「あ……」
赤いか青いかよくわからぬ顔色をしている。どちらつかずの愚鈍な娘――なずなだ。
大方、用件を伝える時機を見計らっているうちにあやめとココが睦みあい始めたので機を逸したのだろう。
「覗きが趣味なの? いやらしい。あんたみたいなのが妹なんてそれこそが穢れだわ」
「あやめさま、もういいでしょう」
ココはなずなを視界に入れるのも厭うのか、あやめを抱き上げてその場を離れようとした。しかし、なずなはふたりの行く手を遮らんと回り込んで、膝をつき頭を下げた。
「……なに?」
「あ……あのっ、あやめちゃ……あやめ、さまに、治して頂きたい子が、いて」
なずなは腕の中にいるモノをふたりに見えるように抱え直した。赤い布に包まれている。
ぐったりした狐だった。
赤い布に見えたのは血と穢れがこびりついている毛並みだ。
浅い呼吸を忙しなく繰り返しているそばから血が滲み、なずなの着物をどす黒く染めていく。
「まあ」
生臭い匂いにあやめは袖で鼻を覆う。穢れに全身を取り巻かれているせいで傷口を直接見なくて済んだのは幸運だった。
なずなの頼みを聞くのは癪だが、ココがそばにいる以上、慈悲深いヨルの巫女としてふるまっておくほうが心象がいい。
(運のいい娘ね)
あやめは狐に指先を向ける。
その時、ぐったりとしたままの狐が、突然首をもたげた。
荒い息で怒鳴るように威嚇され、あやめは怯む。
「っな……」
「だめ!」
なずなの制止を振り切り、その細腕から抜け出した狐は、力を振り絞ってあやめに噛みつかんばかりに吠えかかった。
「きゃあっ」
あの穢れと血まみれのどこにそんな力が隠されていたのか。咄嗟のことに凍りついたあやめの指先にその歯が届こうとした、その時。
「失せろ」
バシッと乾いた音がした。
「……え」
ココがかざした手のひらの下で、狐がもがいている。直接触れているわけではなく、手のひらと狐の間には空間があった。しかし狐は押さえつけられているかのように動けない。
「ココさまっ」
「あやめさま、これをどうなさいますか」
「え?」
「これはあやめさまを害しようとした畜生。如何様にも、お好きに」
ココは静かに手を引いて抱き上げていたあやめを下ろした。縛めはまだ有効らしく、狐は時折ぴくりぴくりと震えている。
その惨めな姿に、あやめはこれに恐怖を覚えたのが馬鹿らしくなる。そしてそのような姿をなずなに見られたかと思うと悔しくてたまらなくなった。頭に血が上る。
怯えたところをなずなに見られた。
なずなが連れてきたモノがきっかけだ。
つまり、なずなは自分を嗤うためにこれを連れてきたのだ。
治して欲しいなど殊勝なことを言っていたが、本音はそちらだろう。
「……許し難いわ」
手が勝手に簪を引き抜いていた。
本来の俊敏さを失った状態の無抵抗な獣は、身を震わせて裁きを待つだけだ。
あやめは簪を持つ手を振り上げる。
切っ先が生命に届かんとする、その時。
「だめ!!」
簪が切り裂いたのは、なずなの袖だった。
この間抜けで慈悲深い愚かな女は、身を呈して狐を庇ったのだ。
薄い生地では鋭利な切っ先を受け止めきるには至らず、むき出しになったなずなの腕からは薄く血が滲んでいる。
あやめは、切っ先がなずなの皮膚に引っかかった時の抵抗が伝わってきた手を固く握りしめた。
そうしていなければ、手がわななきそうだったのだ。
「あやめちゃん! なんてことをするの!」
きっとあやめを見据えたなずなの視線が、怒りに燃えていた。
今まで、いくら叩いても蹴っても抵抗ひとつしなかったなずなが。
ひそかになずなが懸想しているココと目の前で睦みあっても恨みがましい目ひとつしなかったなずなが。
みすぼらしい狐一匹を守るため、我が身を顧みずあやめに立ち向かい、真正面から叱責している。
あやめは信じられないものを見る目でなずなを――妹を、見つめた。
なずなは、こんなに鋭い目をする娘だっただろうか。
なずなは、こんなに激しい想いを秘めた娘だっただろうか。
なずなは、こんなにも凛として美しくふるまう娘だっただろう――か。
あやめの背筋に冷たいものが伝う。
肌がぞわぞわと騒ぎ出す。
脈拍が早い。視界が鮮やかに輝きだす。
五感が研ぎ澄まされていく。
「――あ」
あやめは、なずなの中に憎しみを見た。
その瞬間、あやめの中で、赤い花が爆ぜた。
