「なぁヨル、スマホ出して」
「どうして?」
「連絡先だよ。まだ交換してないだろ」
「……交換しなくてもいいんじゃないかな」
「は?」
思いもよらない発言に俺は目が点になる。危うく持っていたコーヒーを落とすところだった。
混乱する俺とは反対にヨルはニコニコとしていた。
「デートの終わりに次の待ち合わせ場所を決めちゃえば、連絡先がなくても困らないでしょ」
「いつの時代のカップルだよ。昔のカップルだって実家の電話番号くらい知ってるぞ」
「そうなんだ。詳しいね」
酔っ払った親父が嬉しそうに「母さんの連絡先は実家の番号しか知らなくてな、いつも緊張しながらかけてたんだよ〜」と話していたのを思い出す。
今は発展して一人一台スマホを持つ時代になったのだから、頼らない理由がない。
「どうせ一ヶ月後には消しちゃうだろうし、交換しなくてもいいでしょ」
「でも、知ってる方がいいだろ。体調不良になったとか、急に用事ができる可能性もある。トラブルがあったときに連絡できなきゃ、困るのは待つ側だ」
「そっか。それもそうだね」
ようやく交換してくれる気になったか。俺がポケットからスマホを取り出すと、「そうだ」とヨルは閃いた表情に変わる。
「待ち合わせに一時間来なかったら、その日は解散。翌日また待ち合わせってことで」
無茶苦茶だ。友人でもそんな待ち合わせの方法はしない。
そこまでして連絡先を教えたくないのか。一応彼氏なのに信頼されていないのかと少し悲しくなる。なにかと理由をつけて、この調子だと交換しないという流れになりそうだ。
「……まぁいいや。その方法で待ち合わせな」
偽名、連絡先交換NG、一時間待ちで解散。普通の交際とはかけ離れているのに、不思議と怒りは湧いてこなかった。今さら変なところで常識を振りかざしても意味がない気がしたから。
「ありがと。変わってて面白いでしょ」
「変わりすぎててついていくのに大変だけどな」
「まぁまぁ。それも私たちの付き合い方ってことで」
元カノが順当に付き合ったから、変化の違いに戸惑っている。デートは計画的で連絡もマメにしていた。よく考えなくても、それが普通だ。もし今のような付き合い方をしている人がいたら会ってみたい。多分いないと思う。
すっかり飲み頃になったコーヒーを飲み終え、俺たちは駅まで向かう。まだ夕方過ぎだというのに、冬だからか空は夜となんら変わらない色をしていた。
歩いている途中、ヨルは立ち止まって俺の顔を覗き込む。俺は何事かと立ち止まる。
「どうした?」
「寒いし、手繋ぐ?」
「遠慮しとく」
俺はスタスタと歩みを再開させる。ヨルは「ちょっと待ってよー」と俺の後を追う。
「即答されるのは悲しいよ。あ、もしかして恥ずかしいとか? 彼女なんだし恥ずかしがらなくてもいいんだよ」
残念そうな口ぶりだが、話し方から落ち込む様子は一ミリもなかった。繋げたらラッキーくらいの気持ちだったのだろう。気軽に繋ごうと言わなくて良かった。ここで繋ごうと言ったらヨルを調子に乗らせてしまう。
彼女になったとはいえ、俺は初対面の女子と手を繋ぐような人間ではない。せめてもう少しヨルという人物がどんな人となりなのかを知ってからだ。初対面の女の子と彼女になったのに、今さら気にするのかと言われてしまえばそれまでだが。
駅に着き、改札を抜けて俺が帰る方面のホームに来た。ヨルもついてきたということは、家はこっちの方向なのか。こうして少しでもヨルの情報を手に入れていこう。
数分もしないうちに電車が来たので乗り込む。最寄り駅まではそれほどかからないから立っていよう。
発車音が鳴り、ドアが閉ま――
「じゃあね」
閉まるところでヨルは電車から降りた。俺は慌ててドアに張りつき、食らいつかんばかりの勢いで車外を見つめる。ヨルは呑気に笑顔で手を振って俺を見送っていた。電車は発車し、ヨルとの距離が離れていく。
姿が完全に見えなくなるまで、ヨルは俺に向けて手を振っていた。
なんだこれ、意味が分からない。俺は脱力し、空いていた席に座り込む。肩の力が抜けて背もたれに寄りかかった。
どこまでもヨルは俺の一歩先を行っているような気がする。とにかく予想しないことばかりが俺の身に降りかかっている。
