【序章】 月の傍らで、独り

 

月が、欠ける夜だった。

 

地上の人々が眠る頃、
天上の社で、八雲はひとり、静かに風を聴いていた。

 

「……また、何も変わらぬ夜だな」

 

かつて――この国には、あまたの神がいた。
天の理を司る神、山を守る神、雨を招く神、
そして、村のひとびとの暮らしに寄り添う氏神。

 

八雲はそのひと柱。
とある山あいの里を護る“風と空気”の神であった。

 

「願いが、またひとつ消えた」

 

里のひとびとの願いを、すべて叶えられるわけではない。
病を救えぬことも、争いを止められぬこともある。

 

祈りが届かぬとき、
村人は、神棚を外し、名を呼ばなくなる。

 

「……所詮、私など……風にすぎぬ」

 

神とは、あまりに孤独だった。
姿を見せず、声も届かず、ただ「あるだけ」の存在。

 

だからこそ八雲は、
“愛する”という感情を、千年を超えても理解できずにいた。

 

 

──しかし。

 

ある日、ひとつの願いが舞い降りた。

 

「どうか、妹ではなく、わたしを見てください。
どうか、ひとつでいい、わたしの願いを、叶えてください――」

 

声は、震えていた。
涙と共に、こぼれるようにして祈られたその願いは、
どこか、いままでとは違う色をしていた。

 

「……名もなき娘。だが……これは、あまりに真摯だ」

 

そのとき初めて、八雲の胸に小さな“疼き”が走った。

 

欲を伴わず、ただ心からの寂しさだけで発せられた願い。
その純粋さに、神の心が、揺れた。

 

「……会ってみたい。……この願いを紡いだ者に」

 

ふと手にした風花の香に、心がほどけていくような感覚があった。

 

それは、神として初めて抱く“焦がれる”という情だった。

 

 

 

【一章】 人の世に降りる風

 

それから、八雲は人の世をよく見るようになった。
あの願いの娘――“綾女”を、静かに、見守るようになる。

 

最初はただ、「興味」だった。
だが次第に、胸を締めつけるような感情が生まれはじめる。

 

「どうして、あんなにも……彼女は笑わぬ」

 

綾女は静かだった。
妹に疎まれ、父に冷遇されながらも、
決して人を呪わず、日々、小さな幸福を慈しんでいた。

 

神としては、何千という願いを見てきた。
だがこんなにも、傷つきながら“人として咲こうとする魂”に出会ったのは、初めてだった。

 

「……人の寿命など、瞬きほどだというのに。
それでも、彼女はひたむきに、生きている」

 

八雲は、もはや神の座から綾女を“見下ろす”ことができなかった。
ただ、風となり、音となり、彼女のそばに居たいと思った。

 

神でありながら、人に心を寄せるなど本来なら背徳だった。

 

しかし――八雲は、こう思ったのだ。

 

(この想いが、罰だというなら、喜んで受けよう。
この千年、風として吹くだけだった私が、ようやく“誰かを愛した”のだから)

 

 

 

【終章】 未来の花へ

 

八雲は、ひとつの決意をする。
「いずれ綾女が氏神の花嫁となるとき、
この命を、人のそばに降ろす」と。

 

神でありながら、花嫁を迎える――
それはすなわち、神の役目を手放す覚悟でもあった。

 

けれど、それでもよかった。

 

「……いつか、私を知ることがあったとして、
そなたが私の手を取ってくれる日が来たなら――
私はこの千年の孤独を、誇りに思えるだろう」

 

彼はそう、風に誓った。

 

花のように、風に揺れる綾女を守るために、
風の神は待ち続けた。

 

月が、満ちてゆく。
あの花が、ついに咲く日を信じながら――

 

八雲の心は、そっと人に降りていった。

 

──スピンオフ『月夜の神、花を待つ』・了──