手ぶらになった両手で、帽子を押さえながらひたすら走る。
こんなに走ったのはいつぶりだろうか。
息も絶え絶え、見慣れたマンションに辿り着く。
誰かに見られずに帰って来られた事に安堵しながら、玄関のドアを勢いよく開いた。

「お母さん!」

狭い廊下を突き抜けた先にお母さんの丸い背中が見える。

「あら、おかえり、早かったわね」

振り返った顔は、健康的な体とは対照的なやつれ顔で、目の下に立派な隈が出来ていた。けど、今はそんな事を気にしている余裕は無い。

「ねぇ、みっちゃんが下宿始めるって知ってた!?」
「え? あー、そういえばそんな事言ってたかもね」
「どうして教えてくれな――って、何してるの?」

気怠そうに返事をするお母さんの手元には、大きな口を開けて荷物を待っているキャリーケース。

「見れば解るでしょ。荷造り」
「え? 友達と旅行にでも行くの?」
「まさか、出張よ出張。さっきいきなり連絡来ちゃって――」
「出張!?」
「そ、だから悪いけど、明日から夕飯はみっちゃんの家で食べてくれる? お父さんも帰りはそっちに行くように言っといたから」
「そうなんだ、仕事大変だね――って、ちょ、ちょっと待って!」

みっちゃんの家には大神君がいるのに!

「何? どしたの?」
「大丈夫だよお母さん。私もう高校生だよ。ご飯くらい作れるよ」
「何言ってるの、出張は一週間よ。一日ならまだしも、一週間も鈴の手料理を食べさせたら、お父さんの体が心配だわ」
「そ、それは……」

記憶に新しいキッチンでの大失敗が頭を過り、返す言葉が見つからない。

「今まで何度もあった事じゃない。いつもは喜んでたのにどうしたの?」
「だって、みっちゃんの家には大神君が――」
「大神君?」
「みっちゃんの家に下宿する人、クラスメイトの男子なの」
「あらそう、知り合いで良かったわね。ま、そういう事だから、よろしく」
「よ、よろしくって――」

私の抗議も虚しく、荷造りを完了させたお母さんは、キャリーケースをポンと叩いて部屋を出て行った。

どうしよう。
ぜんぜんよろしくできる気がしない。
明日が不安になった……。



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