電車のアナウンスをぼんやりと聞きながら、俺はここ数時間で起きたことを振り返ることにした。
フラれた気持ちをどうにかしようとバッティングセンターに向かったのに、まさか新しい彼女ができるとは思わなかった。しかもきちんと次のデート先まで決まっている。
告白もされていない、連絡先も交換していない、ただの口約束の関係。冷静になり始めた頭で考えると、意味が分からないことの連続だ。
明日、か。呟きかけた言葉を頭で反芻する。
明後日とか来週とか言わないあたり、ヨルも割と暇なのだろう。だが、ヨルがどんな人物像なのかはまだ掴めない。電車の中でゆっくり話せるかと思ったのに、まさかギリギリで下車するなんて思わなかったから。
もしかして、ヨルは過去に出会っている同級生なのではと予想した。
帰宅するや否や、夕食が用意されているリビングを通り過ぎて部屋へと直行した。小学校と中学校の卒業アルバムを引っ張り出して、個人写真を一人ひとり確認する。が、ヨルに該当する人物は見当たらなかった。
では、本当に赤の他人が俺に話しかけ、彼女になろうと言ってきたのだという事実が俺に襲いかかる。なにがきっかけで、なにが理由で俺に彼女になろうと言ってきたのか。
俺なんかに彼女になろうと言っても特になんの得があるわけではない。芸能人やインフルエンサーならまだしも、俺はただの一般人だしSNSアカウントもリア垢しかない。
新手の詐欺かと変な考えも頭をよぎる。だがどんな詐欺かと言いたくなるし、バッティングセンターで詐欺に引っかけようなんて思う人は間違いなくいない。
そこまで思案して、俺は考えることをやめた。これ以上は頭が疲れていて正常な判断ができない気がする。とにかく、ヨルが今日限りの冗談じゃないかは明日行ってみれば分かる話だ。
腹も減ったし、親も俺を呼んでいる。コーヒーを飲んだが、やはり胃袋は固形物を求めていたようだ。部屋に来る途中に横目で見たが、今日は生姜焼きだった。肉を食べて元気を取り戻そう。
俺は部屋着に着替えて、いい匂いがするリビングへと向かった。
「どうして?」
「連絡先だよ。まだ交換してないだろ」
「……交換しなくてもいいんじゃないかな」
「は?」
思いもよらない発言に俺は目が点になる。危うく持っていたコーヒーを落とすところだった。
混乱する俺とは反対にヨルはニコニコとしていた。
「デートの終わりに次の待ち合わせ場所を決めちゃえば、連絡先がなくても困らないでしょ」
「いつの時代のカップルだよ。昔のカップルだって実家の電話番号くらい知ってるぞ」
「そうなんだ。詳しいね」
酔っ払った親父が嬉しそうに「母さんの連絡先は実家の番号しか知らなくてな、いつも緊張しながらかけてたんだよ〜」と話していたのを思い出す。
今は発展して一人一台スマホを持つ時代になったのだから、頼らない理由がない。
「どうせ一ヶ月後には消しちゃうだろうし、交換しなくてもいいでしょ」
「でも、知ってる方がいいだろ。体調不良になったとか、急に用事ができる可能性もある。トラブルがあったときに連絡できなきゃ、困るのは待つ側だ」
「そっか。それもそうだね」
ようやく交換してくれる気になったか。俺がポケットからスマホを取り出すと、「そうだ」とヨルは閃いた表情に変わる。
「待ち合わせに一時間来なかったら、その日は解散。翌日また待ち合わせってことで」
無茶苦茶だ。友人でもそんな待ち合わせの方法はしない。
そこまでして連絡先を教えたくないのか。一応彼氏なのに信頼されていないのかと少し悲しくなる。なにかと理由をつけて、この調子だと交換しないという流れになりそうだ。
「……まぁいいや。その方法で待ち合わせな」
偽名、連絡先交換NG、一時間待ちで解散。普通の交際とはかけ離れているのに、不思議と怒りは湧いてこなかった。今さら変なところで常識を振りかざしても意味がない気がしたから。
「ありがと。変わってて面白いでしょ」
「変わりすぎててついていくのに大変だけどな」
「まぁまぁ。それも私たちの付き合い方ってことで」
