「ねえココさま、お尋ねしたいことがあるの」
「答えられることであれば、なんなりと」
とある夕暮れ時。
あやめは屋敷の庭をココと散歩していた。
老婆の持ち物であるこの屋敷は、暮らし始めて十年経つ今もあやめには全貌がわからぬほどの広大な敷地に建てられている。
手入れのされた庭は四季の花が咲き乱れ、澄んだ池には時折、鯉かなにかの影がゆらりと浮かんではたゆたう。
屋敷の外は穢れに犯された人々の呻き声が溢れているというのに、ここだけは別世界のように穏やかだ。
だから、あやめも気になっているのである。
「わたしは一日一度、外に出て、ひとりかふたりの穢れを祓うだけ。穢れの規模からしたら、どう考えても焼け石に水でしょう。それで本当にお役に立っているの?」
そうあやめが問うとココはふっと唇を緩めた。この男の表情は目よりも口のほうがわかりやすい。
「殊勝な心がけだ」
「答えになっていなくてよ」
「では答えを。まだ時が満ちておりません」
「……時が?」
あやめは首を傾げる。あの美しい赤い花をきっかけに芽生えた力。今の状態ではヨルの巫女として半人前だとでも言うのだろうか。
「いくらヨルの巫女といえどあれほどの穢れは人の身には耐え難きもの。柄杓の水を猪口に注いでは溢れるのみ。柄杓には茶碗を。そしてまだあなたはまだいとけない猪口だ」
「時が来れば、わたしは茶碗になるというの? それはいつ?」
「せっかちな猪口ですね。肉体の成長のように、ひととせ回れば這うが歩むに成るわけではございません。それは明日かも知れぬし三月後かもしれない」
「……もっと遅かったら?」
伸びしろがあるというのにいつまで経っても至らねば、あやめの地位も危ぶまれる。取って代わられる事態も起こりうる。どこの者ともしれぬ娘がしゃしゃりでてくるのはもちろん腹ただしい。
それがもし、なずなだったら?
考えただけで寒気がする。
なずなはいつでも劣っていた。
駆けるも読み書きも、あやめが常に先んじた。
なずなは、これからもそうでなくてはいけない。
あの出来の悪い妹が、自分を追い抜かしていくなどあってはならないのだ。
知らずのうちに強ばり険しくなっていたあやめのかんばせを、ココの大きなたなごころが包み込んだ。
「案じずとも時は必ず訪れましょう」
「……でも、もしわたしが、ふ、不出来なら」
言いたくもない言葉を口にすると口の中がざらりと苦くなるのだと、あやめは初めて知った。
しかし、あっという間にその耐え難い苦さは奪い取られる。
ココの舌が、あやめの口内に差し込まれていた。
「っ、コ……コ、さまっ、ん」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて舌先を吸われる。それだけで言いようのない不安が苦味と共に拭い去られていく。
「あやめさまが巫女として不出来など有り得ません。二度と自分をそのように省みませぬよう」
ココの言葉は長く聞いているとどこか上の空に感じられる時がある。何かを読み上げているだけの上滑りした言の葉のぬくもりは、ココ自身の体温に似て冷ややかだ。
しかし、あやめはそれを咎めたことはない。
ココは狐なのだから。
人間と同じに出来ようはずもない。
その慢心の元で耳にする睦言は憐憫を誘って心地よかった。
くちづけの合間にあやめはココの胸板に手をついて距離をとった。ゆっくりとかぶりを振る。
視界の端に、庭木がかすかに揺れている。
「でも……こわいわ。ほんとうに……?」
「嘘は言いません。あやめさまはヨルの巫女。ココの器にふさわしき、ただひとり」
淡々と真摯な言葉が降ってくる。
あやめしか目に入らぬ男の慕情を真正面から受け止めている。
「嬉しい……!」
あやめはココの胸に飛び込んだ。今度は自らくちづけをねだる。苦いだけだった舌が、ココの技巧で甘く染まっていく。
(ああ、こんな気持ちもあるのね。悪くないわ。でも……)
「そこで何をしているの、なずな」
ココの腕の中から浴びせた言葉の冷や水は、庭木の影から不届き者を引きずり出した。
