調は今までになく熱っぽい。何かに浮かされているような声色は蜂蜜のように蕩けてあやめの心を侵食していく。
「じきに、器が満ちるな」
深みのある男の声が響く。ココの声ではなかった。
「ひ……っ」
狐だ。
なずなが連れてきた狐。
あの日、力の昂りのまま穢れを祓ったあの狐が、窓辺から軽やかに部屋へ侵入してきた。
「いや! なんでお前がここにいるの!」
「ウカちゃん、出てきちゃダメ!」
あやめとなずなが同時に叫ぶ。
ココと狐が同時に構える。
ココの制止を身を翻して躱した狐は、あやめの足元へと着地した。
硝子玉のような狐の目玉があやめを射抜く。
あやめは心臓が喉元で暴れ回っている錯覚に陥る。
あの時、殺めようとしたからその復讐に来たのか。
簪であやめがそうするつもりだったように、あやめの喉笛を掻き切りに来たのか。
なずなが仕組んだに違いない、だってあの子はあの狐を庇って怪我をして、そうだその時のなずなの目が――



