――それは、風の強い朝だった。
神婚の儀から数日。
わたしは社での暮らしにすっかり馴染み、八雲さまと過ごす時間が日に日に愛おしくて、心がまるで春の陽だまりのようにぬくもっていた。
朝の祈りのあと、境内で湧水を汲んでいると、後ろから八雲さまがそっと寄り添ってくださった。
「綾女。……冷えはせぬか?」
「だ、大丈夫です……! でも、その、こうしていただけるなら……」
思わずうつむくわたしに、八雲さまはふふっと笑いながら、そっとわたしの手を包んでくださる。
「……温めてあげよう。そなたの指先、きっと今日も美しい音を宿している」
「音……?」
「風は、そなたの指先を好むのだ。
こうして触れるだけで、私にも伝わる――綾女の、やさしい心が」
ふっと、わたしの肩に、額を寄せてくださった。
それは神さまと人という距離を越えた、あまりに甘やかなぬくもり。
(……こんなふうに、毎日が過ぎていくなら――)
夢みたい、と胸を押さえて微笑んだ、そのとき。
社の境界が、静かにざわめいた。
「……誰かが、来ています」
わたしの言葉に、八雲さまはすぐに眉をひそめた。
「この風の歪み……禍つ気配だ」
数瞬のうちに、社の結界がぶわりとざわめき、空気が張り詰める。
そして、そこに現れたのは――
「久しぶりね、姉さま」
綾音だった。
漆黒の打掛に、金刺繍の文様。
ひと目でただ者ではない、と分かる気配を纏い、美しく微笑むその姿は、まるで妖そのもの。
「まさか本当に神さまの花嫁になってるなんて。お父さまもびっくりしてたわよ。“役立たずの姉が、神の嫁だなんて”って」
その声は、笑っているのに冷たく、鋭く、爪を立てるようだった。
「綾音、そなたがこの神域を踏む資格はない。引き返せ」
八雲さまの声が低く響く。
けれど綾音は、まったく怯まなかった。
「ねえ、神さま。綾女姉さまじゃなくて、わたしのほうを、花嫁にしませんか?」
その言葉に、風がぴたりと止まった。
わたしは思わず息を呑む。
けれど八雲さまの表情は、少しも揺れなかった。
「……綾音。そなたは、美しく、才にも恵まれているだろう。だが、それは“他者を傷つけて得た輝き”だ。私はそんなものに、心を預けはせぬ」
「……は、ぁ?」
綾音の顔が、わずかにひきつった。
けれどその瞬間、わたしは気づいた。
綾音の纏う気配――それが、どこか人のものではないことに。
「綾音……まさか……」
「気づいた? 姉さま。“神の嫁”なんて、美味しい立場……黙って見逃すわけ、ないじゃない」
綾音の瞳がぎらりと光る。
「わたし、ずっと見てたの。姉さまが、屋敷から追い出されたあとも、神さまと、毎日あまあまに暮らしてるって知ったとき……吐きそうだったわ」
風が、ぴしりと鳴る。
「全部、欲しかったの。家の誇りも、父の愛も、神の寵愛も……全部、全部、わたしのものにしたかった」
その声は、もはや人のものではなかった。
黒い靄が綾音の足元に渦巻き、何か邪なるものと“契り”を交わした気配が、漂ってくる。
「綾音、そなた……“呪詛”を使ったのか」
八雲さまが険しい顔をされる。
「ええ。神力が宿った姉さまに勝つには、それしかないじゃない」
綾音が掲げた掌から、黒い瘴気が飛ぶ。
それはまるで毒針のように、わたしへと向かってきて――
「危ない!」
どん、と強く抱き寄せられた。
八雲さまが、わたしの身体を抱え込むようにして、庇ってくださった。
「っ……八雲さま!」
「……綾女、私の声を聞け」
「え……?」
「私の神力と、そなたの魂はすでに結ばれている。
そなたには“風の加護”がある。恐れるな。綾女――“そなた自身”の力で、立ち向かうのだ」
手が、重なる。
その瞬間、胸の奥から、光があふれた。
「……あっ……!」
風が――鳴いた。
わたしの掌から、まっすぐに、やわらかな風が吹き出し、綾音の呪詛を包み込む。
鋭い黒い気配は、たちまち風に祓われ、光の粒へと変わって消えていった。
綾音が、よろめいた。
「……な、んで……どうして、あんたみたいな姉に……!いつも、比べて、下で、みっともなくて、“いないほうがいい”って言われてきたくせに!」
わたしは、ただ静かに言った。
「わたしも、そう思っていたよ。でも、八雲さまが言ってくれたの。“そなたは、綾女であればいい”って……」
涙が頬を伝う。
「わたしは、誰かと比べるために生まれてきたんじゃない。八雲さまの花嫁として、ここにいる。……それだけで、もう十分だから」
八雲さまが、わたしの肩に手を置いた。
「綾音。そなたの心は、あまりに傷つきすぎていた。だが、もうこれ以上は許されぬ。この社から去れ。そして二度と、綾女に手を出すな」
綾音の身体がふっと浮かび、風に乗って山のふもとへと押し返されていった。
黒い気配も、静かに散っていく。
静寂の中。
八雲さまが、そっとわたしの顔に手を添えられた。
「……綾女。よく、がんばったな」
「……っ……八雲さま……」
「そなたが、自らの力で立ったことが、私は何よりうれしい」
そして、八雲さまの唇が、そっと、わたしの額に触れた。
「もう、恐れるものはない。そなたは私の花嫁であり、風の姫。誰よりも美しく、強く、そして――誰よりも、愛しい」
胸の奥が、熱くなる。
「……わたしも、八雲さまを……」
ようやく告げられた“好き”の気持ちは、
神の手の中で、甘く、やわらかく、風のように包まれていった。



