春の光が、やわらかく山を包んでいた。
社には、桃の花が咲き、淡い香りが境内いっぱいに広がっている。

 

「花の香りが、風にのって……ふふっ、まるで祝福されてるみたいですね」

 

湧水を汲みながら、思わず笑みがこぼれる。

 

すると後ろから、くすっと甘い声が響いた。

 

「それは――綾女が、春そのものだからだ」

 

「えっ……?」

 

振り向けば、八雲さまが、白木の枝を手に立っていた。
淡い桃花が一輪、その髪にそっと触れたとき――風が静かに揺れる。

 

「……春の陽のように、穏やかで、柔らかくて。なのに、芯には強い光を宿している。私は、そなたのような春風に、ようやく巡り逢えたのだな」

 

ふいに、手を取られた。

そのまま、彼の胸元に引き寄せられる。

 

「……八雲さま?」

 

「綾女。私と、婚礼をあげよう。正式な、神前の儀として。この社の主として、そなたを迎えたい。“伴侶”として、日々を、永遠を共にしてほしい」

 

あたたかな瞳が、まっすぐにわたしを見る。
その言葉に――わたしの胸は、そっときゅっと、甘く締めつけられた。

 

「……はい。わたしで、よろしければ……」

 

「それはもう、ずっと願っていたことだ」

 

頬を、指先がそっとなぞる。
それだけで、心がふわりと浮かぶようで、目が合うのが恥ずかしくて、でも、うれしくて――

 

「八雲さま、大好きです……」

 

その言葉に、八雲さまが微笑まれた。

 

「それが聞きたかった、綾女」

 

* * *

 

神前の婚礼は、満月の夜に行われた。

 

神木のもとに、光の道が伸び、風の鈴が優しく鳴る。
白無垢を纏ったわたしは、八雲さまの手を引かれて、静かに社殿へと進んでいった。

 

「これより、神と人の魂を結ぶ婚儀を執り行う――」

 

風が奏でる音と、森のざわめきが、まるで祝福の唄のようだった。
祭壇に、ひとひらの花が舞い降りる。
それが、ふたりの掌に乗ったとき――八雲さまは、わたしに向かって囁かれた。

 

「この手を、離さぬ」

 

「はい。……わたしも、離れません」

 

ふたりの言葉が、風に乗って、空へと昇っていく。

 

そして、八雲さまの手が、わたしの頬に触れた。
額に、そっと口づけを落とされる。
そのぬくもりは、春の陽だまりのようで――涙が、ぽろりとこぼれた。

 

「……どうして泣くのだ?」

 

「しあわせすぎて……夢じゃないかって、思ったんです」

 

「では、確かめてみよう。これは、夢などではないと――」

 

八雲さまの腕が、わたしの腰にまわされる。
そして、もう一度――今度は、そっと唇が、わたしの唇に触れた。

 

やわらかく、長く、甘やかに。

 

(……こんなにも、あたたかいキスがあるなんて)

 

空には満月。
社のすべてが、ふたりを祝福していた。

 

* * *

 

――その夜。

 

婚礼を終えたわたしたちは、静かに、社の奥にある寝殿でふたりきりになった。

 

「綾女。今日から、ここがそなたの部屋ではなく、ふたりの部屋だ」

 

「……はい。すこし……緊張します」

 

「……緊張するほどのことは、しないつもりだったのだが……」
八雲さまは、そっと耳元に囁いた。

 

「……そなたが、あまりに愛おしくて、理性が揺らぎそうだ」

 

「や、八雲さま……!」

 

布団の上で、そっと隣に座られ、わたしの髪に指を絡める。

 

「神である私も、人であるそなたといるときは、ただの男になる」

 

耳まで熱くなってしまい、思わず顔を覆う。
けれどその手を、そっと八雲さまが外してくださった。

 

「顔を見せてくれ。私は、そなたのすべてが好きなのだ」

 

言葉にならないほど、甘い夜だった。

手を重ね、額を重ね、吐息を重ね――
神さまが、こんなに人を、あたたかく、深く愛してくださるなんて。

 

「綾女。ずっと、そなたを愛している。
日々、共に目覚め、共に眠ることが……これほどまでに幸福とはな」

 

「わたしも……八雲さまと過ごす毎日が、一番の宝物です……」

 

そして、夜が明けるころ。

わたしの指に、八雲さまが編んだ花の指輪がはめられていた。

 

「契りの印だ。いつか人の世に戻る日が来ても、これがそなたの手にあれば、私は必ず迎えにいく」

 

わたしは、泣き笑いで頷いた。

 

永遠に、この春の風と共に――
神さまの隣で、ただひとりの花嫁として生きていけることが、なによりの奇跡だった。