「……っ!」
あやめは胸を抑えて背を丸める。
身体が熱い。
息が苦しい。
鼓動が速い。
身体が、軽い。
「あやめさま、これは」
ふらついたあやめをココが抱きとめる。はっと息を飲んだのがあやめにも伝わった。
「ココさま……何かしら、これ、とっても……」
あやめはココの腕の中で顔を上げる。
朱を帯びた目元と、唇を舌で濡らす仕草は目に毒なほど妖艶だった。
あやめはまっすぐ右手を上げる。
横たわったままの狐から瞬く間に赤黒い穢れが吸い取られていく。
狐からだけではない。屋敷を囲む塀の向こう、呻く庶民の暮らす家々が立ち並ぶ方からも、はっきりと目に見えるほどの穢れが拭い去られて空へ上っていく様子が見て取れた。
「これは」
祓った穢れが浮かぶ、赤く染まった空を見上げるココの視線を受け、あやめは胸を張って集まってきたその赤黒い穢れを指先に纏う。それはいつもと同じように、あやめの爪を艶やかに彩ってから色を消した。
あやめはなずなの前へと向かう。その足取りは今までになく軽い。
「あ、あやめちゃ――ッ!」
「なずな」
あやめはなずなの前髪を掴んで顔を上げさせる。痛みに顔をしかめる妹を見下し、あやめはうっそりと笑った。
「水臭いじゃない。お前にこんな使い道があるなんて」
「……っつ、かいみち……?」
「お前がわたしをああいう目で見た途端、力が漲ったの。おかげでヨルの巫女として申し分のない働きができそうだわ。あの畜生も気分がいいから助けてあげたのよ。今度は私に歯向かわないように躾をすることね」
「……しつけ、って、あの子は、そんなんじゃ――っ!」
髪を掴む手を離そうとしたなずなの手首に爪を立てる。痛みにもがくなずなはあやめをねめつけた。
「そう、その目よ。良かったわ。お前の使い道を見つけてあげられて」
あやめは髪から手を離すと、ゆっくりとなずなの頬を撫で下ろした。
「これからも、姉妹仲良く都を穢れから守っていきましょうね? なずなちゃん?」
なずなが震えている。
狐は力無く横たわっている。
あやめは歓喜に打ち震えている。
ココはあやめに頷いた。
「時が満ちますね」
赤いか青いかよくわからぬ顔色をしている。どちらつかずの愚鈍な娘――なずなだ。
大方、用件を伝える時機を見計らっているうちにあやめとココが睦みあい始めたので機を逸したのだろう。
「覗きが趣味なの? いやらしい。あんたみたいなのが妹なんてそれこそが穢れだわ」
「あやめさま、もういいでしょう」
ココはなずなを視界に入れるのも厭うのか、あやめを抱き上げてその場を離れようとした。しかし、なずなはふたりの行く手を遮らんと回り込んで、膝をつき頭を下げた。
「……なに?」
「あ……あのっ、あやめちゃ……あやめ、さまに、治して頂きたい子が、いて」
なずなは腕の中にいるモノをふたりに見えるように抱え直した。赤い布に包まれている。
ぐったりした狐だった。
赤い布に見えたのは血と穢れがこびりついている毛並みだ。
浅い呼吸を忙しなく繰り返しているそばから血が滲み、なずなの着物をどす黒く染めていく。
「まあ」
生臭い匂いにあやめは袖で鼻を覆う。穢れに全身を取り巻かれているせいで傷口を直接見なくて済んだのは幸運だった。
なずなの頼みを聞くのは癪だが、ココがそばにいる以上、慈悲深いヨルの巫女としてふるまっておくほうが心象がいい。
(運のいい娘ね)
あやめは狐に指先を向ける。
その時、ぐったりとしたままの狐が、突然首をもたげた。
荒い息で怒鳴るように威嚇され、あやめは怯む。
「っな……」
「だめ!」
なずなの制止を振り切り、その細腕から抜け出した狐は、力を振り絞ってあやめに噛みつかんばかりに吠えかかった。
「きゃあっ」
あの穢れと血まみれのどこにそんな力が隠されていたのか。咄嗟のことに凍りついたあやめの指先にその歯が届こうとした、その時。
「失せろ」
バシッと乾いた音がした。
「……え」
ココがかざした手のひらの下で、狐がもがいている。直接触れているわけではなく、手のひらと狐の間には空間があった。しかし狐は押さえつけられているかのように動けない。
「ココさまっ」
「あやめさま、これをどうなさいますか」
「え?」
「これはあやめさまを害しようとした畜生。如何様にも、お好きに」