「答えられることであれば、なんなりと」
とある夕暮れ時。
あやめは屋敷の庭をココと散歩していた。
老婆の持ち物であるこの屋敷は、暮らし始めて十年経つ今もあやめには全貌がわからぬほどの広大な敷地に建てられている。
手入れのされた庭は四季の花が咲き乱れ、澄んだ池には時折、鯉かなにかの影がゆらりと浮かんではたゆたう。
屋敷の外は穢れに犯された人々の呻き声が溢れているというのに、ここだけは別世界のように穏やかだ。
だから、あやめも気になっているのである。
「わたしは一日一度、外に出て、ひとりかふたりの穢れを祓うだけ。穢れの規模からしたら、どう考えても焼け石に水でしょう。それで本当にお役に立っているの?」
そうあやめが問うとココはふっと唇を緩めた。この男の表情は目よりも口のほうがわかりやすい。
「殊勝な心がけだ」
「答えになっていなくてよ」
「では答えを。まだ時が満ちておりません」
「……時が?」
あやめは首を傾げる。あの美しい赤い花をきっかけに芽生えた力。今の状態ではヨルの巫女として半人前だとでも言うのだろうか。
「いくらヨルの巫女といえどあれほどの穢れは人の身には耐え難きもの。柄杓の水を猪口に注いでは溢れるのみ。柄杓には茶碗を。そしてまだあなたはまだいとけない猪口だ」
「時が来れば、わたしは茶碗になるというの? それはいつ?」
「せっかちな猪口ですね。肉体の成長のように、ひととせ回れば這うが歩むに成るわけではございません。それは明日かも知れぬし三月後かもしれない」
「……もっと遅かったら?」
伸びしろがあるというのにいつまで経っても至らねば、あやめの地位も危ぶまれる。取って代わられる事態も起こりうる。どこの者ともしれぬ娘がしゃしゃりでてくるのはもちろん腹ただしい。
それがもし、なずなだったら?
考えただけで寒気がする。
なずなはいつでも劣っていた。
駆けるも読み書きも、あやめが常に先んじた。
なずなは、これからもそうでなくてはいけない。
あの出来の悪い妹が、自分を追い抜かしていくなどあってはならないのだ。
知らずのうちに強ばり険しくなっていたあやめのかんばせを、ココの大きなたなごころが包み込んだ。
「案じずとも時は必ず訪れましょう」
「……でも、もしわたしが、ふ、不出来なら」
言いたくもない言葉を口にすると口の中がざらりと苦くなるのだと、あやめは初めて知った。
しかし、あっという間にその耐え難い苦さは奪い取られる。
ココの舌が、あやめの口内に差し込まれていた。
「っ、コ……コ、さまっ、ん」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて舌先を吸われる。それだけで言いようのない不安が苦味と共に拭い去られていく。
「あやめさまが巫女として不出来など有り得ません。二度と自分をそのように省みませぬよう」
ココの言葉は長く聞いているとどこか上の空に感じられる時がある。何かを読み上げているだけの上滑りした言の葉のぬくもりは、ココ自身の体温に似て冷ややかだ。
しかし、あやめはそれを咎めたことはない。
ココは狐なのだから。
人間と同じに出来ようはずもない。
その慢心の元で耳にする睦言は憐憫を誘って心地よかった。
くちづけの合間にあやめはココの胸板に手をついて距離をとった。ゆっくりとかぶりを振る。
視界の端に、庭木がかすかに揺れている。
「でも……こわいわ。ほんとうに……?」
「嘘は言いません。あやめさまはヨルの巫女。ココの器にふさわしき、ただひとり」
淡々と真摯な言葉が降ってくる。
あやめしか目に入らぬ男の慕情を真正面から受け止めている。
「嬉しい……!」
あやめはココの胸に飛び込んだ。今度は自らくちづけをねだる。苦いだけだった舌が、ココの技巧で甘く染まっていく。
(ああ、こんな気持ちもあるのね。悪くないわ。でも……)
「そこで何をしているの、なずな」
ココの腕の中から浴びせた言葉の冷や水は、庭木の影から不届き者を引きずり出した。



