最底辺の氏神さまは、虐げられたご令嬢です。 〜妹と比べられて暮らしてきましたが、氏神さまに愛されて幸せです。



翌朝、朝露が庭にきらきらと光るころ。
わたしは、いつもより早く目を覚ましました。心臓がふわふわして、胸がいっぱいで。
まるで、夢を見ていたみたいだったから。

 

──昨日の、八雲さま。
あの穏やかな声。そっと触れてくださった手。
「美しい」と、そう言ってくださった言葉が、心の奥で何度も何度も響いています。

 

(……神さまなのに、どうしてこんなに優しいの?)
(どうして、わたしなんかに……)

 

「綾女、また山か? まったく、あれは姉さまの“唯一の取り柄”なのね」

 

廊下の向こうから綾音の声が聞こえてきます。
ふわりと香る上等な白梅の香。わたしのものとは比べものにならない、美しい着物を揺らしながら、綾音はすれ違いざまに笑いました。

 

「今日、お父さまに新しい縁談の話が来るの。あたしのね? この国でも指折りの名門よ。姉さまは、社で葉っぱと遊んでなさい」

 

……綾音は、ほんとうに綺麗です。
声の出し方、歩き方、視線ひとつまでもが人を惹きつける。
それなのに、その瞳には、ずっと前からわたしへの「見下し」が宿っているのです。

 

でも、もう……昨日の八雲さまのお言葉が、わたしの心を守ってくれました。

 

「……綺麗な人に、綺麗な言葉を使ってほしいな。綾音」

 

そう返すと、綾音の目がぴくりと揺れました。
少しだけ、言葉に詰まったその顔は――まるで初めて見る、妹の素顔のようで。

 



 

山の社は、今日も静かでした。
朝露を含んだ葉の香り、鳥たちのさえずり。
でも……何かが、少しだけ違う気がしたのです。

 

(……空気が、やわらかい)

 

石段を登り終えたとき、そこに――待っていてくださったかのように、八雲さまの姿がありました。

 

「ようこそ、綾女。今日も来てくれたのだな」

 

そのお姿は、白い光に包まれるようにして、凛としていて。
でも、柔らかに笑ってくださるその顔は、人と同じあたたかさに満ちていました。

 

「はい……どうしても、来たくなってしまって。
八雲さまに、また……お会いしたくて」

 

わたしの言葉に、八雲さまは少し目を細めて、静かに言いました。

 

「私も同じだ、綾女。そなたがここに来てくれる日が、私は何より嬉しい」

 

その言葉が、また胸を温かく満たしてゆきます。
まるで、八雲さまの存在そのものが、わたしを包んでくれるようで。

 

「……あの。神さまに、こんなことを言ってもいいのか分かりませんけど……」
「八雲さまと話す時間が、わたしにとっては、一番……幸せです」

 

八雲さまは、ふ、と目を伏せて、静かに頷かれました。

 

「それは私にとっても同じ。……綾女。私は、そなたに伝えたいことがある」

 

「伝えたい……こと、ですか?」

 

八雲さまは社の中へ、手招きするようにわたしを誘われました。
いつもは掃除のときにしか入らない、本殿の奥。
わたしは少しだけ戸惑いながら、そのあとをついていきます。

 

木の扉が開くと、そこには神気に満ちた空間がありました。
古のまじないが刻まれた天井、香の匂い、清められた静謐。
まるで、時の流れさえ止まってしまったようでした。

 

「ここは、私の結界の中。俗世のものは入り込めぬ、神の領域だ」

 

「……わたし、ここに、入ってよかったんでしょうか……」

 

「綾女。そなたは、もうすでに“私の許し人”なのだよ」

 

ゆっくりと、八雲さまはわたしの肩に手を置いて、こう続けました。

 

「そなたが、我が社を大切にしてくれた日々。その祈りが、我が神力に届いた。
……そして、私は気づいてしまったのだ。
人と神の間にあっても、心は寄り添えるということに」

 

八雲さまの声が、いつになく深く響きます。

 

「綾女。……そなたを、私の側に置きたい。
社の巫女としてではない、“神の伴侶”として──ここに迎えたい」

 

息が、止まりました。

 

神の、伴侶?

 

まるで、時間が止まってしまったかのような静けさの中で。
わたしは何も言えず、ただ呆然と八雲さまを見つめることしかできませんでした。

 

「もちろん、すぐに答えを出さなくともよい。
だが、忘れないでほしい。
……そなたが、人々に見放されても、私はそなたを手放さぬ」

 

――八雲さまの目は、真剣でした。

 

優しいだけじゃない。
この世界を見てきた、強い神さまのまなざしで、わたしを見ている。

 

「……わたしなんかに、本当に……いいんでしょうか……?」

 

「“わたしなんか”ではない。綾女、そなたは、綾女であればいい。
私は、そなたという“唯一”を望んでいるのだ」

 

まるで夢のようでした。
神さまに、こんなふうに見つめられる日が来るなんて。
誰かに“唯一”として必要とされる日が、わたしにも来るなんて――

 

涙が、止まりませんでした。

 

わたしの心に、静かに芽生えた感情。
それが、恋と呼べるものだと気づくのには、まだ少しだけ時間が必要でした。