山の社での暮らしは、驚くほど穏やかだった。

毎朝、澄んだ空気の中で目を覚まし、鳥の声を聞きながら小さな祠を清める。
水を汲み、香を焚き、拝殿の扉を開けると、いつもそこには――

 

「おはよう、綾女」

 

――八雲さまの微笑みがあった。

 

白銀の髪を風に揺らし、狩衣の袖を静かに揺らすその姿は、どこまでも静謐で、けれど確かに“あたたかい”。

神さまのはずなのに、わたしを見つめるその眼差しには、ひとりの人としての深い思いが滲んでいて。

 

「……あの、八雲さま」

 

「なんだ?」

 

「こんなに幸せで、いいのでしょうか……?」

 

つい、ぽつりとつぶやいてしまった言葉に、八雲さまは少しだけ目を細めて、微笑まれた。

 

「なぜ、自らの幸せを疑う?」

 

「だって、わたし、なにも持っていないのに……。
綺麗でもないし、力もない。花嫁に選ばれるような器でも、ないのに……」

 

すると八雲さまは、わたしの手を取り、その手のひらに額をそっと触れられた。

 

「そなたが、自らをそう思うのなら――私が何度でも言おう」

 

「……八雲さま……?」

 

「私は、そなたの在りようを愛しく思う。
比べられずとも、競わずとも、誰かよりも優れていなくとも、
“綾女”というただ一人を、私は望んだのだ」

 

その声は、風のように胸にしみて、思わず涙がこぼれた。

その日、八雲さまは言った。

 

「綾女。そなたを正式に、我が花嫁として迎えたい。
神前にて、契りを交わし、そなたをこの社の“神婚の姫”とする」

 

わたしは、思わず顔を上げた。

 

「……ほんとう、に?」

 

「私の神力と、そなたの魂を結び合わせる。
それは人の常の“婚姻”とは異なるが、誓いの重さに変わりはない」

 

その声があまりに静かで、真剣で。
胸の奥から込み上げてくる感情に、わたしはただ、頷いた。

 

「はい……。どうか、わたしを……八雲さまのおそばに、置いてください」

 

その言葉に、八雲さまの目が細められた。

 

「……ようやく、そう言ってくれたな」

 

 

* * *

 

神前の儀は、三日後。
社の奥、普段は立ち入れぬ神域にて、静かに執り行われた。

 

白木の祭壇に、神鏡が置かれ。
わたしは白無垢に身を包み、八雲さまと対座していた。

 

人と神が、魂を結ぶ儀――神婚の儀。
その中で、八雲さまは誓いの言葉を告げてくださった。

 

「風の神、八雲は此処に誓う。
綾女を伴侶とし、わが魂と結び、永久に守護せんことを」

 

わたしもまた、小さく震える声で応えた。

 

「白川綾女は此処に誓います。
八雲さまのそばに在り、その御心に寄り添い、生きてゆくことを……」

 

神鏡に映るふたりの姿が、ふわりと淡く光った。
風が吹き、鈴の音が鳴る。
その瞬間――わたしの身体の奥に、何かが静かに芽吹いた。

 

それは、言葉にできない、温かな力。

八雲さまの神力の一部が、わたしの中に宿ったのだと、あとで知った。

 

「これで、そなたは私の花嫁だ。もう誰にも否定させはしない」

 

八雲さまは、そっとわたしの頬に手を添え、額を重ねてくださった。

 

「……八雲さま……」

 

わたしは、その手にすべてを預けるように、瞳を閉じた。

心も身体も、すっかり委ねた瞬間だった。

 

その夜、わたしたちはふたりきりで、静かに手を重ねた。
言葉は少なくても、伝わる想いは確かにあって。

 

八雲さまの手は、ほんとうにあたたかかった。
わたしを“誰でもない誰か”ではなく、“ただひとり”として包んでくれるその手を、
もう二度と離したくはなかった。