社の朝は、変わらず穏やかだった。
けれどわたしの中には、確かに――昨日までとは違う“何か”が、息づいていた。

 

鳥の鳴き声がひときわ鮮やかに聞こえる。
苔の上に落ちる朝露の粒が、ひとつひとつ宝石のように光って見える。
風が頬を撫でるだけで、木々の囁きが耳に届くような、そんな感覚。

 

(……これが、神さまの力……?)

 

神婚の儀を終えたその瞬間、わたしの身体の奥に宿った“温かな灯火”。
それはまるで、八雲さまの鼓動とひとつになったような、不思議な安心と強さをくれた。

 

「綾女。少しばかり、力を試してみようか」

 

朝の拝礼を終えたあと、八雲さまがやわらかに声をかけてくださった。

 

「……試す、というのは?」

 

「神婚を経て、そなたには“風を聴く力”が芽生えているはずだ。
自然の息吹と対話し、風の行方を読む。私の一部が、そなたに根づいたのだ」

 

八雲さまが掌をふわりと掲げると、空気がすうっと澄み、社の庭に風が巻いた。
その風が、わたしの頬に触れた瞬間――心にことばが届いた気がした。

 

「……“ようこそ”……って……?」

 

「聞こえたか。木々の声だ。
自然は、常に語っている。ただ、人がその耳を持たぬだけでな」

 

わたしは、そっと目を閉じて、掌を広げてみた。
すると、小さな風が指先をくるりと包んで、どこか嬉しそうに揺れた。

 

(……わたし、本当に……)

(八雲さまの花嫁になったんだ……)

 

そのとき――社の外から、ざざっという音がした。

 

八雲さまがわたしを庇うように前に出た。

 

「誰だ」

 

すると、木立の向こうから、数人の男たちが現れた。
白川家の紋付きの羽織を着ている――屋敷の遣いの者たちだ。

 

「これはこれは、八雲の大神。突然の無礼、お許しを。
白川家より、花嫁を迎えにまいりました」

 

「……花嫁? 何のことだ」

 

男たちは、ちらりとわたしを見て、にやりと笑った。

 

「ご息女・綾女さまには、“神事”を終えられた今、
白川家の神事継承者として、再び家に戻っていただきたく……」

 

「ありえぬ」

 

八雲さまの声が、ぴたりと空気を止めた。
その静けさに、男たちは一瞬だけ身をすくませる。

 

「綾女は我が花嫁であり、この社の神婚の姫。
そなたらの都合で動かすことなど、決して許されぬ」

 

「し、しかし、綾音さまのお達しが――!」

 

やはり、綾音……。
彼女は、わたしが“神の花嫁”となったことを聞きつけて、再びわたしを“道具”にしようとしている。

 

(いまさら……どうして)

 

でも、その理由はすぐに分かった。
わたしの中に“神力”が宿ったことが、彼女にとって脅威なのだ。

 

「お引き取りを。綾女は、ここで生きる」

 

八雲さまのその言葉に、男たちは言葉を失い、ぎりぎりと歯噛みして山を降りていった。

 



 

その夜、わたしは八雲さまに尋ねた。

 

「……わたしが、屋敷に戻されたら、神さまとは、もう会えなくなりますか?」

 

「……綾女。そなたはもう、ただの人ではない。
私の神力を宿し、社の結界に守られた存在。
だれにも、奪わせはしない」

 

その声に、胸が熱くなった。

 

「……わたし、もっと……強くなりたいです」

 

「……なぜ?」

 

「だって……また、あの人たちが来たら。
わたしを、八雲さまのもとから引き離そうとしたら……。
わたしは、ちゃんと、“ここにいる”って言いたい」

 

八雲さまは、ふっと息を吸い込んで、わたしの手を両手で包み込んでくださった。

 

「……ならば、そなたに“風守の加護”を授けよう。
神の花嫁として、そなたを守る“風の鎧”。
誰にも手出しできぬよう、そなた自身の力で、この社を守るのだ」

 

その手がわたしの胸元に触れると、風がぱあっと舞い、
わたしの周囲に淡い光が灯った。

 

――わたしの中に、風が宿る。

 

それは、ただ守られる存在ではなくなるということ。
神の花嫁として、八雲さまの“対”となる存在になるということ。

 

もう、わたしは誰かに連れていかれるだけの存在ではない。

 

――“神に選ばれた、ただひとり”なのだから。