「今日は、街へ降りてみようか」
そんなふうに八雲さまが言ったのは、ある春の朝だった。
「……えっ? 山を、出るんですか?」
「うむ。たまには、人の世の風を感じたくなる」
「でも……八雲さまは、神さまで……」
「神もたまには、妻と手をつないで街を歩きたくなるものだ」
さらりと、そんな甘いことを言われてしまって――わたしの顔は、ぽかぽかと赤く染まった。
「わ、わたし、街の服も、靴も、持ってません……」
「ならば、この衣を」
そう言って、八雲さまが手を差し出すと、ふわりと風が巻き上がり――
次の瞬間、わたしの体に、やわらかな薄紅の着物が纏われていた。
小紋柄に桜の刺繍。袖も裾も軽やかで、春の風のように揺れている。
「……すごい……! これ……風でできてる……?」
「風を織った布だ。軽くて、温かい」
そして、わたしの髪にも、薄い花びらのような飾りが舞い降りて。
気づけば八雲さまも、町人風の浅葱色の羽織に身を包まれていた。
「では、手を――」
「……は、はいっ」
そっと差し出されたその手を、ぎゅっと握る。
指先から伝わるぬくもりに、どきどきが止まらなかった。
* * *
麓の町は、朝市でにぎわっていた。
行き交う人々の笑い声。
香ばしい焼き菓子の匂い。
ゆるやかに流れる川の音、春の陽射しにきらめく反物屋の色とりどりの反物――
「……久しぶり、です。こんなふうに、人の中を歩くの……」
「楽しいか?」
「はいっ……でも、なんだか夢みたいです。こうして、八雲さまと……こんな普通の場所で、手をつないで歩けるなんて……」
「これは、夢ではないぞ」
八雲さまがそっとわたしの肩に腕を回して、頭をぽんと撫でてくださる。
「そなたと共にある一瞬一瞬が、現(うつつ)であり、奇跡だ」
(……もう……甘すぎます、八雲さま……)
照れ隠しに、近くの屋台を指さした。
「……あの、あれ。あんみつ……食べてみたいです」
「ふむ。あの黒蜜をかけた小さな食べ物だな」
「お、おいしいですよ! たぶん!」
わたしが店の前で注文している間、八雲さまは隣で屋台の主にじっと見つめられていた。
「旦那さん、……あんた、顔が綺麗すぎるな……まさか舞台の人か?」
「……いや、妻にあんみつを買いにきただけだ」
(あっ、さらっと“妻”って……!)
顔がまた熱くなってしまう。
そしてふたりでひとつのあんみつを分け合って、
八雲さまが黒蜜に少し困りながら食べる様子に、くすっと笑ってしまった。
「……こんなふうに、笑う綾女を見られて、私はしあわせだ」
「わたしも……です」
そう言ったあと、思わず黙ってしまったのは――
きっと胸の中が、あったかすぎて、言葉が追いつかなかったから。
* * *
そのあと、雑貨屋で風鈴を見たり、団子を食べたり、
川辺で並んで腰掛けて、手をつないだまま春風を感じたり。
神さまと人という境が、まるでどこにもなかったように、自然に、心地よくて――
「八雲さま……いつか、こんな日々が終わってしまうのが、こわいです」
そっと呟いたわたしに、八雲さまは指先で髪をすくって、額にそっと口づけをくれた。
「終わりなど、ない。
季節は巡っても、私の心は変わらぬ。
綾女――そなたが“此処にいてくれる”限り、私は、ずっとそばにいる」
わたしは、ぎゅっと彼の袖をつかんだ。
「……じゃあ、わたしも、絶対離れません」
「ふふ、それは頼もしい」
わたしたちはそのまま、川辺に並んで座りながら、
静かに、互いの手を包み合った。
夕日が落ちるころ、八雲さまは言った。
「また来よう。何度でも、そなたと共に」
その声が、風の中にやさしく溶けて――
ふたりの恋は、今日もあたたかく、甘く、風にのって続いてゆく。



