その夜は、雨が降っていた。
しとしとと静かに、社の屋根を打つ雨音は、まるで昔語りの序奏のようだった。

 

「八雲さま、今夜は少し、冷えますね……」

 

わたしは八雲さまの羽織を借りて、寝殿の縁側に座った。
雨にけぶる山の木々を見つめていると、背後から、ふわりと彼の気配が降ってくる。

 

「綾女、ここにいたか。……濡れてはおらぬか?」

 

「ええ、大丈夫です。……なんだか、雨の日って、少しだけ、寂しい気持ちになりませんか?」

 

「……そうだな。雨の音は、昔の記憶を呼び覚ます」

 

八雲さまは、わたしの隣に座り、雨に煙る夜をしばらく見つめていた。
その表情は、どこか遠いものを見ているようだった。

 

「……綾女。今日は少し、私のことを話してもいいか」

 

「……はい。八雲さまのこと、もっと知りたいです」

 

風が、やわらかく窓を打つ中、八雲さまはゆっくりと話し始めた。

 

「……私がこの社の神になったのは、千年ほど前のことだ」

 

(……千年……)

 

「もともとは、ある国の大地主神でな。
里の守り神として崇められ、人々の暮らしを見守っていた」

 

「けれど、時代が移り、信仰も忘れられ……
いつしか、私は“必要とされない神”になった。
誰にも呼ばれず、声も届かず、ただ山奥で風と語る日々を過ごしていたのだ」

 

その声は、静かで穏やかだけれど、どこか胸に沁みる深い孤独を含んでいた。

 

「……寂しく、なかったんですか?」

 

「……とても、寂しかった。
だから、風に名を呼ばれるたびに心が震えた。
そして、綾女――そなたが初めてこの社に来たとき、私は久しく感じたことのない“熱”を覚えた」

 

八雲さまが、わたしの手を取る。

 

「小さな声で祈るそなたが、涙をこらえて参道を登った姿を、私は忘れられない。
あの瞬間、私は再び“神”として在れると感じた。
いや、それ以上に――“誰かのために在りたい”と、心から思った」

 

わたしの胸に、じんと熱いものがこみ上げてくる。

 

「……わたし、八雲さまと出会えて、本当に、よかった」

 

「……ありがとう、綾女」

 

その言葉と共に、わたしたちは目を合わせた。
雨音が、静かに背景になる。
手と手が、熱を分け合うように重なる。

 

「綾女。……今夜、そなたを抱いてもよいか」

 

ふいに囁かれたその声に、わたしの心臓は跳ねた。

 

「……わたしも、八雲さまに……触れていただきたいです」

 

 

* * *

 

寝殿の灯りが淡く揺れている。
八雲さまの手が、わたしの髪をそっとすくい、指先で頬に触れる。

 

「……あたたかいな。やはり、そなたは春のひとだ」

 

「八雲さまの手のほうが、もっと……」

 

言葉の途中で、くちづけが降る。

 

やわらかく、深く、やさしく、
まるで風が、わたしの奥深くに流れ込んでくるようなキスだった。

 

肌に触れる指先は驚くほど繊細で、
まるで宝物に触れるように、何度も何度も、髪を撫で、耳に触れ、肩を包んでくれる。

 

「綾女……そなたが、愛おしい。この命をすべて捧げても、惜しくはないほどに」

 

「……そんなの、だめです。ずっと、そばにいてください……八雲さま……」

 

彼の体温が、布団の中にゆるやかに満ちていく。

 

くちづけを重ねるたびに、
わたしの身体は、八雲さまの想いを受け取っていくみたいに、奥まで、奥まで、温かくなってゆく。

 

互いの呼吸を感じながら、何度も名前を呼び合って――
肌と肌が重なるたび、魂が触れ合うように、心の奥が結び合っていった。

 

「……愛してる、綾女」

 

「わたしも……八雲さま、大好きです……」

 

そう言ったとき、窓の外の雨はすっかり止んでいて、
澄んだ月の光が、ふたりの上にそっと降りていた。

 

その光に包まれながら、
わたしはもう一度、八雲さまの胸に顔を埋めて――

 

永遠を、祈るように、願った。