春の山里に、桃の花が揺れている。

 

あれから、月日は静かに流れた。
娘はすっかり大人びて、都の学院に通うようになった。

 

家に戻るのは、季節の折々だけ。

 

「すっかり、旅人のようね」

そう笑ったとき、八雲さまはわたしの隣で、娘の着替えをたたんでいた。

 

「……あの小さな手で、わたしの髪をひっぱって泣いていたのにね」

「ふふ。あのときの泣き顔は、そなたにそっくりだった」

 

「もう……甘やかしすぎて、きっと誰にも嫁げませんよ」

「嫁がせたくなど、ないからな」

 

くすくすと笑い合いながら、湯気の立つ茶をすすぐ。
この静かな時間が、宝物のように思えた。

 

 

* * *

 

――春も深まり、山に緑が満ちる頃。
ある朝、わたしは指の節にふと老いを感じた。


(ああ、そうか。わたしはもう、あのころの綾女じゃないのだ)

 

肌に浮かぶ小さな皺も、髪に混じった白も、
いつしか“わたし”という物語の一部になっていた。

 

だけど、隣にいる八雲さまは――
変わらない。
最初に出会ったあの日と、微笑みの形が、何も変わらない。

 

「……わたし、老いましたね」

 

そう言うと、八雲さまは少し眉を寄せ、
わたしの手をそっと取り、そっと唇を触れさせた。

 

「この手が、私をここまで連れてきてくれた。
この手が、娘を抱き、私の名を呼び、
この手が……私の世界を愛で満たしてくれた」

 

「……八雲さま」

 

「時がどう変わろうと、私はそなたを“今のまま”愛している。
十七の綾女よりも、いまの綾女が好きだ」

 

涙が滲んだ。
やさしい言葉の重さが、静かに胸を満たしていく。

 

「……好きです、八雲さま。いまのわたしを、こんなふうに好きだと言ってくれるあなたが」

 

わたしたちは、何度も何度も、指を重ね、手を握りあう。

 

 

* * *

 

やがて、娘が嫁ぎ、
孫がわたしたちの元に遊びにくるようになっても――

 

八雲さまは、わたしの隣を離れることはなかった。

 

「君がいるから、私は“人であること”を選んでよかったと思える」

「わたしも……。あなたと歩いたこの人生を、どこから振り返っても、幸せと言えます」

 

時折、身体がきしむ夜は、
八雲さまがわたしの髪をゆっくり梳きながら、
子守唄のように風の音を紡いでくれる。

 

(……もうすぐ、わたしの時間は終わるのかもしれない)

 

けれど、不思議と怖くなかった。

 

だって、八雲さまはきっと、
わたしを見つけ出してくれる。

 

次の命で。
次の時代で。
次の世界で。

 

そしてまた、名を呼んでくれる。
「綾女」と。

 

その夜、
眠るわたしの手を握りしめたまま、八雲さまが囁いた。

 

「また、めぐり逢おう。
春の香りが舞うころに、
そなたと、手を繋ぎに行く」

 

そして、彼の声がやわらかく重なる。

 

「愛しているよ、綾女。千年の孤独の果て、
ようやく見つけた、わが最愛の人」

 

 

* * *

 

そしてまた、季節は巡り――

 

春。

 

大学の図書館で、一冊の本を手にしていた青年がいた。
ふと、ページをめくる手が止まる。

 

(……この香り……知っている気がする)

 

彼が見上げた先。
窓の外に、一輪の桃の花が揺れていた。

 

そのとき、向かいの席に座る女性が、ふと顔を上げた。

 

「……あの、はじめまして、ですよね?」

 

目が合った瞬間、胸の奥に懐かしさが満ちた。

 

あたたかい風が吹く。

 

再び、時が満ちたのだ。

 

──それは、終わりではなく、
永遠に続いてゆくひとつの愛の輪廻。

 

 

また、ここから始めよう。
あなたと、この手のぬくもりを抱いて――