【一章】選ばれたのは、わたしだったはず

 

姉は、私の影だった。

父に叱られても黙っていて、
母が亡くなった日も泣きもせず、ただ座っていた。

 

私は、違った。

泣けば誰かが慰めてくれたし、
笑えば誉められた。

「綾音は出来がいい」「綾音こそ、この家の誇りだ」

それが、私をかたちづくっていた。

 

……でも、いつからだろう。
姉の無表情が、だんだん怖くなったのは。

 

「何を考えてるのかわからない。気味が悪い」
「人形みたいな姉さま」

そう言って、遠ざけたのは私のほうだったのに。

 

姉が笑わなくなったのは、
ほんとうは、私が“笑うことを許さなかったから”だと、
気づいたのはずっとあと。

 

 

【二章】神が見ていたのは、私ではなかった

 

春の日、あの社に姉が選ばれたとき。
私の心は、崩れた。

 

どうして?

ずっと、私のほうが褒められていたはず。
美しく、才があり、家を継ぐべき娘だと。

 

なのに、神が手を伸ばしたのは、
一度も誉められなかった、姉だった。

 

あのときの、父の沈黙。
村人の目の変化。

 

(やっと“綾女”が認められた――)

誰もがそう思っていた。

 

私は、怖かった。
愛されたことがない姉が、神に愛されたことが。

 

それは、私がずっと持てなかった“本物の居場所”だったから。

 

 

【三章】奪えなかったもの

 

何度も姉をなじった。
あんなのはまやかしだ、神の気まぐれだ。

でも、八雲様が姉を見つめるまなざしは、
一度も揺らがなかった。

 

私は、知ってしまったのだ。
自分は、“選ばれる側”ではなく、
“選ばれなかった側”だったのだと。

 

美貌も、才能も、努力も、
愛の前では、無力だった。

 

だから、遠くに嫁いだ。
家を出るとき、姉は泣きもしなかった。

でも――わたしは、その冷たい横顔を見て、
初めて“寂しさ”を知った。

 

 

【終章】手紙という名前の懺悔

 

あれから十年。

姉は、幸せに暮らしていると聞いた。
神の子を産み、社の奥に花を咲かせていると。

 

私は、一人になっていた。
夫は戦に倒れ、子はなく、
ようやく気づいたのだ。

 

(……私が欲しかったのは、誇りじゃない。
ただ、“愛された”という確かな感情だった)

 

ある日、私は短い手紙を綴った。

 

姉さまへ

あなたの静かな強さを、私はずっと怖れていました。

でもいま、ようやく分かりました。
あなたは、誰にも見えない場所で、
誰よりも愛に飢えていた。

私が与えられるはずだった優しさを、
私が一番遠ざけていたのだと。

どうか、お幸せに。

あなたを傷つけた妹より。

 

封もせずに、それは風にあずけた。
どこかで、姉に届けばいいと願って。

 

すると、不思議なことに、
ふわりと風が吹き、社の方角から桃の香りがした。

 

(……ああ、あの人が、見てくれているのかもしれない)

 

そして、ぽろりと涙がこぼれた。

 

憎しみではなく、
悔しさでもなく――

ただ一筋の、懺悔のしずく。

 

 

それが、
綾音というひとりの妹の、
もう戻らぬ愛への祈りだった。