ココは静かに手を引いて抱き上げていたあやめを下ろした。縛めはまだ有効らしく、狐は時折ぴくりぴくりと震えている。
その惨めな姿に、あやめはこれに恐怖を覚えたのが馬鹿らしくなる。そしてそのような姿をなずなに見られたかと思うと悔しくてたまらなくなった。頭に血が上る。
怯えたところをなずなに見られた。
なずなが連れてきたモノがきっかけだ。
つまり、なずなは自分を嗤うためにこれを連れてきたのだ。
治して欲しいなど殊勝なことを言っていたが、本音はそちらだろう。
「……許し難いわ」
手が勝手に簪を引き抜いていた。
本来の俊敏さを失った状態の無抵抗な獣は、身を震わせて裁きを待つだけだ。
あやめは簪を持つ手を振り上げる。
切っ先が生命に届かんとする、その時。
「だめ!!」
簪が切り裂いたのは、なずなの袖だった。
この間抜けで慈悲深い愚かな女は、身を呈して狐を庇ったのだ。
薄い生地では鋭利な切っ先を受け止めきるには至らず、むき出しになったなずなの腕からは薄く血が滲んでいる。
あやめは、切っ先がなずなの皮膚に引っかかった時の抵抗が伝わってきた手を固く握りしめた。
そうしていなければ、手がわななきそうだったのだ。
「あやめちゃん! なんてことをするの!」
きっとあやめを見据えたなずなの視線が、怒りに燃えていた。
今まで、いくら叩いても蹴っても抵抗ひとつしなかったなずなが。
ひそかになずなが懸想しているココと目の前で睦みあっても恨みがましい目ひとつしなかったなずなが。
みすぼらしい狐一匹を守るため、我が身を顧みずあやめに立ち向かい、真正面から叱責している。
あやめは信じられないものを見る目でなずなを――妹を、見つめた。
なずなは、こんなに鋭い目をする娘だっただろうか。
なずなは、こんなに激しい想いを秘めた娘だっただろうか。
なずなは、こんなにも凛として美しくふるまう娘だっただろう――か。
あやめの背筋に冷たいものが伝う。
肌がぞわぞわと騒ぎ出す。
脈拍が早い。視界が鮮やかに輝きだす。
五感が研ぎ澄まされていく。
「――あ」
あやめは、なずなの中に憎しみを見た。
その瞬間、あやめの中で、赤い花が爆ぜた。
「……っ!」
あやめは胸を抑えて背を丸める。
身体が熱い。
息が苦しい。
鼓動が速い。
身体が、軽い。
「あやめさま、これは」
ふらついたあやめをココが抱きとめる。はっと息を飲んだのがあやめにも伝わった。
「ココさま……何かしら、これ、とっても……」
あやめはココの腕の中で顔を上げる。
朱を帯びた目元と、唇を舌で濡らす仕草は目に毒なほど妖艶だった。
あやめはまっすぐ右手を上げる。
横たわったままの狐から瞬く間に赤黒い穢れが吸い取られていく。
狐からだけではない。屋敷を囲む塀の向こう、呻く庶民の暮らす家々が立ち並ぶ方からも、はっきりと目に見えるほどの穢れが拭い去られて空へ上っていく様子が見て取れた。
「これは」
祓った穢れが浮かぶ、赤く染まった空を見上げるココの視線を受け、あやめは胸を張って集まってきたその赤黒い穢れを指先に纏う。それはいつもと同じように、あやめの爪を艶やかに彩ってから色を消した。
あやめはなずなの前へと向かう。その足取りは今までになく軽い。
「あ、あやめちゃ――ッ!」
「なずな」
あやめはなずなの前髪を掴んで顔を上げさせる。痛みに顔をしかめる妹を見下し、あやめはうっそりと笑った。
「水臭いじゃない。お前にこんな使い道があるなんて」
「……っつ、かいみち……?」
「お前がわたしをああいう目で見た途端、力が漲ったの。おかげでヨルの巫女として申し分のない働きができそうだわ。あの畜生も気分がいいから助けてあげたのよ。今度は私に歯向かわないように躾をすることね」
「……しつけ、って、あの子は、そんなんじゃ――っ!」
髪を掴む手を離そうとしたなずなの手首に爪を立てる。痛みにもがくなずなはあやめをねめつけた。
「そう、その目よ。良かったわ。お前の使い道を見つけてあげられて」
あやめは髪から手を離すと、ゆっくりとなずなの頬を撫で下ろした。
「これからも、姉妹仲良く都を穢れから守っていきましょうね? なずなちゃん?」
なずなが震えている。
狐は力無く横たわっている。
あやめは歓喜に打ち震えている。
ココはあやめに頷いた。
「時が満ちますね」



