「姉さまは、社にでも捨てられたらどう? ちょうど、山の神さまに拾ってもらえるかもしれないわよ?」

 

綾音の声は、まるで小鳥のさえずりのように甘やかで、それでいて胸に棘を刺すような毒を孕んでいました。

 

――それは、父の書斎での出来事でした。

 

「白川の長女でありながら、縁談ひとつ来ぬとは情けない。
綾音にはすでに、東院家からの正式な申し出があるというのに……」

 

父は深くため息をつき、重々しく告げました。

 

「綾女、おまえは明日から屋敷を出て、山の社に住み込みで奉仕せよ。
あそこにはもう誰もいかぬが……神職の一人くらい、置いておくにはちょうどよい」

 

「お父さま、それって……わたしを、追い出すということでしょうか……?」

 

「追い出す? 何を言っている。神職とは本来、尊き務めだ。
そなたにできることが、ようやく見つかったのだ」

 

言葉の端々にある“呆れ”と“諦め”。
わたしは、ただ家に“居ても仕方のない存在”になってしまったのだと悟りました。

 

綾音は、父の背後で美しく微笑んでいました。

 

「よかったわね、姉さま。これでお役目ができるのね。
お父さまのご判断に、心から感謝しないとね」


(……そう、仕組んだのは、綾音だった)

 

その確信は、あの妹の微笑ひとつで十分だった。
この家において、父を最も上手く操るのは、他ならぬ綾音だったから。

 

「……はい。分かりました。では、明日から社で暮らします」

 

自分でも驚くほど、声は静かだった。
心の奥に、八雲さまの言葉が灯っていたから。
「見放されても、私はそなたを手放さぬ」――あの優しいまなざしが、わたしを支えていた。

 

屋敷を出るその朝、綾音が見送りに来た。
艶やかな桃色の小袖を揺らし、まるで祝言にでも向かうかのような姿で。

 

「姉さま。おめでとう。神さまのお側に仕えるなんて、まさに天命ね」

 

わざとらしく手を打って笑う妹。
でもその瞳は、ひどく冷たくて、どこか焦りのような光すら浮かんでいた。

 

「……綾音」

「なに? 姉さまの最後のお願いでも聞いてあげようか?」

「お願い、じゃない。……ただ、ありがとう」

 

「……え?」

 

「わたしを、社に送ってくれて。本当に、ありがとう。
わたし、八雲さまのそばに行けることが、何より幸せなの」

 

綾音の目が、瞬きもせずわたしを見つめていた。
その顔に浮かんだ表情――それは、はじめて見る“困惑”だった。

 

「……っ、ふぅん。じゃあ、せいぜい神さまに気に入られるといいわね。
けれど忘れないで。あなたは、白川家の“落ちこぼれ”。
社でどんなに良くしてもらったって、人間の価値は変わらないのよ」

 

そう言い残して背を向けた綾音の背中に、ひらりと風が吹いた。
あの子の長い黒髪が揺れて、冷たい光がそのうなじを撫でていく。

 

けれどわたしは、もう知っている。
「誰かと比べて」ではなく、「わたし自身」が大切にされていいのだということを。

 



 

社の鳥居をくぐった瞬間、ふわりと温かな風が頬を撫でた。
石段の上に立つ八雲さまが、わたしを迎えてくださっていた。

 

「ようこそ、綾女。……私の花嫁」

 

「っ……は、な……よ、め……?」

 

「……失礼。まだ早すぎたか?」
ふっと笑うその声に、わたしの胸がきゅうっと締めつけられた。

 

「でも、間違ってはいない。
そなたは、我がもとに来た。人の縁を離れ、ここで生きる道を選んだ」

 

八雲さまの手が、そっとわたしの髪に触れた。
まるで祝福するように、やわらかな風が舞い、社のまわりに花が咲いた気がした。

 

「……今日からは、ここがそなたの家だ。
何も恐れることはない。誰かに否定されることも、比べられることもない。
そなたはそなたとして、ここに在ればよい」

 

涙が、こぼれそうになる。

 

「……八雲さま、わたし、本当に……いいんでしょうか……?
この場所にいても……神さまのおそばにいても……」

 

「綾女」

 

八雲さまの声が、凛として優しく響いた。

 

「この社の神である私が、そう命じる。
綾女を、この地に招き入れる。わがもとに置き、共に在ることを望む。
……さあ、此処へ」

 

その手が差し出される。
その指先に、迷いはひとつもなかった。

 

わたしは、そっとその手を取った。
涙で潤んだ目に、白い光が差し込む。

 

それが、わたしの新しい始まりだった。

 

誰にも望まれなかった“令嬢”は、
いま、神の手に抱かれて――“たったひとり”として愛され始める。