元カノが順当に付き合ったから、変化の違いに戸惑っている。デートは計画的で連絡もマメにしていた。よく考えなくても、それが普通だ。もし今のような付き合い方をしている人がいたら会ってみたい。多分いないと思う。
すっかり飲み頃になったコーヒーを飲み終え、俺たちは駅まで向かう。まだ夕方過ぎだというのに、冬だからか空は夜となんら変わらない色をしていた。
歩いている途中、ヨルは立ち止まって俺の顔を覗き込む。俺は何事かと立ち止まる。
「どうした?」
「寒いし、手繋ぐ?」
「遠慮しとく」
俺はスタスタと歩みを再開させる。ヨルは「ちょっと待ってよー」と俺の後を追う。
「即答されるのは悲しいよ。あ、もしかして恥ずかしいとか? 彼女なんだし恥ずかしがらなくてもいいんだよ」
残念そうな口ぶりだが、話し方から落ち込む様子は一ミリもなかった。繋げたらラッキーくらいの気持ちだったのだろう。気軽に繋ごうと言わなくて良かった。ここで繋ごうと言ったらヨルを調子に乗らせてしまう。
彼女になったとはいえ、俺は初対面の女子と手を繋ぐような人間ではない。せめてもう少しヨルという人物がどんな人となりなのかを知ってからだ。初対面の女の子と彼女になったのに、今さら気にするのかと言われてしまえばそれまでだが。
駅に着き、改札を抜けて俺が帰る方面のホームに来た。ヨルもついてきたということは、家はこっちの方向なのか。こうして少しでもヨルの情報を手に入れていこう。
数分もしないうちに電車が来たので乗り込む。最寄り駅まではそれほどかからないから立っていよう。
発車音が鳴り、ドアが閉ま――
「じゃあね」
閉まるところでヨルは電車から降りた。俺は慌ててドアに張りつき、食らいつかんばかりの勢いで車外を見つめる。ヨルは呑気に笑顔で手を振って俺を見送っていた。電車は発車し、ヨルとの距離が離れていく。
姿が完全に見えなくなるまで、ヨルは俺に向けて手を振っていた。
なんだこれ、意味が分からない。俺は脱力し、空いていた席に座り込む。肩の力が抜けて背もたれに寄りかかった。
どこまでもヨルは俺の一歩先を行っているような気がする。とにかく予想しないことばかりが俺の身に降りかかっている。
電車のアナウンスをぼんやりと聞きながら、俺はここ数時間で起きたことを振り返ることにした。
フラれた気持ちをどうにかしようとバッティングセンターに向かったのに、まさか新しい彼女ができるとは思わなかった。しかもきちんと次のデート先まで決まっている。
告白もされていない、連絡先も交換していない、ただの口約束の関係。冷静になり始めた頭で考えると、意味が分からないことの連続だ。
明日、か。呟きかけた言葉を頭で反芻する。
明後日とか来週とか言わないあたり、ヨルも割と暇なのだろう。だが、ヨルがどんな人物像なのかはまだ掴めない。電車の中でゆっくり話せるかと思ったのに、まさかギリギリで下車するなんて思わなかったから。
もしかして、ヨルは過去に出会っている同級生なのではと予想した。
帰宅するや否や、夕食が用意されているリビングを通り過ぎて部屋へと直行した。小学校と中学校の卒業アルバムを引っ張り出して、個人写真を一人ひとり確認する。が、ヨルに該当する人物は見当たらなかった。
では、本当に赤の他人が俺に話しかけ、彼女になろうと言ってきたのだという事実が俺に襲いかかる。なにがきっかけで、なにが理由で俺に彼女になろうと言ってきたのか。
俺なんかに彼女になろうと言っても特になんの得があるわけではない。芸能人やインフルエンサーならまだしも、俺はただの一般人だしSNSアカウントもリア垢しかない。
新手の詐欺かと変な考えも頭をよぎる。だがどんな詐欺かと言いたくなるし、バッティングセンターで詐欺に引っかけようなんて思う人は間違いなくいない。
そこまで思案して、俺は考えることをやめた。これ以上は頭が疲れていて正常な判断ができない気がする。とにかく、ヨルが今日限りの冗談じゃないかは明日行ってみれば分かる話だ。
腹も減ったし、親も俺を呼んでいる。コーヒーを飲んだが、やはり胃袋は固形物を求めていたようだ。部屋に来る途中に横目で見たが、今日は生姜焼きだった。肉を食べて元気を取り戻そう。
俺は部屋着に着替えて、いい匂いがするリビングへと向かった。
